January 15th, 2015

2015年1月15日 詩編を読もう:私のすべてを知る主 (詩編139:1-6, 13-18)

詩編を読もう, by admin1.

今週は聖書日課で15日から18日まで与えられている詩編139編1-6節および13-18節を読む。一度、ゆっくり読んでみて、一番気になった言葉やインパクトのある箇所を挙げよう。 その後、詩編作者のことを想像しながら、どういうことを詠っているのかじっくり読み返す。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。時間に余裕のある方は、1月18日に与えられている福音書、ヨハネ1:43-51も読まれることを薦めたい。 
 
詩編 139編
1: 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
2:座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3:歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
4:わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5:前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
6:その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。

13:あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14:わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
15:秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16:胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。
17:あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
18:数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。

どの言葉がもっとも印象に残るだろうか? 私の場合は4節後半の、「あなたはすべてを知っておられる。」 

できる限り詩編作者の気持ちになって読んでみたい。 主よ、あなたは私のことを知り尽くしておられる(1節)。座っていても立っていても知っているし、頭で何を計画しているかもお見通し(2節)。歩こうが伏せていようが見分け、どんな道を歩もうか、知っておられる(3節)。私が何もしゃべらないうちに、私が何を話しだすかもわかっている(4節)。私を囲っていて、あなたの御手を私の上に置く(5節)。その知識は私の限界を超え、私はとてもおよばない(6節)。
あなたは私の内臓をつくり、母の胎内に私を組み立てた(13節)。私はあなたに感謝する。私はあなたのおそろしい力によって、驚くべきものに創られ、そのあなたの御業がどんなにか驚くべきものかを私はよく知っている(14節)。人類には知りえないようなところで、私は造られた、その場所は地下のごく深いところのようだったが、そこで、私の創造が展開した。私は一本の骨も隠すことができない(15節)。胎児だった私をあなたが見ており、私の一日一日はすべてあなたの書につづられている。私が造られる前からさえも書かれている(16節)。あなたの計らいはどうなにか貴く、神よ、いかにその数の多いことか(17節)。その数は砂粒よりも多く、果てまで、切り刻んでいたとしても、その私をあなたが包んでいる(18節)。

さて、この詩編139編の上記の箇所が、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 来る日曜には、ヨハネ1章43節以降で、ナタナエルがイエスの弟子になる場面。 彼はそもそもイエスのことを疑ったような存在。それにもかかわらず、イエスの方に向かうと、イエスがすべてナタナエルが行動したり、あたまの中で考えたことをすべてご存知であるがゆえ、ナタナエルはびっくりして、イエスこそ神の子であると告白する。 実は、このナタナエルがイエスを疑ってしまったことは、わたしたちの人生の信仰生活の歩みの中で、日々体験していることと共通なのだと思う。人間は主なる神が、自分をいかに創造してくださったかが、わかるとき、はっと目を覚ますようなことが起こる。 自分自身の創造のすべてを自分がわかるような気分になっても、神が自分の創造をすべてご存知である、つまり「知ることは知られていることがわかること」とでも表現したらよいのかと思う。 
アーメン
安達均

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