復活祭は日曜に終わった。しかし、キリスト教の暦では、復活節は7週間続く。復活節の最初の週に、詩編114編を読む。とても短いので、最低三回は読んでみよう。そしていつものように、一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編114編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編 114編
1: イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
2:ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。
3:海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。
4:山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。
5:どうしたのか、海よ、逃げ去るとは/ヨルダンの流れよ、退くとは
6:山々よ、雄羊のように/丘よ、群れの羊のように踊るとは。
7:地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に/ヤコブの神の御前に
8:岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「イスラエルはエジプトを(出る)」という言葉がキーワードに思える。この詩編の中でも大きなきっかけが「出エジプト」という出来事だが、出エジプトは、すべてのイスラエルの民にとって、最大の出来事であり、またこの出来事は、人類全体にとっての最大の出来事、イエスキリストの復活と直接関係してきているようにも思える。この復活については、また後述したい。
詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、1節から4節は、歴史的事実を詠っている。 1節で、イスラエルの民が奴隷であったエジプトの地を離れるということは、ヤコブの子孫たち12部族が、ヘブル語ではない言語が標準語であるエジプトの民のもとを去ること。2節は「ユダは神の聖なるもの(となる)」と詠い、さらに「イスラエルは神が治められるものとなった。」と詠っているが、ユダとは十二部族のなかで、後にユダ国(南王国)となるユダ族とベニアミン族のことを指しているのではないだろうか。そして、2節で使ったイスラエルという言葉は、他の10部族で後にイスラエル国(北王国)となる、つまり、ルベン、シメオン、エフライム、マナセ、イッサカル、セブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル族のことを指しているように思える。ちなみに、このイスラエル国(北王国)はのちに、滅亡してしまうことになるが、その滅亡という言葉は使わずに、「神が治められるものとなる。」という言葉で詠っているように感じる。 そして、3節4節で、出エジプト後どのようなことが起こったかを振り返っている。「海は見て、逃げ去った。」は民が紅海を渡るときに、海の水がせきとめられて、海の底を歩いて渡ることができたこと。(出エジプト記14章)「ヨルダンの流れは退いた。」は出エジプト後、約40年の歳月を経たのち、カナンの地への定住前に、ヨルダン川を渡るときに、今度は川の水がせきとめられて、川の底を歩いて渡ることができたこと。(ヨシュア記3章)そして「山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。」とは、モーセがシナイ山に入り、神の言葉を預かったのち、山を降りてきて、民に会う前、山全体が激しく震えた(出エジプト19章18節)の時のことを詠っているように思える。 そして5節6節では、それらの出来事を自問自答すると共に、礼拝などで、この詩編を詠うものたち自らが、このような質問を自分自身ですることで、神の偉大さに気づかされるようになるのかと思う。 7節8節では、その神の偉大さにお任せするしかない民の現実を詠っているような詩編なのだと思う。
この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 特に日曜日に復活祭を祝ったのちに、この114編を読んでいることは神からの大きな語りかけがあるように感じる。 紀元前1200年ごろ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、奴隷時代を終え、エジプトから脱出した。 出エジプトは確かに起こった。しかし、まちかまえていたのは、どうやって紅海やヨルダン川を渡るかにしろ、あるいは信仰心は薄れ、内部分裂のような問題が起こるにしろ、さまざまな困難が迫ってきていた。 私たちの現代の人生の歩み、あるいは、人類全体の歩みを見ても、イエスキリストの復活は2000年前に起こった、あるいは、イエスの復活祭を日曜に祝ったといっても、私たちは多くの困難をかかえながら個人個人が人生を歩み、人類全体もたいへんな困難を前にして生きている。たとえば、原子力の問題を取り上げてみても、ある意味、現代の人類が手に負えないような問題を抱え込んでいるように感じる。 だからこそ、その困難の中に、生きておられる主なるイエスへの祈り、賛美、そして、御言葉を聴く中で、新たな道が開かれることを確信して、歩む人類でありたい。 アーメン
安達 均