February 26th, 2015

2015年2月26日 王権は主にあり (詩編22編23-32節)

詩編を読もう, by admin1.

今週後半の聖書日課の詩編箇所、22編23-32節を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。レント(受難節)にあって、主イエスの御苦しみを覚えつつ読みたい。というのは、詩編22編の前半にある言葉は、イエスが十字架に架けられた午後3時にイエスが息をひきとる前に引用している御言葉。 与えられた23節から32節だけだとそのことがよくわからないので、あらかじめ記載しておきたい。

詩編22編
23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
29:王権は主にあり、主は国々を治められます。
30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
31‐32:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

どこの箇所が気にってもっとも気になっただろうか? 私の場合は、いろいろな箇所が気になってしまったがひとつ挙げるとすると、29節の「王権は主にある」という言葉。 
詩編作者の気持ちになって読んでいきたいが、今日の箇所ではないが22編の1節には、この詩編が「賛歌」でダビデの詩ということが書いてあったこと、そして2節には、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」という言葉が書かれていて、ダビデがただ事ではない状況におかれているなかで歌われる詩編であることを述べておきたい。 しかし、そのような状況で始まった詩編にしては、23節以降はガラッと様相の変わった賛歌となっている。主を賛美する言葉、主がイスラエルの民にしてくださった恵み、またイスラエルの民への教えに満ちてくる。自分の兄弟に主のことを語り伝え、礼拝で賛美する(23節)。イスラエルの民はみな主に栄光を帰し、主を恐れるように(24節)。主は貧しい者、助けを求める者の叫びを聞く(25節)。だから私は大きな礼拝で主を賛美し献上する(26節)。貧しい者は満ちたり、主を尋ね求める者は賛美し、健康が与えられるように祈る(27節)。全地で、すべての人類が主のもとに立ち帰って、すべての国の民が主にひれ伏すように(28節)。王権は主にあって国々を治める(29節)。すべての民が種にひれ伏して、この世の命を失ったものも、ひれ伏し、魂がよみがえる(30節)。子孫は神に仕え、代々、主の成し遂げたことを告げ知らせるだろう(31-32節)。

さて時代は変わって、この主なる神がこの詩編を通して現代の私たちに何を語りかけているかに思いを巡らす時、とくに四旬節にあるため、主イエスが十字架にかかられ「わが神わが神、なぜ私を見捨てるのですか」という言葉を話されたのが、この詩編22編の最初に書かれていたことを思い出さざるを得ない。しかし、そのような状況の中にあっても、この22編の最後の数節では大きな希望が歌われている詩編であり、わたしたちは、この詩編22編を通して大きな力、元気、励ましをいただけるように感じる。キリスト教徒が一番強い時、また最高の希望と喜びにあふれるようになるのは、どん底と思えるような状況にあっても、そこに強さがあるのだと思う。安達均

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