January 7th, 2016

2016年1月7日 詩編を読もう:逆らった私たちへの救い (詩編106編:1-12)

詩編を読もう, by admin1.

新年も最初の1週間が過ぎ去っていこうとしている。聖書日課では、7日から10日与えられている詩編は72編だが、昨年も新年にあたって、72編が読まれたこともあり、今年は、11日から13日、来週月曜から水曜に与えられている詩編106編1-12節をとりあげたい。  いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 106編
1:ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。
2:主の力強い御業を言葉に表し/主への賛美をことごとく告げうる者があろうか。
3:いかに幸いなことか、裁きを守り/どのような時にも恵みの業を果たす人は。
4:主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき/わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。
5:あなたの選ばれた民に対する恵みを見/あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い/あなたの嗣業の民と共に/誇ることができるようにしてください。
6:わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。
7:わたしたちの先祖は、エジプトで/驚くべき御業に目覚めず/豊かな慈しみに心を留めず/海辺で、葦の海のほとりで反抗した。
8:主は、御名のために彼らを救い/力強い御業を示された。
9:葦の海は主に叱咤されて干上がり/彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。
10:主は憎む者の手から彼らを救い/敵の手から贖われた。
11:彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ/生き残る者はひとりもなかった。
12:彼らは御言葉を信じ/賛美の歌をうたった。

気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節にある、「主に逆らった」という言葉。 

詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。多くの詩編に見受けられる、賛美への招きからはじまり、ユダヤ教の礼拝に詠われるのにふさわしいのだと思う(1節)。しかし次編ではいきなり現実的な話となり、いったいだれが、主のみ言葉を告げ続けて、賛美しつづけられるだろうか(2節)。詩編一編にも登場していた「いかに幸いなことか」の言葉のあと、裁きに従い、どんな時でも恵みの業を果たす人は(3節)。4-5節では主への嘆願となり、詩編作者とそこに属している民が、主の民が喜び迎え入れられる時、喜び祝う時、私たちも御心を留め、ともに祝うことができますように。6節以降は、音楽でいえば転調したような感じがする内容になってくる。 まず、先祖が罪を犯したように、私たちも主に逆らったという告白(6節)。先祖は主の御業に目をとめず、主の慈しみにも心を留めず、反抗した(7節)。にも関わらず、主が御名のために、先祖を救い、御業を示された(8節)。 先祖の行く道を進めなくしていた葦の海は干上がって、深い谷を行くように通ることができた(9節)。主は、先祖を憎む者、敵の手から救われた(10節)。先祖を苦しめたものは生き残れなかった(11節)。反抗していた先祖だったが御言葉を信じ、主を賛美するようになった(12節)。

さて、上記のような詩編箇所、神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? 私たちには、日本という地において260年もの間、キリスト教を迫害した歴史がある。キリスト教徒は死罪とされた。 実は、ヨーロッパでの歴史も時代は日本の歴史よりさらに1500年さかのぼるが、紀元4世紀途中までのローマでも同じ傾向があったといってよい。それは、その当時に普通に生活していた人々から見れば、社会として、キリスト教を認めていなかったのだから、やむを得ないような状況は否めないが、ヨーロッパの先祖も日本の先祖も、罪を犯し、主に逆らったということはできるのだろう。 しかし、この詩編に、主がイスラエルの先祖を辛抱強く慈しみをふりそそげ続けたように、ヨーロッパも日本の民をも、主が愛し続け、憐れみを与え続け、主の救いをもたらし続けてくださっているのだと感じる。
安達均

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