August 30th, 2014

カール先生ご指導によるアーバイン家庭集会

家庭集会報告(Bible Study etc.), by admin2.

“Crisis at the Vineyard” 「ぶどう園と農夫のたとえ」

Mark 12: 1-12 マルコによる福音書12章1節から12節

Bible Study by Pastor Carl カール先生による聖書の学び会

August 26, 2014 2014年8月26日

 

今回でカール先生の「聖書の奇跡と譬え話シリーズ」は最終回となる。様々な主イエス・キリストが行われた奇跡の話や、語られた譬え話から、私達は自分では考えても見なかったような教えを学び、有意義なシリーズであった。

今日の話は、読み過ごしてしまうと、何がなんだか良く解らない譬え話である。先ず忘れてはならない事は、聖書の中の譬え話しは、神様が私達に語りかけている教えであり、神様と私達の関係が書かれているということである。

この譬え話しを簡単に纏めると:ぶどう園の持ち主は、ぶどう園の周りに柵を巡らし、見はりの櫓まで立て、このぶどう園を最高の状態に整えた。持ち主は自分でそのぶどう園を管理するのではなく、他の農夫に貸した。当時の風習では、ぶどう園のぶどうは、最初の3年は収穫してはならず、4年目の収穫は全てを神に捧げ、5年目からやっと収穫した物が自分たちの物となる。そのような契約が持ち主と農夫の間にあったに違いない。 他の土地に移り住んだ持ち主は、収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取る為に僕を農夫達の所へ送った。しかし、農夫達はこの僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。持ち主はまた他の僕を送ったが、今度も頭を殴り侮辱して送り帰した。さらにもう一人を送ったが、今度は農夫達に殺された。このように多くの僕を送ったにも拘らず、農夫達はこれらの僕を殴ったり、殺したりした。そこで持ち主は自分のただ一人の息子を農夫達の所に送る。自分の息子を送れば、農夫達はきっと自分の息子を敬ってくれるだろう、と持ち主は思ったのだ。ところが、農夫達はこの息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。この譬えをイエスはユダヤ人のリーダー達に話したのである。

この譬え話しをただ読むと、何故このぶどう園の持ち主は、何度も僕を送ったのだろうか、とか、自分が行かないで息子を送ったのはどうしてか、とか、何故  ぶどう園を借りている農夫達は僕に暴力を振るったり殺したりしたのか、そして最後には息子まで殺し、葬りもしないでぶどう園の外に放り出したのか? 質問が次から次に起こる。農夫達は多分自分たちが5年もかけて育てたぶどうだから、収穫を全部自分たちの物にしようと思ったのかも知れない。また、息子を送って来たという事は、もう持ち主は亡くなったのかも知れないから、この息子を殺してしまえば、このぶどう園は自分たちの物になる、と思ったのだろう。この話の最後を、9節でイエスはこのように終えている:「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫達を殺し、ぶどう園を他の人達に与えるに違いない。」と。続けて10節と11節には、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私達の目には不思議に見える。」と言われている。

この2節を理解するには、はやり譬え話しの内容を理解しなければ理解できないのではないか、という事が、私自身カール先生の解説を聞きながら解ってきた。

先ず、ここに書かれているぶどう園の持ち主とは誰の事を象徴しているかと言うと、神様である。ぶどう園は神の民を象徴し、ぶどう園を借りた農夫達は、神に逆らっている人々(ユダヤのリーダー達)を象徴している。僕は預言者達を象徴していて、持ち主の息子は主イエス・キリストを象徴している。このぶどう園で収穫されるぶどうは、人々の信仰を象徴している。

誰が誰を象徴している、何が何を象徴しているか、を理解してからこの譬えを読み返して、私はやっと最後の10節11節が理解することができたような気がする。

ぶどう園の持ち主である神はぶどう園である神の民を創造された。そして神の民が長い年月をかけて、良い実を結ぶようにと柵を巡らし、見張りの櫓を建てた。全地を創造された後、それを人類に託したように、このぶどう園の持ち主もこの土地を農夫に貸してその場から居なくなる。ところがこの神を信じない農夫達(ユダヤのリーダー達)は自分たちのやりたい放題に行動し、神が何度もこの世に送られた預言者達を殺してしまう。それでも神は何度も預言者を送られた程に、忍耐を持って人類を守り愛されている事が、 ぶどう園の持ち主が僕を何度も送った事から理解できる。そして最後に神は独り子の主イエス・キリストをこの世に送るが、持ち主が送ったひとり息子が殺されてぶどう園の外に捨てられたように、キリストも城外で十字架に架けられ殺されてしまう。イエスは、この譬え話しをユダヤ人のリーダー達に話している時、ご自分が十字架に架けられて死ぬ事をすでにご存知なのである。だから、10節と11節に、「捨てられた石(ぶどう園の外に捨てられた息子、城外で十字架に架けられたイエス)、これが隅の親石(基盤となる最も大切な石。これが無ければ全てが崩れてしまう)となった。」と言われているのだ。

9節で「持ち主が戻って来て農夫達を殺し、ぶどう園を他の人に与えるにちがいない。」とイエスが言っているのは、決して私達の神が「復讐の神」であると言っているのではないと思う。これは、イエスが大袈裟に、ユダヤ人のリーダー達に解らせようと言っている事だと思う。もちろん、12節にあるように、ユダヤ人のリーダー達は、イエスが自分たちに当てつけてこの譬えを話されたと気がついて、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れてその場を立ち去っている。しかも、これ程イエスが大袈裟に、「神の怒り」を教えているにも拘らず、ユダヤ人達は、最終的にイエスを十字架に架けてしまうのである。

私達は、「神は愛」と聞く事に平安を覚え安心する。しかしカール先生は、今回のこの箇所は、神がいかに真剣に人々に神の掟を解いているかを語っていると言われた。放蕩息子の父親のように、全てを赦し受け入れてくれる神の一面と、今日の譬え話しのように、契約を守らずに僕や息子を殺してしまった農夫達を殺すぶどう園の持ち主のように厳しい神の一面がある事を忘れてはならないという事なのである。ルーテルの神学校では、常にLaw(掟、法則)とGospel(福音)がバランスを取って教えられるそうだ。Law は神様が私達に神の掟に従うようにと期待していることであり、Gospelは、掟に従う事ができない不完全な私達であるにも拘らず、神様は赦してくださり、愛して下さるということなのだ。

では、この譬え話の教えを私達はどのように学ぶべきなのだろうか、と私は考えてしまった。神様を畏れよ、と言っているのか、それとも神様の送られた独り子を信じて大切にせよと言っているのか。それ以上に、私はこう思ったのだ。私達神の民は、神の創造したぶどう園であるこの世を任されているのだ。私達は、神様に託されたこの土地を大切にし、良い実を結ぶことに全力を尽くす事が大切なことなのではないだろうか。神様が創造されたぶどう園を、まるで自分の所有地のように自分勝手にする事無く、先ずはこの託された土地を大切にしよう、そして沢山の良い実を収穫できるようにしよう。時間もかかるだろうし、手入れも大変かもしれないが、神様は、ぶどう園の持ち主が柵を巡らし、見張りの櫓を作ってぶどう園を守ったように、私達を常に守っていて下さる。誰がこの土地を借りようと、持ち主は神様なのである。しっかりと収穫する事が私達の務めでもあり、喜びなのではないだろうか。                           芙美Liang   記録

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