今週は8月20 日から8月23 日の聖書日課に与えられている詩編34編16 -23節を読もう。23日の礼拝では、福音書は再びヨハネ6章にもどって、イエスが話された「命のパン」の話しの続きになる。聖餐式のことを覚えつつ読むのも良いと思う。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編34編
16:主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
17:主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。
18:主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。
19:主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。
20:主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し
21:骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。
22:主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。
23:主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。
気になる言葉として、20節「主に従う人には災いが重なるが」という言葉。
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に、先々週と先週の復習。先々週は、34編の1-9節、先週は10-15節、そして今週は16節-23節を読んできている。 詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、16-23節の説教の結論であり、また礼拝の締めくくりとも言える。先週12節-15節の説教のポイントは、「主を畏れるように。そして、言葉に気をつけて、平和を探し求めよ。」ということだった。 そして16節以降は、なぜ主を畏れ、従うことがそんなに大切なのか、その理由が語られる。あるいは、礼拝の結論として、主に従うものに神が祝福を与えてくださるという宣言が語られるとも言える。さて一節づつ振り返りたい。主は、従う人に目を向け、助けを求める叫びを聞いてくださる(16節)。 :主は悪を行う者にも御顔を向け、その名を地上から絶つ(17節)。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に助け出される(18節)。主は打ち砕かれた人の近くおり、悔い改める者を救ってくださる(19節)。 主に従う人には災いが重なるが、そのすべてから救い出す(20節)。骨の一本も損なわれないように、守ってくださる(21節)。 :主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる(22節)。 主はその僕の魂を贖ってくださり、主を避けどころとする人は罪に定められない(23節)。
今日、この詩編34編16-23節を通して、主なる神は、私たちに何を語られているのだろか。私は、言葉は違うが、この詩編に書かれていることは、聖餐式の最後に牧師の宣言や、礼拝の祝祷(祝福)に相当するように思える。 聖餐式の最後は、「主イエスの体と血は、あなた方を強め、永遠の命を与えてくださいます。」と語る。「主イエスの体と血は、」と言っているのは、主イエスの命のパンと血をいただくもの、すなわち、聖餐に授かるもの、主イエスを信じ主に従う者は、強められ、永遠の命が与えられるという宣言だ。さらにダメ押しともいえる、祝祷(祝福)をもって礼拝は終了するが、「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主があなたに御顔を向け、あなたに恵みをあたえてくださいます。主があなたに微笑まれ、あなたに平安を与えてくださいます。」というこれらの言葉が意味していることと、詩編34編の16節から23節は、聖餐式と礼拝全体のしめくくりの言葉に思えてならない。 ただ、詩編では上記に書いたように、「主に従う者には災いが重なる」と書いてあり、これは話しが違うのではないかと思われるかもしれない。 しかし、現実問題は、信仰者だって、天災にあうかもしれないし、事故にあったり、スピード違反で捕まったり、ということだってありうるのだと思う。 大切なことは、そのようなことがあっても、そのままでは終わらないということ、救い出される、主が購い出してくださるという事だと思う。
アーメン
安達均