September 11th, 2014

2014年9月11日 詩編を読もう: 慈しみの大きさ (詩編103:8-13)

詩編を読もう, by admin1.

今週は詩編103編8-13節を読む。103編は22節からなるやや長い詩編。1-2節と20-22節の最初と最後は、「主をたたえよ」という言葉が5回出てきている賛美の詩編であることを念頭におき読むようにしたい。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編 103編 
8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
9:永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。
10:主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。
11:天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
12:東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
13:父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

気になった節や言葉はどこだろう? 8節にある「慈しみは大きい」という言葉。

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。冒頭に書いたように、詩編103編全体は、「主をたたえよ」という言葉にはじまり、同じ言葉でしめくくられる讃美の詩編であるので、3節から19節のサンドイッチの中身は、なぜ主をたたえるのかという理由が、いろいろと詠われている。 そして、本日与えられている8-13節は、主をたたえる理由の中核部分なのだと思う。 一節ごとに想像力を膨らませながら読んでいきたい。歴史的にイスラエルの民全体に主がどれだけ、憐れみ深かったか、恵みに富んでいたか、忍耐強かったか、そして主の慈しみがとてつもなく大きかったかを振り返っているように思える(8節)。主はイスラエルの民を責めたり、民に怒りを覚えられたこともあったが、それらは、あくまで一時的なことでしかなかった(9節)。 主は決して罪の大きさに応じてあしらったり、報復したりするようなことはなさっていない(10節)。天は3次元で、2次元の地上より、はるかに高い空間を備えているように、主の慈しみは、主を畏れる民が感じることができる慈しみをはるかに超えた、とてつもない高さ・大きさがある(11節)。東方向と西方向は全く正反対で、東のはては、西のはてからは届きようがないようなところまで、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる(12節)。 父がその子をこの上なくかわいがるように、主を畏れる民をこの上なく憐れんでくださっている(13節)。 

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 詩編103編の3節から19節は、「主をたたえる」理由がいろいろ詠われているが、その最初の理由は、3節にある「主はお前の罪をことごとく赦し」という言葉が筆頭にある。 主の赦しの程度がどれほどのものかを8節から13節で形容しているかのように感じる。 そして、その赦しの究極を人類に示してくださったのが、主イエスの十字架の死と復活、なのだと思う。 

あの911から13年が過ぎた。 いまだに癒えない心の痛みを覚え続けておられる方々もいるのだと思う。とても赦せないという気持ちでいる犠牲者の家族・友人や、あるいは政治家も多いのだと思う。 オバマ大統領は、極端なテログループ、イスラム国(ISIS, ISIL)への空爆拡大を辞さないことを昨日表明したようだ。 そのような報道を聞いているのは、13年前の911の出来事が根底にあるのだとは思う。 その時のことは話でしか聞いていない今の中高生以下のこどもたちには、今の報道はどう聞こえてくるのだろうか? 911を覚えている私たちの世代は、911以降に生まれた世代に、どう語っていけばよいのだろうか? 

自分を十字架にかけ葬むる人類を赦し「平和があるように。」と言われる救い主イエスを覚える時、いろいろな思いがこみあげてくる。 さらに救い主イエスが顕われる数百年前に遡って、詩編作者たちが覚えた主なる神の慈しみの大きさを覚える時、神が21世紀を生きる人類にも、主なる神の慈しみの大きさを次世代に継承していくようにと言われているように思う。アーメン
安達均

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