今週は詩編26編を読む。12 節という比較的短い詩編だが、聖書日課にあるように、最初の8節だけに集中する。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。
詩編26編
1:【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
2:主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。
3:あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。
4:偽る者と共に座らず/欺く者の仲間に入らず
5:悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません。
6:主よ、わたしは手を洗って潔白を示し/あなたの祭壇を廻り
7:感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
8:主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。
気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節、「主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」を挙げる。
詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。先週与えられていた詩編18編の状況と共通しているのかと思う。 ダビデがサウルの手によって、絶対絶命のピンチに立たされている時に、ダビデが(あるいはその時のダビデの状況を察して後世の詩編作者が)詠った詩だと思う。 ただし、18編では、ダビデの安全が保障された時、既にピンチの状況から救い出された後に詠っている賛美だったが、それとは対象的に、26編ではまだ救い出されるかどうかわからない時に詠っているのだと思う。 さて最初から詳しく読んでいきたい。 1節:絶対絶命、生きるか死ぬかという状況の中でダビデはまず、主なる神の審判を望んでいると詠うが、それだけではなく、自分の主張も入ってくる。 自分は完全な道を歩んで来たし、主を信頼して横道にそれたこともありません、と詠う。2節:どうか主よ私が潔癖なことを、調べ、試してみてください。私の五臓六腑や心臓(感情や心情?)が正しいということを、火を用いてでも、試してみてください。3節:あなたのゆるぎない愛が私の目の前にあって、このような絶対絶命の中にあろうが、あなたの真理に従って、主の道を歩んでいます。4節:私は偽る者とはいっしょに食事の席についたりすることはなく、あなたに背を向けて行動するような人々の仲間には入ってません。5節:悪事を企てようとする者たちを憎んでいるし、主に逆らう者とは座ったりもしない。6節:(救い出された時には)私は手を洗って自分が潔白であったことを示し、あなたの祭壇を回るようにします。7節:会衆とともに讃美歌を歌い、主から賜った驚くべき御業を次世代に語り伝えます。8節:主よ、あなたの宿る場所、サイナゴーグを慕っております。(礼拝堂にまた戻ることができるようひたすら望んでいます。)
この詩編を通して、主は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか?紀元前1000年ごろのダビデの置かれた様子が、なんとなくわかる気がしてくる。そしてその時の様子が、イエスキリストが十字架を担いでエルサレムを歩む様子にも重なってくる。ただし、イエスの場合は、死に至ることなく救い出されるダビデとは大きな違いがある。イエスは、徹底的な侮辱や辱めを受けたあげく死にて葬られ、しかし、死からよみがえり、復活される方。 そこには、違いがあるものの、ダビデが絶対絶命のピンチでも主を信頼していたように、人の子でありかつ神の子であるイエスも主なる父を信頼しつづけているという点で共通点があるのだと思う。そして、現代を生きるわたしたちにも、世の中がどうなってしまうかわからない状況、明日には世の終わりが来るかもしれないと思われる状況が来ようが、確固たる信仰、主イエスの信仰、を土台として、歩み続ける者になるように導かれていると思う。そして主イエスの信仰が土台となるということの表れとして、詩編作者が8節で詠っているように、礼拝に集いたくてしょうがなくなるような気持ちになってくるのだと思う。
8節の言葉は4月末から5月初めにパシフィカ教区の総会に行った時のことを思い出させる。アメリカ福音ルーテル教会(ELCA: Evangelical Lutheran Church in America)は全米に65の教区があるため、ELCAの総主教(Presiding Bishop)は65すべての教区総会に毎年出席することはできない。しかし、昨年総主教に就任したばかりのElizabeth Eaton総主教はパシフィカ教区総会に出向いてくださり、教区の牧師と信徒リーダーたちはユーモアあふれるしかし力強いメッセージを聞くことができた。その中の一つの大きなポイントは、神の使命を受けて礼拝を司ること、メッセージを取り次ぐこと、洗礼・聖餐式を執行することの大切さを改めて学ばされた。 そんなこともあり、先週の信徒会でも話したように9月からは少しだが、礼拝の形式が変わる。聖霊の働きにより、毎週の礼拝に導かれる方々の信仰生活の土台がさらに強まりますよう祈る。アーメン 安達均