June 20th, 2013

2013年6月20日 詩編を読もう:すべての人が主を認め (詩編22) 牧師:安達均

詩編を読もう, by admin1.

6月20日 詩編を読もう: すべての人が主を認め(詩編22)

今週読む詩編は22編。いつもだったら、3回読まれますようにと書いている。しかし、今週は少々長い詩編の一部だけを読み、その前後関係も説明してから、また読んでいただきたい。なので、まずは以下の箇所、一回だけ読んでみよう:  
詩編 22編
20:主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
21:わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
29:王権は主にあり、主は国々を治められます。

一回読んで、どんな感想を持たれただろうか? 21節や22節に描写された状況を思うと、何故そのようなことになってしまったのか想像しがたい面もある。 そこで、この詩編箇所の前後について少々説明したい。
1) この詩編22編のはじめ、2節になるが、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉ではじまっている。 これはイエス・キリストが十字架に架かる前の晩、ゲッセマネで祈られた言葉。
2) またこの詩編の最後は、30節から32節になるが、「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」
さて、22編の最初と最後の言葉をよく読んだ上で、あと2回でも3回でも20節から29節を読んでみてはどうだろうか。
私には、この詩編で詠われていた内容は、イエス・キリストが絶対絶命のピンチにおかれ、死に追いやられてしまう事、さらに復活する事も、紀元前数百年前の預言であったように思う。
また、26節と27節に書かれているようなことを実感し、毎週日曜日に集会(礼拝)に集い賛美している民が世界中にいる。 そして、28節にあるような、この世のすべての国、すべての民が、主に立ち返り、集会で主イエス・キリストを讃え、賛美するような時に向かって、歴史は歩んでいるように思う。つまりこの詩編箇所に書かれたことが、さらに何百年、何千年かかるのかわからないが、現実となる。
その主の司っておられる歴史の過程において、信仰生活を歩むようになった私たちは、この同じ時代に生まれている方々、それはこの世の人生の終点近くを歩まれている方々、人生のさまざまな通過点にある方々、この世の人生の始点に立った赤ちゃんたち、また、これから生まれてくる世代に向かっても、主イエスの恵みの御業を述べ伝える。 
特に今、復活ルーテル教会で、信仰生活を送り、人生の終点を迎えた方とそのご家族への主の慈しみと慰めを祈り、また、あたらしい命を授かったご家族のことも思い、主の祝福があるように。 そして、復活ルーテル教会に集う方々、まだ洗礼を受けられていない方々も含め、そのすべての民に、主の豊かな祝福が注がれ続けられますように。 
  

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