February 13th, 2014

2月13 日 詩編を読もう:「幸いとは」 (詩編119:1-8)

詩編を読もう, by admin1.

牧師:安達均

今週も119編の一部を読む。176節もある詩編の中の一番最初の段落、1節から8節だけを読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちを考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。  

詩編 119編
1:いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
2:いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
3:彼らは決して不正を行わず/主の道を歩みます。
4:あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。
5:わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。
6:そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。
7:あなたの正しい裁きを学び/まっすぐな心であなたに感謝します。
8:あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。

気になる言葉として、長い詩編119編の最初の言葉、「いかに幸いなことでしょう」がある。 英語だと”Happy are those” (New Revised Standard Version)という言葉ではじまっている。全部の詩編は150編あるが、その一番最初の詩編1編の最初の言葉も「いかに幸いなことか」、英語だと全く同じ”Happy are those”である。そして、新約聖書の中でマタイ福音書5章から7章に著された、イエスキリストの山上の説教も、新共同訳では「心の貧しい人々は、幸いである」と訳されているが、文語訳では、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。」であり、ヘブライ語や英語も、実は詩編の1編や119編の最初の言葉と同じ意味になってくる。  

詩編作者が1-8節全体で述べていることを簡潔に一文で書いてしまえば、「幸いとは主の道を歩むこと。」となるのかと思う。 しかし、以下に挙げるような様々な言葉を使って、主の道を歩むことがどういうことかを表現している。 「まったき道を踏む」、「主の律法に歩む」、「主の定めを守る」、「心を尽くして主の定めを尋ねる」、「決して不正を行なわない」、「あなたの命令を固く守る」、「あなたの掟を守る」、「あなたの裁きを学ぶ」、「まっすぐな心であなたに感謝する」という言葉が「これでもか、これでもか」と言わんばかりに並べられている。 そして8節は、「あなたの掟を守ります」という誓いの言葉と、「どうか、お見捨てにならないでください。」という言葉で終わっている。 なぜ、詩編作者は、この誓いの言葉と、いわば赦しを請うような言葉を詠うことになったのだろうか? おそらく詩編作者に、主の道を歩みきれないような過去があったように思える。また、6節には「どの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう」と詠っているが、詩編作者が、主の道を歩みきれないがために、自分自身が恥ずかしくてしょうがないような状況、あるいは、自分を責めるような思いに苛まれている状況が見え隠れしている。 

主なる神は、この詩編を通して、現代の私たちにどのようなことを語りかけてくださっているのだろうか? 詩編でも、新約・旧約聖書全体を通しても、「幸いとはなにか」ということが一つの大きなテーマなのだと思う。そして、現代を生きる私たちも「幸せって何?」という問いかけをしている。 ニューヨークヤンキーズに入団が決まった田中投手は仙台からニューヨークに引っ越すのに、チャーター便を利用したが、チャーター便を自前で調達できるほどになることが幸せなのか? あるいは、徹底的な努力をして、何かを達成することが幸せなのか? 詩編が伝えている「主の道を歩む」には、大きなヒントがある。 チャーター便に乗ることと幸せはほとんど無縁なのだと思う。田中投手だって、世のほとんどの人々が、 チャーター便に乗らなくても幸せはあるということは認めるところだろう。 また、主の道を歩むため、徹底的に神の掟を守るということは、徹底的な努力と似ていると思うが、行為が「幸せ」なのだろうか? イエスキリストが、「心の貧しい人々は幸い」と言われていたことも、よく噛み締めたい。 心の貧しき者とはだれか? 2月2日の説教で話したことの一部を、今一度、ここに記しておきたい。
日本語では、「心の貧しい人々は幸い」となっているが、ヘブル語あるいはアラム語の語順で書くが、「幸せ、貧しい人々、霊的に。なぜなら、彼等のものだから、神の国は。」となる。 最初の言葉は、「幸せ」という言葉で、ぐっと聴いている人々の注目を集める。 さらに続く言葉は、「貧しい」という言葉。 なんで?と聴衆の注目を益々集める。皮肉を言っているわけではない。その次の言葉は、「霊的に」という言葉。霊的に貧しい、よく考えると、イエスさまがおっしゃりたいことは、「霊的にとても弱く、助けを必用としている人々」となってくると感じる。 それはすなわち、群集の多くは、病になっていて、医療ではとても直せず、霊的に満たされることがなにより大切だった。だから、幸せなのは、霊的な助けをいただける、私に従ってきているあなた方だ。そして、神の国を引き継ぐことになるからと話されているように聞こえる。 アーメン。

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