謹賀新年
今年からは、聖書日課が皆様に少しでも意味深いものになりますよう、聖書観想と題して、週半ばに以下のような、聖書を読んで思い巡らしたことを載せます。 週のはじめに与えられた福音書をふりかえり、また翌週の聖日の福音書に、そしてさらに礼拝へと思いを寄せる機会になりますように。
安達均
1月1日(日) マタイ2:13-23
降誕節(12月25日から1月6日の顕現日まで)に、今一度、イエスがイスラエルとエジプトを往復したときのイエスの様子を読んでいかがだろうか。 紀元前17世紀ごろにイスラエルの民がエジプトに行き、13世紀ごろにエジプトから戻ってきたことを思い浮かべる。 また現代は国を特定しにくいが、主に中東の難民がヨーロッパに、また世界中で人類の大移動がコンスタントに起こっているといえる。 その困難な移動のまっただなかに、愛と慈しみを持って、「創造主を愛し、そして互いに愛し合いなさい」と大合唱している天使たちの存在が見えるような気がする。
1月3日(火)ヘブライ11:13-22
聖書日課ではヘブライ人への手紙11章を月曜から木曜にかけて読むことになっているが、「信仰によって」という言葉が繰り返され、旧約聖書に登場した主要人物をふり返っている。 13-14節あたりは、信仰ということと、自分の本当の故郷ということを考えさせる。私は12月中に3回のお葬式があり、二人は66歳と56歳というまだ現役牧師だった。もう一人は、とくに洗礼をうけられなかった方だったが、奥様は熱心な信仰者だった。私は、その方が61歳で亡くなる約12時間前にお会いして、お祈りするなかで、言葉にはならなかったが彼の様子に信仰を見たように感じている。そして、慈しみ深い愛なる神に招かれ、みな同じ真の故郷に3人とも召されたと信じている。
1月8日(日) マタイ3:13-17
6日の顕現日をもって降誕節は終わり、レントがはじまるまで(今年は2月の終わりまで)は顕現後の時節となる。 その顕現後の第一の主日は、主の洗礼日と言われ、イエスの洗礼の様子。 今年はマタイ福音書から拝読。 今年はじめて気がついたが、日本語で15節の「止めないで欲しい」と言われるイエスの言葉、NRSVという英語訳を見ると”Let it be so now”となっていた。 ギリシャ語を読んでも、”Let it be”がピンとくる。「そのままにしてください。」に近い言葉だ。 いま3人の方々が洗礼を受けられそうな状況が生まれつつある。 聖霊の吹くままに、洗礼が実現しますように!
1月6 日(金)イザヤ60:1-6
顕現日に与えられる旧約聖書箇所を読み、思いを巡らせたい。 6節に出てくるシェバとは、シェバの女王を思い出すかもしてないが、イスラエルからしてみれば、異邦の国。そこからイエスにきらびやかなギフトを持ってくる博士たちを思い出させる。 1節の「起きよ。光を放て。」には元気づけられる。イエス様自身が光であり、また私たちに対しても、「あなたがたは世の光」とおっしゃってくださったことと重なってくる。 イエスの信仰ゆえに、わたしたちの間に宿られるイエスから照らされる光を、ただそのまま反射するだけで良い。いや、自分で反射しようとしなくても、わたしたちの中に宿ってくださるイエスが輝いてくださる。