あっという間に一月も終盤に入ってきている。 先週は新大統領も就任し、いろいろな心中おだやかではなく、不安を覚える人々も多いのかと思う。 御言葉を読み、思いを巡らすなかで、心に平安を覚えることができますように!
1月22日(日)マタイ4:12-23
アンデレ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネがいとも簡単にイエスに従っている様子。まだまだキリスト教がマイノリティである現代の日本人社会では、キリスト教の信者になるかどうかは、最初の4人の弟子のように簡単に決断できるものではないと思う。 しかし、当時のユダヤの社会状況は、あまりにも外国勢力、ローマ帝国からの圧迫がひどく、だれもがその日暮らしのような社会にあって、彼等が漁師という職業をやめてイエスに従う決心がついたのもわかる気がする。 さて、エネルギーにしてもさまざまな生活必需品にしても日本社会は世界貿易の故に成り立っているということは小学校時代から学んだ。しかし、その自由貿易主義の潮流が変わりつつありそうな状況で、一人一人の日本人、またどこの国・文化に生きる人であっても、何をよりどころに生きるかが一大事になってきているように感じる。
1月24日(火)フィリピ2:12-18
パウロの獄中書簡と言われるものの一つがフィリピの信徒への手紙。 この短い聖書箇所を読んでどんな気持ちになるだろうか? キリスト教への迫害はますます強まり、「よこしまな曲がった時代の中で」と表現されるような時代で、パウロ自身はたとえ獄中にいても、「わたしといっしょに喜びなさい」と結んでいるこの段落の言葉は、読んだ者に平安・希望、そしてまさに喜びをもたらしたように想像する。その同じ言葉が、現代の世界情勢を考えても、またさまざまな個人的な家族事情の変化や混乱の中でも、それぞれの場で、恵み深き主の愛が注がれる実感を覚えることができるのではないだろうか。
1月29日(日)マタイ5:1-12
イエスの「山上の垂訓」と呼ばれる箇所。 英語では、Beatitude とも言われ、「幸い」とは何かということについて考えさせる。 当時、旧約聖書の詩編などの教えが浸透していたユダヤ人社会にあって、詩編一編などからも想像できる「律法を守るものが幸い」ととらえられていた。 イエスの「霊的に貧しいものが幸い」という言葉は、一見、正反対のようで、あまりにも予想を反する言葉で、大笑いして噴き出しそうな言葉ではなかったかと思う。 さまざまな困難に直面している者も幸いなのだと説く、教えを通して、現代の私たちにも、神の御心が迫ってくる。
1月28日(土)ミカ3:1-4
週後半の旧約聖書は申命記から二箇所とミカから一箇所。 申命記というとやはり律法の大切さが述べられていることが多い。 そしてミカでは善悪という表現が出てくる。 社会の指導者たちが、善を憎み、悪を愛するものになってくることを預言している。 数百年後にイスラエルを統治する指導者たちを語っていたかのように思える。 4節はそれに主は答えず、指導者たちの悪ゆえに、御顔を隠すという。 悪、よこしまな世界の中で、主イエスが無抵抗のまま、十字架に架かられることとも関係しているのか?