今週は7月2日から5日の聖書日課に与えられている詩編123編を読もう。とても短い詩編だが、120編から134編は、すべて最初に「都に上る歌」との説明書きがあるので、120編から134編が一つの大きなグループの詩編で、その一部が123編ともいえる。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編123編
1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。
2:御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。
3:わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
4:平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあ まりにも飽かされています。
気になる言葉としては、「飽かされています」という、あまりピントこない言葉。 前後関係から理解して、また辞書でも調べてみたが、「満ちている。」とか「十分にある」という意味なのかと思う。
さて、詩編作者の気持ちを想像しながら、短い詩編をじっくり振り返りたい。 冒頭にも書いたように、詩編120編から、都に上る歌がはじまっている。 エルサレムから遠く離れた所から、三日位かかって、エルサレムに上ってきたような感じがする。 毎日一編づつ、詩編を詠いながら。 そして、エルサレムの神殿をまん前にして、この詩編123編を詠っているような、信仰深い詩編作者とその一族の様子が思い浮かぶ。 目をあげて、わたしは(一族の長)が主を仰ぎみます、天におられる主よ、と呼びかける(1 節)。 僕(しもべ)が主人の手を見守るように、また女奴隷が、その女主人の手を見守るように、私たちは、今、主なる神を見守り、憐れみを待ちます(2節)。1 節が家長の個人的な神への呼びかけ、2節は家族・共同体としての神への呼びかけが大きなテーマで、神の憐れみを願う。3-4節では、2節に引き続き、憐れみの祈願が繰り返され、そして、なぜそんなに憐れみを願うのかを説明すべく、共同体が背負っている心の重荷の告白になってくる。 どうか私たちを憐れんでください、主よ、憐れんでください、わたしたちの心はあまりに、恥に満ちています(3節)。 私たちの魂は、世の中を、ただ思いわずらいもなく生きている者たちからの嘲りに、また私たちを見下して生きる者たちからの侮辱に、あふれています(4節)。 そこには絶対的な神に頼って信仰をもって生活する詩編作者やその家族が、周辺の人々からは、ばかにされ侮られてきた様子が思い浮かぶ。 そして、耐え切れずに、エルサレムに上ってきて、神殿で、主に憐れみを請う姿が現れている。
詩編123編を通して、神は何を現代の私たちに語ろうしているのか? 詩編が記された紀元前数百年前から現代の話に飛んでしまう前に、イエスキリストの時代のことを思い返したい。 7月5日の聖日に与えられている福音書は、マルコ6章1-13節になるが、その前半部分では、イエスが生まれ故郷のナザレでは、ほとんど相手にされないというか敬われない様子が描かれていた。 そして、現代の教会の指導者たちも、自分の生まれ故郷では、周囲の人々から侮られてしまうということは起こっているのではないかと思う。 また、指導者ばかりではなく、現代においてキリスト信仰に生きる者は、社会からは嘲笑、侮辱の対象になってしまうことも否定できない面がある。そこには、信仰者が一人で社会に存在しているだけでは、とてもやりきれなくなってしまう面があるのではないだろうか。 だからこそ、詩編作者とその群れが、エルサレムの神殿に向かったように、現代の信仰者も、週一回は、謙って主を賛美しつつ、礼拝堂に集い、自分たちの重荷を告白して主の憐れみを請い、恵みの御言葉を聞き、新たに主に頼る信仰を強め、恵みに応答して捧げ、聖餐に授かって、また世の中に派遣されていく、そのような生活に導かれているように思う。
アーメン
安達均