October 30th, 2014

2014年10月30日 詩編を読もう: 慈しみを知らない民 (詩編43)

詩編を読もう, by admin1.

すでに26日の日曜日に宗教改革記念礼拝を守ったが、宗教改革の最大のきっかけは1517年10月31日に当時カトリック教会の司祭だったマルチンルターがドイツのウィッテンベルブにある教会の扉に当時のカトリック教会の慣習に、聖書に従っていない部分を指摘し、張り紙をしたことだといえる。そのマルチンルターにとって大きな影響を与えた一つの詩編に43編もあるように思う。いつものように詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編43編 
1: 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。
2: あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。
3: あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。
4: 神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。
5: なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

気になった節や言葉はどこだろう? 私は1節にある、「慈しみを知らぬ民。」
詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。それぞれの詩編が書かれた時期を特定することはむずかしい。しかし、簡単に歴史を振り返り、この詩編43編がどのような時代に書かれたか想像したい。 紀元前10世紀ごろにダビデが宗教上も政治上も、イスラエル12部族の民、地域をみごとに治めることができた時代があった。 しかし、王位が継承されていく中で、北のイスラエルと南のユダに分かれていってしまい、それぞれの多くの指導者が、旧約聖書の最初の五書であるモーセ五書に書かれていた掟に従わない時代になっていく。紀元前8世紀終盤には、イスラエル国は陥落する。またユダ国も紀元前6世紀中にペルシャに支配され、民は数十年間バビロンに捕囚される時代も来る。私はそのような時代背景の中で、信仰深い詩編作者たちが、モーセ五書の掟と葛藤し、そして、その教えに従わない多くの民を嘆き、それでも信仰を捨てず、神を賛美して、礼拝で詠われる詩編を次々に作詩していったように思う。特にこの詩編43編については、3節の言葉の中に、本来礼拝を行なう場所から遠く離れたところに詩編作者はおかれていて、いずれは、また聖なる神殿に導かれることを願い祈る言葉が書かれていることから、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代に作詩されたと想像する。そのような仮定のもと、各節ごと読んでいきたい。 神の慈しみを理解できない民、神の道を歩まず、横道にそれている者たちの中から私を救ってください。私の代わりに彼等と争い、神の裁きがありますように(1節)。 あなたこそ私の神で、罪深いものたちから私を守ってくださる砦です。しかし、なぜ、私を見放しておられるのでしょう。なぜ私はユダヤの指導部にもペルシャの民からも虐げられて、嘆きつつ、バビロンに連れて来られなければならないのでしょうか(2節)。あなたの輝きと真理をここに遣わしてください。あなたの輝きと真理は、わたしを導いて、また聖なる山、あなたのおられる神殿へと連れていってくれることでしょう(3節)。 そして神殿で、祭壇に私は近づき、喜び賛美し、「神よ、私の神よ」と琴を奏でて感謝の歌をうたうことでしょう(4節)。 しかし、現実は神殿から遠く離れていて、うなだれてしまい、私の魂が呻いてしまいます。 それでも、神を待ち望もう。私は告白します。主の御顔こそ、私の救いで、私の神です(5節)。

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 497年前の10月31日が宗教改革の発端だったとされる。当時のカトリック教会の指導部には、御心に従っていない部分もあったのだと思う。それをマルティンルターが指摘した。そのマルティンルターの思いと詩編43編の作者の気持ちには、相通じる要素もあるように思う。さらに500年近くたった今、世界中には、悔い改めの中で圧倒的な勢力のあるローマカトリック教会が存在し、また1世紀の初代教会のころから守られてきている東方正教会群が世界に点在しており、またこの500年間には、その数は三万とも言われるプロテスタント教会群があるといわれる。宗教改革が発端となって、多くのプロテスタント教会が誕生し、伝道は飛躍的に進んだともいえるのかもしれない。しかし、まだまだ真の神の慈しみ、イエスキリストの愛をわからないまま生きている民が多い現実がある。またキリスト教と名乗っていながら、宗派を問わず、戒律ばかりが重視されてしまう教会指導者が出ていることも否めない。そのような時代にあって、十字架に架かって殺され、墓に葬られても、復活し、この地球上の民を赦し生かしてくださっている、主なる神、イエスキリストが、ただしき道へと導いてくださるように祈る。アーメン 安達均 

Back Top

Comments are closed.