今週は10 月1 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編8編を読もう。詩編8編は、去年と一昨年の三位一体主日の頃、また、今年の元旦の頃にも取りあげられた。したがって、詩編を読もうで取りあげるのは、今回で4回目になる。何回読んでも含蓄のある詩編だと思う。今回は、10月4日に与えられているマルコ10章2-16節で離縁のことがとりあげられているが、そのことにも触れたいと思う。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して、さらにマルコ10章のことも加味しつつ、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編8編
1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:羊も牛も、野の獣も
9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
気になる言葉やインパクトのある言葉としては、私の場合は特に5節の中の、「人間は何ものなのでしょう。人の子はなにものなのでしょう。」という言葉。
詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたいが、1節は合唱・演奏するにあたっての説明。ギティトとは、以前きまったメロディと書いたが、琴のような楽器という説もある。2節の前半は、「主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている。」と詠っている。 同じ言葉が、最後の10節にも詠われて、詩編8編が終わる。 その言葉にサンドイッチされる中身は「天に輝くあなたの以降をたたえます。」という賛美から始る(2節後半)。全能の神が、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から砦を築いて守り、報復する者を絶ち滅ぼす(3節)。 天を仰ぐなら、月も星もすべてあなたが配置されたもの(4節)。とてつもない広い全地と天(宇宙)のなかで、主が人間に御心を留めてくださっているとは、いったい人間とは、人の子とは、何者なのでしょうか(5節)。あなたは人間を、神より少し劣るものとして創られ、栄光と威光をかぶらせ、この地に主が創られた、動物たちも鳥たちも、すべてのものを、支配するようにしました(6-9節)。 主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている(10節)。
さて、詩編8編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の1節を除く2節から10節の詩の部分でその中央にあたる5節の言葉に「人の子」と出てくる。新約聖書を読む私たちは、ここで、「イエスのこと」とピンと来るが、この詩編はイエスが顕われる500年以上昔に、歌われ始めていた。だとすると、イエスが顕われる前から、救い主イエスが見え隠れしていたような時代があったことを思わせる。 先週の日曜は、カリフォルニアで夜8時近くに、満月が月食となり、月が見え隠れするような気がしたが、月の光って、あるいは太陽から出てくる光って、いったい何なんだろうと考えさせられた。究極的には、神と神の子、この世に顕われる人の子とは何ものなのか、について考えさせる。そして、詩編8編の「人の子は何ものなのか」の前には、「人間は何ものなのか」という問いは、神から愛されているある特定の人を指しているわけではなく、神がこよなく愛される人間全体、人と人の関係というものがどういうものなのかを問われているように思う。 冒頭に述べたように、4日の聖日に与えられている聖書は、マルコ10章。ファリサイ人が離縁について質問しているが、イエスの感心は、離縁や離婚より大きなスケールで、人と人との関係のあり方について、示唆を与える事にあるように思う。つまり、この詩編8編で中心となった、「人間は何ものか、人の子は何ものか」について、マルコ10章2-16節で応答しているような面がある。アーメン 安達均