今週後半の聖書日課にある詩編107 編1-3節および17-22節を読む。150編ある詩編は、五つのグループに分けてとりあつかわれることがある。その五つのなかで、107編以降150編までは、最後のグループとされる。107編は第五詩編グループの中で一番最初の詩編ということになる。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。
詩編107編
1:「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と
2:主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
3:国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。
17:彼らは、無知であり、背きと罪の道のために/屈従する身になった。
18:どの食べ物も彼らの喉には忌むべきもので/彼らは死の門に近づいた。
19:苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。
20:主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。
21:主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
22:感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌え。
さて、どのような言葉がインパクトがあっただろうか?あるいは引っかかったか? わたしの場合は、特に一節の言葉から、恵み深い主から慈しみがとこしえにあるという言葉。
詩編作者の気持ちになって、本日の詩編箇所を振り返りたい。詩編作者の気持ちというべきか詩編編集者の気持ちというべきかよくわからないが、冒頭に書いたように、107編は第五詩編グループの一番最初の詩編。その1-3節は、107編から150編の最大のポイントを詠っているようだ。 主がいかに恵み深いか、そしてその主から注がれる慈しみは永遠に存続している、だから主に感謝せよ(1節)。主は苦しめられている人々を救われた、主に買い戻された人々は皆、感謝して謡え(2節)。主によって東西南北にある国々から集められたものよ(3節)。そして4節以降43節まである長い詩編107編は、主の恵み・慈しみがいったいどのようなものかを具体的に挙げているように思える。その中で今日読んだ17-22節では、詩編作者は以下のようなことを詠っているように思う。 人々は主なる神のことをよくわからず、主に背を向けてしまい罪の道を歩くことになり、結局(神の敵対者)に従う者となってしまった(17節)。どんな食べ物も、本来食べるべきものではない(忌むべき)ものであるため、ほとんど死をさけられない病になってしまった(18節)。そのような苦難の中から主に助けを求めると、主は人々を苦しみの中から救い出された(19節)。 主の御言葉が与えられ、人々は癒され、破滅から救い出された(20節)。だから主に感謝しよう、主の慈しみはとても深く、人々に驚くべき事を成し遂げる(21節)。だから感謝の捧げ物をして、主の成し遂げられた事を代々語り、喜んで主を賛美しよう(22節)。
詩編107編を通して、主なる神は、今日の私たちに何を語りかけてくださっているのだろうか? 昨日3月11日を持って、あの東日本大震災から4年間という期間が過ぎた。四年も経ったのに、仮設住宅にいる方々がいるし、心が癒されていない方々がいるという記事も見るし、四年しか経っておらずまだまだ原発の被害とそれに対処する期間はこれから何十年、何世代にも続くのだという記事も見かける。とくに原発の問題を思う時、17節18節にある言葉は、人々が無知(主なる神を畏れていない状況)であるため、主の道から背いて、悪魔の道を歩み、結果食べるものは、みな汚染されてしまったものとなり、瀕死状態となってしまった、という内容が重くのしかかってくる。しかし19節以降にあるように、主なる神に助けを求めると苦しみから救われ、主の御言葉によって癒され、破滅から救われる。という言葉に大きな望みがあることを覚えたい。そして、人々に主の業を語り伝え、主の永遠の恵みに感謝し、捧げ物をし、賛美しようという言葉から、永遠の慈しみを感じる。そして、この詩編を詠う私たちが、どういう行動をとるべきなのか、自ずとわかってくるように思う。
四旬節にあって、十字架を担いで歩むようになる主を覚え、謙り自分のいたらなさを告白し、聖なる御名を褒め称えつつ。
安達均