October 22nd, 2015

2015年10 月22日 詩編を読もう:喜びの歌 (詩編126編)

詩編を読もう, by admin1.

今週は22日から25日まで、聖書日課に与えられている詩編126編を読む。6節だけの短い詩編なので、繰り返し何度か読もう。そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編126編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。特に、来る聖日はルーテル教会では宗教改革記念日となるが、福音書として、バルティマイという盲人がイエスに「憐れんでください」と嘆願し、目が見えるようになる話が読まれる。そのようなことを考えながら、じっくり、この詩編が現代の私たちに語りかけていることを観想したい。

詩編126編
1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、2節、5節、6節に繰り返された「喜びの歌」という言葉。 
詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。英語に訳されたものを読むと明らかになったが(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い・祈り)。つまり、1-3節ではバビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、6世紀以降に起るであろう、何かの困難に直面した時が来ようが、主に頼ることが鍵であり、どんな困難からも解放が、そして喜びが訪れるという希望・祈りが 詠われているように思う。一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、民は夢を見ているような気分となった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々さえも「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われてしまう私たちを解放してください(4節)。涙ながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。

与えられた詩編146編は、これを読む現代の人々に何を語ってくれているのだろうか? 冒頭に書いたように、聖日に与えられている福音書は、目が見えなかったバルティマイが、見えるようになる話。いわば、目がみえないという事実に捕らわれていた盲人に、解放が訪れたことを振り返る。1-3節では、現代に生きる私たちが、いかに、主なるイエスにより、解放が訪れたことを振り返るように導いているのではないだろうか?また後半の4-6節では、現代に生きる私たちも、将来の世代だって、さまざまな困難に直面する。自分の力ではどうしようもない困難を体験する。 しかし、主なる神がご自身で創造されたすべての民を愛してくださっており、困難を体験する人々が、主なる神にひたすら憐れみを求めることができ、信仰によって、かならず解放は訪れる。また種まきをする人と種を運ぶ人、それが収穫の時期には、大勢の人が収穫の喜びを味わえるように、その解放とは、個人的に一人一人の中でも訪れるし、教会という人々の集まりの中でも現実のものとなる。 そして、その恵み深い体験が、周辺の人々にも、大きなインパクトを与えることになる。アーメン 安達均

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