April 16th, 2015

2015年4月16日 詩編を読もう: 主の平安 (詩編4編)

詩編を読もう, by admin1.

今週は聖書日課では4月16-19日に与えられている詩編4編を読む。主なる御方に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 4編
1:【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】
2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。
3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。
5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ
6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。

気になる言葉というと、私の場合は5節の「横たわるときも」と9節の「平和のうちに身を横たえる。」

さて、詩編作者の気持ちになって、一節づつ振り返りたいが、5節の言葉に、「横たわるときも」という言葉があり、最後の9節には、「平和のうちに身を横たえ」という言葉が書かれていること推測して、なにか眠れないときに、作詩されたように思える。 1節にある説明は、この詩編は音楽の伴奏付で歌われる様子が想像できる。しかし、眠りと関係しているので、静かな伴奏を詩編作者はイメージしているのではないだろうか。また、賛歌でありながら静かな曲想で、またダビデの生涯でいろいろな挑戦を受けた時とも関係がある歌なのだろう。2節以降、詩に入っていく。眠れずにいる詩編作者が神によびかけて、私の正しさを認めてくださる神よ、私に答えて、苦難から解放し、憐れんで、祈りを聞いてくださいと嘆願する(2節)。人々は、いったいいつまで私の主にあって生きる誉れを辱め、主の思いから離れたむなしい言葉を愛し、偽るのか(3節)。セラとあるので間奏が入る。主に生きる人は見分けてくださり、主を呼び求めるものの声を聞いてくださるということを知ろう(4節)。 主を畏れよう、そして横たわるときに、自分に正直に語り、そして沈黙しよう(5節)。 またセラとあるので、間奏が入る。 主にふさわしい献げ物をささげ、主を信頼しよう(6節)。 主から恵みが示されることを疑う人々がたくさんいるが、主よどうか私に御顔を向けてください(7節)。人々はぶどうを豊かに収穫して喜ぶ、そして、それにもまさる喜びをどうか私の心に与えてください(8節)。いろいろと気になるこことだらけだが、それでも主に信頼して平和のうちに横たわり、私は眠れる。主よ、あなただけにより、私はこの地に生活することができている(9節)。

さて、この詩編を読むなかで、主なる神が現代の私たちにいったい何を語ろうとされているか思いを巡らせたい。この詩編の背景にある、信仰を持つことを疑問視し、詩編作者に挑戦した人々がいたという時代は、現代にも通じるものがある。 しかし、主なる神、すべてを創造された主が、今も活き活きとおられ、それゆえに、太陽も地球も、さまざまな星も、主にある創造が続いており、秩序が保たれ、わたしたちの永遠の命もその中に存在している。さらに現代は、キリスト降誕と復活後の世界に人類は生かされており、死にて葬られても死を滅ぼしよみがえられ、私たちとともに主なるイエス、聖霊が、私たちのなかにしっかりと働いてくださっている。その創造主であり、この世に来られたそのひとり子イエスであり、そして聖霊なる三位一体なる主を信頼して歩むことがどんなにすばらしいことなのか。この地球上での生活には様々なチャレンジがあるが、しかし、主に頼り主の体である教会に仕える中で、この上もない喜びを覚え、そして主にある平安を与えられる。それはすなわち、どのような困難があって眠れない夜にも遭遇するが、それでも主に信頼する中で、喜びの眠りが平安のなかで与えられている。 
安達均
  

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