今週は詩編85編の2-3節と9-14節を読む。今年8月7日にも「詩編を読もう」で読んだ箇所。その時は広島と長崎の両原爆記念日にはさまれた日に読んだわけで、神が与えてくださる平和について考えさせらた。そして、同じ箇所を待降節に読むとき、新たな視点が与えられるように思う。 いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。
詩編85編
2:主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
3:御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ
9:わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。
気になった節や言葉はどこだろう? 私は、14節にある、「正義は御前を行き、主の進まれる道を整えます。」来る聖日に与えられている福音書箇所はマルコ1:1-8で、主イエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネが悔い改めのバップテスマを述べ伝えたことと重なってくるような面がある。
詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。主なるあなたがご自分の地(イスラエル)を希望され、ヤコブの子供たちの世代からエジプトに捕らわれ奴隷だったユダヤの民を、イスラエルに連れ帰ってくださったのを思い出します(2節)。自分の民の罪を赦し、あやまちをすべて覆ってくださった事がありました(3節)。という二節が詩編85編の最初に詠われる。そこには、過去の過ちが赦された時があって良き時代になったが、しかし、この詩編が書かれた時代は、また民が神から離れてしまい、困難に直面している時代だったのかと想像する。そして、今日の箇所ではないが4節から8節までは、神に救いを求める駆け引きとも思われるような言葉も出てきて、神への懇願が詠われている。そして9節以降は、現代の音楽でいえば、短調から長調に移調するような感じで、様相ががらりと変わって、賛歌になってくる。 御自分の民が愚かなふるまいに戻ることがないように、主なる神が平和を宣言なさるのを聞く(9節)。 主を畏れている人々(過去を悔い改めている人々)には救いは近く、主の栄光がいっしょにとどまってくださる(10節)。神の慈しみと真理は満ち溢れ、正義と平和は一体となる(11節)。雨が降って見事な植物が地面から芽を出して伸びてくるように、正義が降り注がれて、地上に住む私たちの間に真理が萌出でる(12節)。 主は天からかならず良いものを降らせてくださり、地に実りをもたらす(13節)。正義は主の前を行き、主が歩まれる道を整える(14節)。
詩編85編を通して、主が現代の私たちに語りかけていることに思いをめぐらせたい。現代をどういう時代か振り返ると、残念ながら不正ははびこっている。飢餓阻止のための協力により、飢餓状態からの向上は起こっているのかと思うが、まだまだ貧富の差がはげしくなっているような様相も感じる。自然環境ということを見ると、1983年からの10年間に起こった世界の自然災害合計は一年平均で147回だったが、過去10年間では、306回に跳ね上がっているというデータを見た。ほとんど毎日のように世界のどこかで自然災害が起こっていることになる。自然災害と呼んでいても、そのかなり災害は人類の愚かな、神を畏れぬ行為が自然災害の原因になっているような面があるのだと思う。このような時代にあって、今、新たに、待降節という季節が与えられている。主の到来を待ち望む時。この季節のはじまりは、南カリフォルニアでは、珍しく雨が続いている。 旱魃でたいへんな思いをしていていた南カリフォルニアには、たいへんな恵みと感じる。また、詩編85編の言葉を読みつつ、雨が降っている音を聴くと、私たちを悔い改めへと導き、過去の罪を洗い流してくださるような面を感じる。世界各地では、大雪や寒波に見舞われている地域もたくさんある。しかし、その厳しさの中にも、主なる神が良いものを与えてくださっており、そこに人々の信仰が芽生え、新しく希望と喜びが抱くことができるように。主の到来に備えることができるように。アーメン 安達均