今週は詩編28編を読む。「ダビデの詩」となっているが、ダビデの生きた時代を想像するより、もっと後世に生きた一人の詩編作詞者の時代背景を思い浮かべつつ読んだら良いかと思う。 では、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。
詩編28編
1:【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。
2:嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます。
3:神に逆らう者、悪を行う者と共に/わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。
4:その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて/彼らに報い、罰してください。
5:主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください。
6:主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
7:主はわたしの力、わたしの盾/わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。
8:主は油注がれた者の力、その砦、救い。
9:お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。
気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、2節に表現された「至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます」という祈る姿勢。祈るという行為は、両手を合わせて静かに祈るだけではなく、時と場合によっては、両手を上げて嘆き叫ぶ祈りもあって良いのだと思う。
詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。冒頭にも書いたが、詩編作者は、紀元前1000年頃のダビデの時代というより、イスラエルの指導者たちが腐敗し、その信仰が揺らぎ、神に悪とされる行為を実行してしまった時代があって、されにその時代にも救いが訪れたことを想像しつつ、読んだら良いのかと思う。 さて、一節づつ読んでいきたい。 大胆に「主よ」「私の岩よ。」と呼びかけ、「黙っていないでください。主が沈黙しておられるなら私は死んで墓に葬られてしまいます、それでもいいのですか?」と言わんばかりの強い呼びかけ(1節)。嘆き祈る私の声を聞いてください。私は手を挙げて、必死に叫んで祈っているのです(2節)。 私が、神に逆らう者、悪を行なう者の仲間にならないようにしてください。彼等は平和を唱えても、実は心の中で別のことをたくらんでいます(3節)。彼らの悪い行いに応じて、あなたが報いて、罰してください(4節)。彼等は主の恵みの御業を学ばず、理解せず、語ろうともしません。そのような彼等を滅ぼし、起き上がれないようにしてください(5節)。 6節以降は、ぐっと雰囲気が変わってくる。 主を賛美しよう。主は、嘆き祈る私の声を聞いてくださったから(6節)。 主は私の力であり盾でもあり、だから主に寄り頼みます。主が助けてくださり、私の心は喜び踊り、賛美の歌をささげて、感謝します(7節)。主は油注がれた者の力、私の砦であり、救い主(8節)。どうかあなたの民全部を救ってください。祝福してください。あなたの恵みを受け継ぐ民全部を。永遠に導き養ってください(9節)。
この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?この詩編は、詩編作者が生きた時代だけではなく、現代の我々の生きている時代にも、迫ってくるものがある。中東地域では戦争がまた起こってしまっている。また、日本を含めた、東南アジア地域にも、不和・葛藤が起こっている。民を代表して政治を司る者が、本当に心の中で何を考えているか、神の思いに従っているのか? また、詩編の中で「神に逆らう者、悪を行なう者」という人々は、世のリーダだけではなく、至るところに存在してしているのが現状だと思う。そしてうかうかしていると、3節にあるように、自分も神に逆らう者、悪を行なう者の仲間入りをしてしまうような面がある。悪を行なうという表現はきついかもしれないが、神の思いに従わず、神の思いから離れて行動している民が多いのだと思う。そして、その中に自分も入ってしまうことがあり反省を迫られる。 だから、毎週の礼拝で、罪の告白をすることの大切さがあると思う。 罪という言葉がピンと来ないなら、自分の不完全さとか、恥とかを、すなおに神に告げる大切さがあると思う。そして、毎週、礼拝に集う者として、今日の詩編にあるように、主に嘆き祈ろう。主は必ず、その祈りを聞いてくださることを信じて。アーメン
安達均