August 21st, 2014

2014年8月21日 詩編を読もう:神って誰? (詩編18:1-4, 21-32)

詩編を読もう, by admin1.

今週は詩編18編読む。この詩編は119編(176節)、78編(72節)に続いて3番目に長い詩編。そこで、新共同訳聖書では、1-4節および21-31節だけを読む。いつものように気になる言葉は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編18編 
1:【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】
2:主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
3:主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。
4:ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。

21:主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
22:わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。
23:わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。
24:わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。
25:主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
26:あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に
27:清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。
28:あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。
29:主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
30:あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。
31:神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、3節にある「岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔。」

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。1節にある言葉から、ダビデがピンチに立たされたが救い出された時に歌ったものであることがわかる。そして、実はこの詩編、サムエル記下の22章に、ほとんど同じ言葉で記されている。聖書は結構重複しているところがある。さて2-4節では、長い詩編の冒頭に、「私の力である主を慕う。主は、たとえるなら、私の岩、砦、逃れ場、神、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔である。だから主を賛美し、私は主を呼び求め、その主がわたしを救い出してくださる。」と詠う。ダビデが主を慕い、賛美する理由を、「岩」以下「砦の塔」までさまざまな物にたとえて、短く詠っている。そして5節以降では、そのようなたとえをさらに多岐にわたって表現していこうとしているようだ。21節から25節では、ダビデ自身の主に従う行動基準とそれに報いてくださる主を表現している。「わたしの正しさに報いてくださる。手の清さに応じてくださる。わたしは主の道を守り、神に背かない。わたしは主の裁き、掟を近くに置いて行動する。わたしは主に対して純粋で、罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じてくださり、主の目に対してわたしの手は清い。」また26節から28節では、「わたし」という表現はなくなり、ダビデだけに限らず、主に従う人々やそうではない者にも対象を広げて表現しているのかと思う。「主は慈しみに生きる人に、それを示し、純真な人には純真に、清い人には清い。心の曲がった者には背を向け、貧しい民を救い上げ、高ぶる目を引き下ろす。」そして、29節30節では再び「わたし」という言葉が登場し、ダビデ自身の体験談のイメージだと思う。「主はわたしのランプをより明るくしてくださり、闇の中でも歩めるようにしてくださる。主がいてくださるから敵軍を追い散らし、また敵の城壁をも越えることができる。」31節になると、また「わたし」という表現を使わずに、「神の道は完全、主の命令は炎のかたまりのようなもの。主のもとに身を寄せる人には、盾となってくださる。」

この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。24日の聖日に与えられているマタイ16章13-20節では、イエスは弟子たちに「あなた方はいったい私を誰だと言うのか?」という質問をしている。その応えを、紀元前1000年ごろダビデが詠っていたようにも感じる。そして、わたしたちは、この賛歌を参考に、ひとりひとり、詩編18編の個人バージョンを作詩するように導かれているのではないだろうか? その時、ダビデが3節で詠ったようなたとえ、いやさらに広がりのあるたとえも良いと思う。しかし、イエスが私たちの罪を背負って十字架に架かった方なので、それらのたとえが自分勝手で私利私欲ではないように注意したいと思うが。 アーメン
安達均

Back Top

Comments are closed.