今週は詩編80編の8節から16節を読む。読むにあたって、10月5日の福音書個所、マタイ21:33-46に描かれたたとえ話を頭に思い浮かべながら詩編を読んでみるのも良いと思う。 何れにせよ、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。
詩編80編 8-16節
8: 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。
9:あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
10:そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。
11:その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。
12:あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。
13:なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
14:森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。
15:万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
16:あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。
気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節に「御顔の光を輝かせ」と詠い願っていること。 逆に言えば、イスラエルの民にとって、主との関係が悪化していることを思わせる。
紀元前8世紀ごろから6世紀はじめにかけてのイスラエルがどのような状態であったか、また6世紀半ばにはイスラエルの民がバビロンに捕囚されてしまったことも振り返り、詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。「木」と表現されているのは比喩で、イスラエルの民を表していると思われる。 万軍の神よ、との呼びかけのあと、信仰的に神の思いから異なる行いに走ってしまったイスラエルの民がバビロンに捕囚されてしまっているが、どうかイスラエルの地に連れ帰ってください。神の御顔を輝かせ、我々を救ってください(8節)。 神は、エジプトで奴隷として働きぶどうの木のようにやせ細ってしまったイスラエルの民を、エジプトから解放して、当時イスラエルの地に住んでいた民族を追い出してくださって、エジプトから帰ってきたイスラエルの民が、またこの地に住むことができるようにしてくださった (9節)。 イスラエルのさまざまな部族はイスラエルの地で部族ごとに割り当てられた地で繁栄してきた(10-12節)。 神はイスラエルの民を囲ってくださっていたのに、他の地からやってくる異なる信仰を持つ民が、イスラエルの民の信仰を揺るがせて、あなたから離れた行いをしてしまうようになりました(13-14節)。どうか万軍の神よ、天から今一度、あなたが弱っていた民をエジプトから解放し、あなた御自身のために強めてくださったイスラエルの民に、御目を注いでください(15節)。
この詩編個所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?10月5日の日曜日に与えられている福音書の個所は、ぶどう園運営を任された農夫たちだが、収穫をするころになると、ぶどう園を前もって整備してくださった農場主のことを忘れてしまう。 そして貪欲にまた自分勝手に収穫物を管理しようとする。おまけに、農夫たちは、農場主が送ってくる使用人と、さらに息子までも殺してしまうという悲惨なたとえ話。 農場主からいただいていた元々の恩恵を忘れてしまう農夫たちとは、この詩編に登場してくる、ぶどうや杉の木、また大枝や小枝のこと、つまり、イスラエルの民といえるだろう。しかし、自分勝手になってしまうのは、イスラエルの民だけではなく、地球に住んでいる人類全体のことも考えて、この詩編は詠われているように思う。 今日与えられた詩編個所は、現代の社会に、警笛を鳴らしているようにも思える。 主がすべてを創造してくださって、主が、わたしたちの不完全さや恥を、赦していたわってくださっている。しかし、それを忘れ、あるいは気づかずに、詩編に詠われた紀元前のイスラエルの民のように、現代の人類の多くが神との関係悪化に陥ってしまっているようでならない。その関係悪化とは、神は常に人類を悔い改めへと導いているのに、それに従っていない民が大勢いるということを危惧する。詩編作者と同じように、「主よ御顔を輝かせてください。お救いください。」と祈りたい。アーメン
安達均