February 5th, 2017

2月1日の聖書観想

聖書観想, by admin1.

先週、インドネシアに出張しており掲載が遅れ申し訳ありません。

1月29日(日) マタイ5:1-12
イエスに従い始めた弟子たちはもちろん、当時のローマの圧力に生活苦を強いられ、その副作用ともいうべき病や怪我を負っていた人々にとっても、当時のさまざまな困難が天では報われるという言葉が、どんなにか希望につながった事だろうか。現代の私たちには想像しきれないほどの癒し、励ましがあったのかと思う。いま一度、この山上の垂訓を読み返す時、現代の私たちがおかれているさまざまな状況に対しても、どれだけ主が愛してくださり、たとえこの世の苦労が多くても、天では報われるという普遍的な喜び、希望を持てるように思う。

1月31日(日) ヤコブ5:1-5
山上の垂訓の言葉の裏を返せば、つまり富んでいるものたち、さらに言ってしまえば多くの困難を強いられている者たちのわずかな収入から高率の税金を取り上げて生きているような人々を思うと、彼らは天ではどれだけひどいことになることかをヤコブはつづっている。マルチンルターがヤコブ書をかなり非難していた。わたしは、ヤコブが他の箇所で「行動によって救われる」ような事を書いていたので非難しているのだとばかり思っていた。今日新たにこの箇所を読むとき、マルチンルターは、ヤコブ書のこのような箇所も好きにはなれなかったのかと思う。

2月5日(日) マタイ5:13-20
1月29日の山上の垂訓の続き。有名な、キリストの弟子たちが、地の塩と世の光にたとえられる話。 じっくり考えるとき、世の光の部分は、ともし火をそのスタンドの下におくものではなく上におくものというたとえは文字通りわかりやすいと思う。いっぽう地の塩に関するたとえは、奥が深い。

2月2日(木) 申命記4:1-14
イエスは山上の垂訓の続きの中で「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と語られるが、申命記4章には、その根拠があるように思う。 もともとはモーセがシナイ山で神から聴いた言葉、十戒が二枚の石に記されたこと。その掟は、いつの世もどんな世界でも、決して消えないことを覚える。

Back Top

Comments are closed.