April 9th, 2015

2015年4月9日 詩編を読もう: 兄弟姉妹が共に (詩編133編)

詩編を読もう, by admin1.

今週は聖書日課では4月9-12日に与えられている詩編133編を読む。新しいイースターの季節に入った。厳密には、我等の兄弟姉妹である東方正教会では使っている暦が異なるため、イースターは4月12日となるが、そのようなことも覚えて、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 133編
1:【都に上る歌。ダビデの詩。】
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

気になる言葉というと、「兄弟が共に座っている」そういう状態をなんという恵みであるか、そして喜びであるかと表現していること。

さて、詩編作者の思いを想定しながら、一節づつ見てゆきたい。「都に上る歌」とあるので、神殿のあるエルサレムに向かって上るときに歌うものと想像できる。 そして、ダビデの詩となっているが、かならずしもダビデが詠ったというわけではなく、後世の詩編作者がダビデのことを想像しながら歌ったようにも思える。詩の内容に入っていくが、兄弟が共に座っている状態を、すばらしい恵みであり喜びである、と詠っている。そこには、旧約聖書に描かれてきた兄弟関係は必ずしも良いものばかりではない。いやむしろ悲惨な関係ともいえるものが多い。アダムとイブの息子たちで、人類最初の殺人と言われる兄カインが弟アベルを殺してしまう関係にしても、人類最初のオレオレ詐欺(笑)とも言えるかもしれないが弟ヤコブが父イサクを騙して結果的に兄エサウの継ぐべき資産を横取りしてしまったことにしても、またヤコブの息子たち12人のなかで、下から二番目のヨセフは兄弟のなかでは仲間はずれになりエジプトに売られてしまうようなことさえ起こる。そのような難しい兄弟関係が多いなか、ともに兄弟が座っているというなにげない光景が、なんという恵みであり喜びなのかが詠われている(1節)。つづいて2節と3節の前半で、二つのすばらしい光景を付け加えている。すばらしい香りの油がアロンの頭に注がれて、頬のひげに降りてきて、さらに着ている服の襟に垂れている長いひげの先のほうまで滴ってくる香油の様子の美しさを詠っている。そこにはアロンは神の任命を受けたモーセから油注がれて大祭司に就任する様子を想像すればよいのかと思う(2節)。次の節の前半で、光景はがらりと変わり大自然の光景を詠う。都エルサレムの北方約250Kmにあるヘルモン山。標高は1200メートル位らしいが、冬はいただきに雪をかぶるような山で、エルサレムとヘルモン山の中間にあるガリラヤ湖や、さらに都であるエルサレム(別名シオン)に向かう途中にある丘陵地帯に対しても、大切な水源になっているのだと思う。そのヘルモン山にある露とエルサレムに流れてくる滴のなんと美しいことかと詠う(3節前半)。 そして最後に、シオンにて主なる神が、永遠の命を布告されると詠う(3節後半)。 

この詩編133編を通して、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。兄弟が共に座っている光景は、ある同じ親から生まれた兄弟というより、あるいはユダヤ教を信仰するユダヤ人たちというより、創造主に創られたすべての人類が、この地球に共に居住している様子に思えてくる。そのように考えると全人類の親はだれなのか、全人類の親、創造主の思いを考える時、その子供たちも、この地球上で、共になかよく居住することが可能になるように思う。 また二節から、神がモーセを通してアロンに油を注ぎ、大祭司に任命する様子を想像するより、娼婦だったと思われるマグダラのマリアを通して、神のひとり子イエスに高級な油が注がれた光景を思い浮かべたくなる。マグダラのマリアさえ用いられ、油注がれた救い主イエスが、そして大祭司イエスが存在することを覚えたい。詩編133編3節前半に詠われた大自然の光景を覚えるとき、とくに今カリフォルニアに住む中で、たいへんな旱魃に見舞われている現実がある。もちろん、水を大切にし、できるかぎり節約する生活をしようとすることは当然しなければならない。ただもっと大切なことがあるように思う。それはその水を創造して供給してくださる創造主を愛し敬うことではないだろうか。そして詩編の133編の結論は、その創造主と人類の愛し合う関係のなかで、主なるイエスが全人類への永遠の命を宣言してくださることをうたっているのかと思う。しかし、この四旬節から復活節に移行する季節にあって(プロテスタント、カトリック教会では5日からもう復活節だが、私たちの兄弟姉妹である東方正教会では12日がイースター)人類が罪の世界に生きてきていることを実感するとともに、主イエスの復活によって、創造主からの一方的な赦しにより、人類が新しく永遠の命を与えられていることを覚える。 安達均

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