今週は聖書日課通り、3月26-28日に与えられている詩編118編1-2節および19-29節を読む。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。
詩編 118編
1: 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2:イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。
19:正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20:これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21:わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
22:家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23:これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24:今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
25:どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
26:祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
27:主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
28:あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
29:恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
気になった言葉は何だろうか。 私の場合は、22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」
詩編作者の時代にさかのぼってみて、作者がこの詩編の言葉にこめた意味を想像していきたい。詩編はユダヤ教の礼拝において詠われていた詩が編集されたもの。 118編は、とくに礼拝が始るときに、司祭や会衆が神殿に入る時に詠われていたのではないかと考えられる。礼拝の始めに、神殿の外で司祭が「恵み深い主に感謝しよう。」と大きな声でよびかけると会衆が「慈しみはとこしえに。」と応える(1節)。次に司祭が「イスラエルの民は言う。」と呼びかけるとまた、「慈しみはとこしえに。」と会衆は応える(2節)。 今日の箇所には入っていないが、似たような応答が3-4節にあって、続いて、なぜ主に感謝するのかの理由が5-18節まで詠われる。そして19節ではいよいよ神殿の門があけられて、19-29節は神殿に入ってゆく時に神殿の中で行なわれることが詠われていたのだろう。19-21節は神殿の城門を開けて、入ったところで、主に感謝しよう、これこそ主の門であり、主に従う人はこの門を入る、私たちにあなたが答え、救ってくださったので、主に感謝する、と詠いながら進む。22-24節は喜び踊りながら神殿中央部に入ってくる様子が思い浮かぶ。ただ22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」は、新訳聖書のなかで何度か引用されており、新訳の世界ではイエスのことを述べていると考えるが、旧約時代に、詩編作者はいったい何のことを語っていたのか特定しがたい。しかし、兄弟に裏切られてエジプトに連れてこられたヨセフが後には、旱魃にあってあえいでいたイスラエルの民を救うことになるヨセフのことを意味していたのかもしれない。26-28節は、司祭たちと会衆は捧げものをたずさえて進み、祭壇で捧げ、主に感謝しながら詠い続ける様子が目に浮かぶ。 そして29節では1節と同じように、「恵み深い主に感謝せよ」という司祭の呼びかけと、「慈しみはとこしえに」という会衆の応答で118編は終わる。
この詩編箇所を通じて、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。3月29日からはいよいよ受難週となり、イエスの御苦しみを覚え、そしてこれまで以上に私たちの罪をに覚える時だといえる。それはキリスト教信者自身が、イエスを十字架刑に追い込んでしまった一人であることに気付く時だともいえる。それは2000年前に起こった過去の出来事というより、現代も続いている。イエスキリストの体である教会に集まる者自身が、自ら教会を 傷つけていることを認識する時とも言える。その受難週を迎える前に、この詩編が訴えてくるものは何なのだろう? この詩編は、数日後にはイエスが十字架刑になるのに、民の歓喜の声の中で、イエスがエルサレムに入城してくる様子にも重なってくるものがある。また現代の「主を賛美します、主を賛美します。」と歌い、賛美することが一番大切という牧師たちや教会の指導者たちが、大きな声でプレイズソングを歌っている様子にも重なってくる。賛美することが一番大切ということはどういうことなのか? 家を建てる者の退けた石が隅の親石であることの意味をじっくり観想したい。2000年続いているキリスト教会の礼拝では、最初に開会讃美歌を詠うが、その後すぐに、罪の告白となることに、大きな意味がある。
安達均