December 11th, 2014

2014年12月11日 詩編を読もう:夢を見る気分 (詩編126編)

詩編を読もう, by admin1.

今週は詩編126編を読む。すばらしい詩編の一つだと思う。先週復活ルーテル教会の50周年を祝ったなかで、また、待降節の時期にあって、この短い6節だけの詩編を何度か読んでみると良いと思う。 そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。

詩編126編
1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、「夢を見ている人のようになった」という言葉。 

さて詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。日本語だけを読んでいると、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に詠まれた歌のように思えるが、英語に訳されたもの(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い)から想像して、バビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、紀元前6世紀以降に起こった、何かの困難に直面した時に、将来への希望を抱いて詠われているように思う。では、一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、夢を見ているようだった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々も「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われた私たちを解放してください(4節)。涙しながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。

21世紀に生きている私たち、この詩編が訴えてくるものは何だろう? イスラエルの民は、バビロン捕囚から解放が起こった時、現実が夢のごとくに感じられた。同じように、私たちの人生においても、似たような体験があるのではないだろうか? 私は第二次世界大戦13年後に生まれたので、戦争中の厳しい体験を実体験していない。それでも、子供の頃に、1940年代の戦争という真っ暗闇とも言える状況から思えば、1960年代に起こっていたことが、「夢のようだ」と言われていたことを思い出す。 その現実はいったいどのように実現したかを考えると、ララ物資のような日系アメリカ人やクウェーカ教徒たちが中心になって働かれた日本難民救済の働きとか、逆説のようだが朝鮮戦争を支援するために日本に急速に産業が発展する必要が生じたとか、さまざまな要素があるのかと思う。それらは人間の計画というより、背後に働いている主なる神の存在を抜きにはとても考えがたいことなのだと私は思う。 そして、人類がしばしば経験する、困難は、個人的なレベルでも社会的なレベルでも、繰り返される現実がある。 どのような困難かはわからなくても、そのような困難、暗闇に直面した時に、すべてをご存知の御方が民を愛してくださっていることを確信し、夢が現実になることを思い出し、夢を見つつ希望を持って歩めますように。 待降節にあって、希望と喜びを抱きつつ。 アーメン 安達均

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