今週は詩編34編の1 節から11節を読む。聖書日課では来週の月曜から水曜に読む詩編箇所が詩編34編となっている。その中で、12日の聖日に与えられた福音書箇所(マタイ22:1-14)との関係から、特に1-11節に集中したい。もちろん、余裕があれば、12節以降23節までもぜひ読んでいただきたい。何れにせよ、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。
詩編34編
1:【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、9節にある「味わい、見よ」という言葉。この言葉はイエスが最後の晩餐の時に、パンをとって感謝して、それを裂いて弟子たちに与える時、「取って食べなさい」(マタイ26:28)と言われた言葉と同じなのだと思う。詩編はヘブライ語を訳して日本語にしており、また,マタイ福音書ではギリシャ語を日本語に訳しているので、ニュアンスが変わって聞こえるかもしれないが。
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。詩編作者は、詩を綴ってゆく中で、ユダヤの礼拝を表現しているような場合がある。詩編34編はその例だと思う。 というのは、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、それが讃美歌になって歌われる。そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られているような面があるのではないだろうか。さて、一節づつ読んでいきたい。どんな場合でも絶えることなく私は主を賛美する(2節)。貧しい人々よ(まだ主を賛美する気持ちになれない人、礼拝来ていない人々よ)どうか讃美を聞き、そしていっしょに喜び祝おう(3節)。共に一体となって、主の御名を崇めよう(4節)。 私が主に求めると主は答えてくださり、脅かすものからいつも救い出してくださった(5節)。主を仰ぎ見る人は輝き、たとえ失敗や間違いを犯しても恥辱を味わったままになることはない(6節)。 虐げられてしまった者が主を呼び求めると、主はそれを聞き、苦難から救い出してくださった(7節)。 主が遣わす者が苦難の中にある者の周りに集まり、畏れて主を呼び求める者を助けてくださった(8節)。主の恵みの深さを味わってみなさい、主の元に身を寄せる人は、どんなに幸いなことか(9節)。主に創造されたすべての聖なる人々よ、主を畏れ敬え、主を畏れる人には不足はなく満たされる(10節)。 若者が欲するものが得られず飢えることがあっても、主を求める人は良いものが与えられ、不足することはない(11節)。
この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか? 10月12日の聖日に与えられている福音書箇所がマタイ22章1-14節、「王が人々を婚宴へと招く」たとえ話である。王は神であり、招かれた人々はわたしたち人間。 また、礼拝を婚宴にたとえているような感じもする。 詩編34編を読み、旧約聖書の時代から、主なる神が、人々を礼拝へと招いている。 礼拝の場に集うことは、物理的にただ礼拝の場に来ることが目的ではなく、精神的かつ霊的に、主を畏れ、主を求める人になること、悔い改めて信仰の道を歩む人々になっていくこと。それは、主の恵みを「味わい、見続ける」生活をすることだと思う。アーメン
安達均