July 2nd, 2014

2014年度日本語部修養会を終えて

行事案内及び報告, by admin2.

2014年LCR日本語部修養会を終えて

今年は6月27日と28日の二日にわたって修養会が行われた。会場は去年に引き続き、Pacifica 教区の礼拝堂を使わせていただいた。

修養会一日目、6月27日金曜日

午前10時から受付が始まり、10時15分に、開会礼拝が始まった。讃美歌「主我を愛す」を全員で歌った後、均牧師がヨハネによる福音書21章の15節から19節までを読み、この箇所から短くメッセージを語った:

この箇所は、イエスが復活後3度目に現れた時の話が書かれている。イエスを亡くした弟子達が、再び漁師に戻ろうかと思っていた所にイエスが現れるが、彼らは気が付かなかった。「イエス様だ」、と気が付いたペテロに、イエスは三回も「あなたは私を愛しているか?」と聞かれる。日本人には「愛」という言葉は一つだが、ギリシャ語には3種類あり、「神の愛」はアガペである。 そして神の愛はアガペであるという事がなかなか理解できない。この聖書の箇所でイエス様が使われた「愛」は、「アガペ」の愛である。二回イエス様が「アガペ」を使って「愛しているか?」とペテロに聞いた時、ペテロは「アガペ」ではなく「フィロス」(兄弟愛)の愛を使って「愛しています。」と答えている。三回目にイエスが「愛しているか?」と聞いた時には、アガペではなくフィロスを使っている。三度も同じ事を聞かれたペテロは悲しくなって「私があなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」と答える。ペテロはイエスが彼に語りかけている言葉が、何を意味していたのか解らなかった。私たちもイエス様が今私たちに何を語りかけているのか、語られている神のみ言葉、そして神の愛をしっかりとと聴く訓練を、この二日間の修養会を通して学びたいと思う。

短いメッセージの後、信仰告白、そして新聖歌172番の「望みが消え行くまでに」を歌い、祈りと祝祷を持って閉会となった。

主題講演(一) 安達均牧師

11時から一時間に渡り、「み言葉に浸る」(Dwelling in The Word)、というテーマでメッセージを聴いた。ヨハネの1章1節から4節、そして14節からの聖書の箇所から「み言葉」によって私たちが動かされ、生きていることを学ぶ。私たちは「言葉」によって動かされる。言葉は霊であり、イエス・キリストである。 安達牧師のパワーポイントとその資料に沿って、私たちはみ言葉に浸る手法について考え学んだ。 安達牧師はみ言葉に浸る為の手法を3種類述べた。第一の手法は、レクティオ・ディヴィナ:この手法は3−4世紀にさかのぼり、4つのステップから成り立つ。①Lectio(読む)、②Meditatio(黙想する)、③Oratio(祈る)、④Contemplatio(観想するー思いめぐらす) である。第二は、Book of Faith で、ELCAが最近推奨しているが、やはり聖書の4つの読み方である。①全身全霊を込めて読む、②誰が何時どのような目的で誰に宛てたか?等の質問に答えながら読む.③文字通りに書かれている文章を読む.④ルター派の観点から読む。そして第三は、アシュラムであり、これは明日土曜日にキム牧師のご指導によって行われる。

安達牧師は次のように講演を続けた:洗礼は水に浸る事であり、父と子と、聖霊の名によって私たちは洗礼を受ける。それは神の命に私たちが浸る事である。同様に、14節に書いてある「言葉が肉となる。」とあるように、神の存在がそこにあり、私たちはそれに浸る事によって、身になり活かされる。聖書の言葉の中にイエスの愛を感じ、イエスの中に入って行く、またはイエスが私たちの中に入って来る、それはどういうことかを、この修養会で探究して行きたい。               (全体の内容はパワーポイント資料参照)

主題講演の後、私たちは昼食と交わりの時を一時間楽しんだ後、午後のグループ別話し合いへと進んで行った。

午後のグループ別話し合いは、3つに別れたグループが、マルコ、マタイ、ルカの平行記事を読んで話し合うのだが、普段とは違う試行で進められた。 共感福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカには、同じ記事が書かれているのだが、微妙に違っている。

マルコは一番最初に福音書を書いたと言われていて、マタイとルカはマルコを土台にして書いたのだろうと言われている。 マルコはペテロの弟子で、ペテロがアラム語で話したのをマルコがギリシャ語に訳していたのだろう、とも言われている。マタイは12人の弟子の一人で、徴税人だったマタイではないかとも言われている。ルカは、医者だったと言われ、使徒言行録を書いたのもルカである。ということは、ルカは多分パウロと伝道旅行を共にしたのだろう、と言われている。

今回の平行記事の箇所は、マタイ22章35節から40節、マルコ12章の28節から31節、そしてルカ10章25節から28節を、それぞれの福音書の箇所を読んだ後、40分かけて自分が一番気になった箇所や、感じた箇所を分かち合い、このみ言葉を通して、2000年前にイエスが誰に何を語りかけたのか、そして21世紀の今、神が何を私たちに語りかけているのか、を話し合った。 マルコ、マタイ、ルカの三人が同様に書いている事は、律法の専門家、又は律法学者が、イエスを試そうと思い、律法の中でどれが一番大切な掟かと聞く所である。マタイとマルコでは、イエス自身がこうお答えになっている、「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 (マルコでは、“力を尽くして”ともある。)、そして第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」と。 ルカでは、イエスが律法の専門家に「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と聞かれて、彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われている。そして、彼がマルコに書かれている事と同じ律法を言うと、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われている。それぞれに少しずつ言い回しは違っているが、同じなのは、ユダヤ人の律法学者、専門家がイエスを試みようとして聞いている事。同じ律法の掟をユダヤ人達は子供の頃から暗記しているから、勿論すぐに答えられている、という事。そして特にルカの福音書で書かれているように、「それを実行しなさい」という事は、イエスがユダヤ人達に、「あなた達は律法に書いてある神の言葉を全て暗記していて素晴らしいが、それらのみ言葉を実行していますか?そのみ言葉に生きていますか?自分を愛すように隣人を愛していますか?」、と問われているのではないかと思われる。私たちも、ユダヤ人の律法学者のように、聖書のみ言葉を読み、暗記をする事はできるが、それ以上にみ言葉に浸っているだろうか?み言葉が肉になっているだろうか?そして心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神のみ言葉を受け入れているだろうか?このようにマタイ、マルコ、ルカの平行記事を、それぞれ40分かけてじっくり読んで行くと、普段素通りしてしまい、深く掘り下げて理解していなかった細かい神の思いに気づかされる。グループに別れてそれぞれに話しあう事によって、それぞれに違った観点から異なった思いや疑問を分かち合い、「ああいう感じ方もあるのか、」とお互いが感心しあい、学びあう事ができた。  (各ブループの纏めを読まれると面白い。)

修養会二日目、6月28日土曜日

讃美歌172番を歌い、二日目の修養会が9時に開会された。

安達牧師からキム牧師の紹介があり、キム牧師がアシュラムについて説明された。

アシュラムとは、インドのヒンズー教の静かな隠棲の場所のことで、1800年代後半に、アメリカのスタンレー・ジョーンズ宣教師がインドでの体験を基に、クリスチャンの為に始めた運動である。クリスチャン同士が、教派を越えて集り、静かに祈り、み言葉に聴き入る、そして聖書の一章をゆっくりと時間をかけて通読し、神の語りかけを直接聖書から聴く。それを体験した参加者達は、じっくりとみ言葉に浸って充電されたように、アシュラムが終わってそれぞれの場所に帰って行く時が、新たな信仰生活の始まりとなるのである。

アシュラムとは、私たちが、忙しい場から離れて、もう一度個人の霊的生活の歩みを始める時なのである。ある人にとっては再出発の時となることもある。私たちの信仰生活を振り返って見ると、教会に来ても「燃えない」と思う事はないだろうか?その共通点は、教会以外に学びの時を持っていないからではないだろうか?私たちが祈る時は、願い事ばかりを並べていないだろうか?昔、「心のチキンスープ」という本が流行った事がある。それは心温まる話、勇気が出る話など、自分の都合に合わせて読めるから便利だった。正に自分が「主語」だから自分が中心であり、心地良いのだろう。しかし聖書を読む事とそれとは違う。聖書のみ言葉に「聴く」というのは、み言葉を通して、神様は何を私に語っているのだろう、と神様の御心を聴くことなのである。祈りというのは、年寄りのエリがサムエルに祈る事を教える時に、「僕は聴きます。主よ語って下さい」と言っているように、静かな所で、神様が自分に語っている神の思いを聴く事である。私たちが呼吸するのと同じように、み言葉がなければ私たちは生活の中で神の中に生きる事はできない。信じるとは「一点」の事だが、信仰生活というのは、「継続しなければならないもの」。点には面積がないけれど、無数の点が連続されると「線」になり、持続して行く。しかし、忙しい生活を送る私たちにとってそれが実際に実行できない。(自分が育児をしていると、本当に大変で忙しい中時間を取って聖書を読み、祈りを捧げるには、犠牲が必要となる事が解る。)どこかを削って努力する必要がある。そのようにして神との交わりを持たない限り、子供が親との愛情、交わりがないと人間として育って行かないのと同じだと思う。キム先生のオリエンテーションを聞きながら、このように時間を取って一日でもアシュラムを体験する事は貴重なことであり、自分の信仰の再確認だけでなく、しっかりと神様の語る言葉を聴き、み言葉を身につける機会に恵まれた事に、わくわくするような感動を覚えた。

三浦綾子さんが書かれた本に「ちいろば先生物語」という本がある。その本の主人公の「ちいろば先生」とは、榎本保郎先生である。この先生が日本でアシュラム運動を広められた。「ちいろば」とは榎本先生が作られた言葉である。聖書の箇所で、イエスキリストがエルサレムに入城される時に、皆歓迎してイエスを受け入れる。その時イエスは小ロバに乗って、エルサレムに入城した、という話がある。この世的には、英雄が入場する場面を想像すると、もっと違うイメージなのに、イエスは平和の君として、謙虚に小ロバに乗って入城した。この事が榎本先生に大きな衝撃を与えた。自分も、小ロバのように小さな存在かもしれない、でもイエス様に用いられる事が出来る。死ぬまで自分は“ちいろば”でいよう、と思ったのだ。そして榎本先生は“ちいろば牧師”と呼ばれるようになったのである。榎本先生は肝炎に冒されながらも、1977年にロサンゼルス・アシュラムの為に、無理をして飛行機に乗ったが、機内で倒れ、サンタモニカのERに運ばれ、残念ながらそこでお亡くなりになった。現在彼の息子の榎本恵が受け継いでアシュラムリトリートをアメリカに広めようとしている。

キム先生は、中学生の時に親に連れられて日本に移住したそうだ。その時、日本語ができなかったので、何処の学校も彼を受け入れてくれなかった。やっと受け入れてくれる学校が滋賀県に見つかり、キム先生はその学校に入学し、そこの寮に入った。たまたま榎本先生が近くに住んでいて、大変にお世話になったそうである。

オリエンテーションの最後にキム先生は、プログラムにある10時からの「静聴」とはどういう事をするのか、また、恵みの分かち合い、充満の時とはどのような事なのかを次のように説明された。

このプログラムの特徴は:

語る事ではなく、聞く事が中心。だから講師はいない。講師はあくまでもイエス・キリストご自身。自分も講師ではなく、ただの進行係をしている。また、それぞれのグループに分かれるが、グループをファミリーと呼び、ファミリーのまとめ役が進行係。

アシュラムに参加する時の3つの質問:①ここに来た理由は何か?②何を願っているのか?③何を必要としているのか? ただし、アシュラムの主語は自分ではなくて神なので、神が私をここに来させたのは何か?神が私に願っているのは何か?神が私に必要とされている事は何か? と聴く(静聴の時が必要)。今回は、マタイの福音書6章を聖霊の交わりを求めつつ、読む。同じみ言葉から、新たな何かが感じられる事があるので、先入観にこだわらずに、新しい気持ちで読む。み言葉を素直に読むのは難しいが、

(特に良く知られている聖書の箇所は難しい)、先ず自分のコップを空にして、新しく注いでいく気持ちで読む事が大切。 一時間自分の場所を探し、マタイの6章を全身全霊を注いで読む。その後恵みの分かち合いをファミリーと行う。恵みの分かち合いの時は、先ず話し手の話す事をそのまま聞く、決して反対意見を述べたりしない。相手を尊重し、お互いに心を開いて語り合うことが必要。私たちは皆罪人であり、その罪が赦され私たちが兜を脱ぎ捨て、平等の交わりとして自分を介抱するのだ。それぞれの個人的な問題をオープンに話し合う場でもある。そしてファミリーで話し合ったプライベートな事は決して他言しない。

纏めると、ファミリーで分かち合う時は:

①聖書のみ言葉を語る。

②問題をシェアする。

③今後生活の中で実践する事が示されたならばそれをシェアする。

④その場で話合った事を他では話さない。

⑤始めに説明された3つの質問を話し合う。

⑥一人一人祈る。

進行係は司会なので、自己紹介からそれぞれ示されたみ言葉をシェアできるように進めて行く。要点を全体の前でシェアする。一人一人お祈りを回して、最後に進行係が祈る。

アシュラムは、プログラムが終わる時が始まる時、それが「充満の時」。これからの生活に力強く活かされてこそ、参加した意義がある。聖霊の助けを求めるときが「充満の時」でもある。

キム牧師の説明が終わり、私たちは15分の休息を取った。その後それぞれが静かな場所を見つけ、1時間かけてゆっくりマタイの6章を読んだ。そして11時15分からそれぞれのファミリーが別々な場所に集合し、恵みの分かち合いを行った。

私はCファミリーの進行係を務めた。それぞれがマタイの6章を一時間全身全霊を注いで読んだ後に、一番気になった事、感じた事を語りあった。ある人は、22節の「ともしび」という言葉から、エリがサムエルに言った「神のともしびは消えておらず」というみ言葉を思い、ちいさなともしびでも決して消さないで行きたいと思った、と語った。ある人は「見てもらおうとして人前で善行をしないように」という言葉から、どれ程自分が周りの人に左右されているか、自分が善行をするのは自分を良く見せようと思っているからで、本当に自分が小さいと痛感した思いをシェアしてくれた。ある人は、自分が人の為によかれと思ってやったことの見返しがないとがっかりする、報酬を求めている自分に気が付いた、と語ってくれた。ある人は、 25節を読んでいて、自分が小さい時に感動した聖句だった事を思い出した。そして今やっと自分が全てを神様に委ねて行ける幸いを感じる、と語ってくれた。その他にも、この紙面には書ききれない程の多くの事を分かち合う事ができた。私自身、まだまだ時間が足りない程にしっかりこの箇所を読めてはいないと思う程に、この箇所は掘り下げれば掘り下げる程深くなっていくような気がした。私は、「彼らは既に報いを受けている」という言葉が理解できなかった。誰が誰の報いをすでに受けているのか?何度も読むうちに、そうか、人前で善行を働いたり、施しをしたり、断食をするのは、ユダヤ人達が律法を教えられるままに守ってやっている事を見せることで、それは周りの人を喜ばたせりするだけ、自己満足だけで終わってしまうから、決して神様に報われているのではなく、周りの人の目に報われ、自分が満足して自分を報いてるだけに過ぎない。相手に喜んでもらおうと奉仕をすれば、それだけに神経を使っているから、内面が渇いてくる。そうすれその渇きを癒したいが為に、相手からの報酬を求めたりするのだろう。そうではなく「心の動機」が大切であり、心は神に向いていなければならない。そうすれば、善行をする事が自分の為でも他人の為でもない。神の報いがある。だから喜びが溢れて来る。

昼食の後、充満の時を迎えた。他のファミリー達もそれぞれに素晴らしい恵みの時を持てた事が、それぞれの進行係の報告から感じられた。面白い事に、同じマタイの6章を読んだにもかかわらず、各ファミリーからは、同じような話ばかりではなく、全く違う思いや感想がシェアされた事だった。新鮮だった。 私が一番新鮮に感じられたのは、キム牧師が、それぞれのファミリーの報告を聞くたびに、心からその分かち合いに感動し、初めて聞いた事のように頷き、それらを全て自分の中に受け入れている様子だった。イエスの言葉に聴き入る謙虚な牧師の姿を見た思いだった。

「充満の時」の後は、閉会礼拝となった。

安達牧師がマタイ28章の16節から20節を読み、キム牧師がメッセージを語られた。

キム先生の説教:今日の箇所は復活されたイエスが、弟子達の所に現れて、再び一つにされて、いよいよ世界宣教の為に使わされる箇所です。

三つの点:

1.使命を与えられる神とはどのような神か?

イエスはまことの神であり、三位一体の神である。信じる対象にキャラクターがある。神であり、キリストであり、霊である神がそれである。たとえば、太陽そのものが父なる神だとして、太陽が発する光、(太陽は神と同じように眩しくて見る事ができないが、光は実際にこの世に訪れたイエス・キリスト)、そして光が私たちに届く時に感じる熱、これは聖霊である、私たちはその熱によって動く。しかしながら、実際にはどのように説明しようとしても、神様の事を説明する事はできない。私たちが理解しようとしまいと、私たちはすでに三位一体の恵みの中に置かれている。

祈る事を考えてみよう。

私たちは創造主なる神に向って祈っている。それはミディエーター(中間者)となっているイエス様が、「私の名よって祈りなさい」と言われる言葉により、私たちは キリストの名によって祈っている。聖霊の導きによって、私たちは信じる事、そして祈る事ができる。父なる神に向い、子なるイエスの名により、聖霊の導きによって祈る事ができる。

2.使命を受けられる弟子達はどのような弟子達?

イエスは彼らに生きる理由と目的を与えられた。マタイ28:18、19        ここに書いてある弟子とは、私たち一人一人のことでもある。私たちも神によって生きる理由と目的を与えられている。私たちも彼らとあまり変わりがないのである。

3.神はどのような使命を与えられたのか?

イエスは、疑う弟子達に、ご自分から近づいて来て、弟子達を信頼し、彼らに使命を与えられたのだ。何故ガリラヤへ「行け」と言ったのか?何故彼らの故郷であるガリラヤへ「帰れ」とは言わなかったのか?それはイエスに使命を与えられた彼らが、 目的を持ってそこ「行く」からである。信仰を持って生きるという事は、主の指し示す所に「行く」ということでないだろうか? 私たちはみ言葉によって養われて、 主の信頼と愛を確信し、自分の弱さをも再確認できるのである。そして、弱い私たちでも希望を持ってイエスの使命を全うできる。この修養会を通してその力を得たい。

私たちは最後に今回の修養会テーマ讃美歌となった172番を歌い、安達牧師の祝祷を 受け、心も新たにそれぞれの場所へと派遣されて行った。 正に私たちの新たな信仰生活の始まりとなる修養会となった。              芙美Liang 記録

 

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