February 12th, 2015

2015年2月12日 詩編を読もう:いけにえを供えて (詩編50編1-6)

詩編を読もう, by admin1.

今週後半に聖書日課にある詩編50編1-6節を読む。2月15日は主の変容主日であり、マルコ9:2-9に書いてある様子を覚えながら読んだらよいかと思う。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編50編
1: 【賛歌。アサフの詩。】神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。
2:麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
3:わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。
4:神は御自分の民を裁くために/上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
5:「わたしの前に集めよ/わたしの慈しみに生きる者を/いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
6:天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。〔セラ

インパクトのある言葉はどこだろうか? 私には5節の「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」

詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたいが、まず、「賛歌。アサフの詩。」となっている。アサフとはダビデの時代に音楽隊の中に出てくる名前(歴代上15章16-24節参照)。 ダビデの時代に生きていたアサフが詩編50編を残したのか、後世の詩編作者がアサフのことを覚えつつ、アサフの詩としてこの詩編を作詩した可能性もある。 また詩編50編の1-6節は、23節ある詩編50編全体がひとつのユダヤ教の式典のようなイメージがあるが、その式典の導入部分。 神々の神が、東の果てから西の果てまで、すべての地にいる民を集めて、言葉を発せられる(1節)。完璧な美しさを現しているシオンの地から、神は顕われる(2節)。 神々の神であるわたしたちの神は黙ってはおられず、その前の地を火で焼き尽くしながら、また足元では強風が吹き荒れているような状況の中で、来てくださる(3節)。 神は自分の民を裁くために天でも地でも呼びかけられる(4節)。 「わたしの前に、わたしの慈しみに生きる民を、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ民を、集めよ。」(5節) 天が神が正しいことを告げ、神ご自身が裁かれる(6節)。

今日この詩編50編の1-6節を通して、主なる神が、現代の私たちに何を語っておられるのだろか? 上記には、1-6節が詩編50編の導入部分に当たることを書いた。 しかし、2月15日の聖日に与えられている福音書箇所が、主の変容のできごとであることを思うと、この詩編50編1-6節が、主の変容の際に、天の「これは、わたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえた時のことを、予告しているような詩編であるようにも感じる。 さらに、主の変容は、イエスの十字架の死と復活への予告であったとも考えることができる。 ある意味、十字架の死と復活の前触れが、詩編50編にも表現されていたような面を感じる。 とくに、5節の「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」という箇所から、主イエス自らがいけにえとなり、すべての民の罪の赦しのために、主イエス御自身が、父なる神と契約を結んでくださったことが彷彿してくる。主の変容日が過ぎると2月18日からは、四旬節(受難節とも呼ばれる)に入り、悔い改めて、十字架の死と復活に備える期間となる。 その四旬節を前にして、詩編50編の1-6節の中に、神々の神からすべての民への深い思い、憐れみ、を感じる。 
アーメン 
安達均

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