February 9th, 2017

2月8日聖書観想

聖書観想, by admin1.

2月5日(日) マタイ5: 13-20
5日の説教では、イエスの語る律法について少し語ったが、深く触れなかった。イエスは律法を決して軽視していない。 その重要性は多いにある。 ルーテル教会で、もの心がついたものが洗礼を受けるときには、マルチンルターの書いた小教理問答集を学ぶことを勧めている。 その問答集でいちばん最初に学ぶことは、十戒である。 十戒には、最初の三つの戒めに神との愛の関係が、後半七つの戒めは隣人との愛の関係が書いてあるともいえる。十戒無しには、キリスト教会もユダヤ教会も、また社会もなりたたないくらいに、重要なのだと思う。

2月6日(月) ローマ 11:2-10
ローマ書9章から11章はとくにユダヤ人について書かれている。とくにこの箇所は、律法が第一主義になってしまい、律法に基づいた行いこそが救いに結びつくかのごとくに考えてしまう、つまりつまづいてしまうユダヤ人を表しているように思える。

2月12日(日) マタイ5:21-37
この福音書箇所、「えっ、そんな、イエスさま厳しすぎます。とても、そんなこと守れません。」といいたくなってしまう。しかし、考えようによっては、イエス様が本当におっしゃりたいことは、文字通りに厳しいことをおっしゃりたいのではないのでは。。。聖書の言葉というのは文字通り読むことは危険ですらあるのだと思う。こういう話があった:救急車がかけつけたところ、ある人が腕を切り落とそうとしていた。そして、その横にはマタイ福音書の5章のこの箇所が開かれた聖書がおいてあったそうだ。

2月11日(土) 申命記 30:1-9
週の後半の旧約聖書は、創世記、レビ記、そしてここにあげる申命記からだが、どこも戒めを守ることの大切さが強調されているように思う。 しかし、本当に強調されていることは、子孫等へ「心をつくし、精神をつくし、あなたの神、主を愛させる」という戒めを守ることなのかと思う。 それは、「律法を守る行いに徹する」こととは異なる。 

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