来る日曜日は復活後第四主日となる。7週間ある復活節の半ばに入ってきている。毎年この復活節第四主日は「良き羊飼い」に関する福音書箇所が読まれ、詩編は23編が聖書日課には与えられる。詩編23編は現代ではメモリアルサービスなどでもよく読まれ、「もう読んだことがある」という方が多いのではないかと想像する。 しかし、何度読んでも、その度に新たな発見をするような詩編ではないかど思う。 今年も23編を読んで、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編23編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編 23編
1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、1-3節を読み進む中で、主が休憩のために導いてくださることを詠うなかで、ダビデや詩編作者がいかに疲労困憊するような状況にあったことを想像する。
詩編作者の立場を思って詩編23編を読む時、この詩編を詠いはじめるまでの状況が、いかに痛ましくたいへんな状況であっても、不安に陥りそうな羊に必要なものを必ず与えてくださり導いてくださる羊飼いのようなお方、主がおられる(1節)。そして、そのような疲労困憊にある羊に、とても大切な安全で休息の場へと導いてくださる(2節)。その憩いの場において魂は生き返り、まさに主の御名にふさわしく、次のステップに向かう際には、軌道修正をしてくださる(3節)。そして新たな道に向かうとなると、さらに厳しい死の陰の谷を通るようなことがあっても、主が共に歩んでくださっており、羊飼いが手に持って歩む鞭や杖さえも私を力づけ、災いにあうことだって恐いことではない(4節)。 私を苦しめるものが目前に現れても、主が食べ物を与えてくださり、油を注いでくださり、ふんだんに飲み物を与えてくださる(5節)。永遠に主の恵みと慈しみが私の後をはげしく追ってきてくださり、それはどこにいっても、その場が主の家でありつづける(6節)。
この詩編を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 読む一人一人、お若い方も、還暦を過ぎておられる方々もいると思う。 しかし、それぞれに、ピンチという状況を経験されてきたのではないだろうか。 私は2歳のころに結核になったりしているが、まさに、2-3節にあるように、主が十分な休息の場を与えてくださり、快復への道へと導かれたように思う。そして、人生へのさらなるチャレンジを目前にしようが、4-5節にあるように、主なる神が元気付けてくださる。それは主イエスが十字架に架かり、死にて葬られても復活されたように、主イエスの信仰により、私たちにも復活の命、永遠の命が与えられていることを確信することができて、さまざまな困難に立ち向かう勇気が新たに与えられるのではないだろうか? それはこの世の肉体的な死を迎える時、いっさいの食べ物も家も財産もこれから先は持っていくことができないような境遇を迎える時になっても、このうえのない主の恵みと慈しみが与えられ続ける。 今、どんなにか困難な状況を迎えている方々がおられようが、そこに存在する主の癒し、慰め、慈しみが豊かに注がれている。 アーメン
安達均