今週は8月13 日から8月16 日の聖書日課に与えられている詩編34編10 -15節を読もう。16日は平和主日礼拝を予定しており、聖書箇所は、第二日課と福音書は、聖書日課から選んだものではない箇所が拝読される。しかし、第一日課は、あえて、今週与えられている詩編箇所が読まれる。 平和礼拝へ向けて、心を供えつつ、しっかりこの詩編箇所を読みたい。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編34編
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
12:子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。
13:喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は
14:舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ
15:悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。
平和主日礼拝を控えて、インパクトのある言葉として、15節の「平和を尋ね求め、追い求めよ。
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に簡単な解説を加えたい。先週後半の詩編は、34編の1-9節、今週は10-15節、そして来週は16節-23節が与えられている。先週、書いたことの繰り返しになるが、詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、10-11節の2節は先週の証の続き。そして12-15節は、神の御言葉、説教のポイントに入ってくるといってもよい。 以上を踏まえて、一節づつ読みたい。ダビデの体験したことから、聖なる人々よ、主を畏れて敬うように、主を畏れる人には、なにも不足するものがない(10節)。 若獅子は獲物がなくなって飢えるようなことがあっても、主を求めている人にはいつも良いものが与えられる(11節)。若い世代の人々よ、私に聞き従うように、主を畏れることがいかに大切かを教えよう(12節)。喜ぶあふれ、長生きしようと幸いを得ようとする者は(13節)、語る口や舌を悪や偽りの言葉から遠ざけ(14節)、悪い行いはせず、善を行い、平和を探し、追い求めよ(15節)。
今日、この詩編34編10-15節を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。この週末は第二次世界大戦の終結から70周年を迎えるにあたって、復活ルーテル教会では、6月終わりから「40日間の平和への祈り」を呼びかけてきている。今日読んでいる詩編34編15節の言葉は第15日目に与えられていた箇所でもあった。 そして、12-15節を通して、今日改めて読むとき、そのポイントは「主を畏れて、悪を語らず、平和を追い求めよ。」ということになるのだと思う。 「40間の平和への祈り」の小冊子には、その三日目に19世紀のアメリカのラルフ・ワルド・エマーソン牧師の言葉で、「暴力によっては平和に導くことはできず、理解によってのみ達成する。」という言葉があったことも思い出している。 詩編34編12-15節で歌われていることと、共通するような面を感じる。理解しあうということには、決して暴力を振舞うことを避けるという行為も大切なことだが、それ以前に、悪を語らない大切さがあり、さらに、もっともはじめには「主を畏れる」ことの大切さを知った上で、対話の席にもつけるように思えてくる。
アーメン
安達均