Tweet マルコによる福音書8章31-38節 「受難節に思うこと」 “Pondering on The Season of Lent” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように、アーメン。 キリスト教の暦は11月の末から12月の初めに始まる4週間の待降節、英語でAdvent Season で始まり、クリスマスはイエス様の降誕日、それを祝う短い降誕節、そして1月の二週間目に、顕現節、英語ではEpiphany Season と言う1ヶ月にわたるシーズン、そして二月の終わり3月の初めにかけて受難節、英語でLent と言うシーズンに入ります。この受難節を終えるとイエス様がろばに乗ってエルサレムにユダヤ人、いやそれ以上に、人類の救い主として入城する枝の主日、英語で言う、Palm Sunday を迎えます。この枝の主日と言われている日曜からイエス様は弟子たちにご自身のこの世に送られた理由、それは、人類の救いのために神様であるイエス様自身が、私たちの罪をご自身が背負って十字架による死の道を選ばれたことです。罪を持たない神の子イエスが、私たちの罪を十字架による受難によって、私たちが神様と共に天国で生きられるようその道を整えてくださったのです。勿論父なる神は十字架で死んだイエス様を生き返らしてくださった。それがイースター、復活祭の約束です。。 イエス様に従ってゆく信仰を持つクリスチャンの私たちは毎年このような教会の暦の中に神様の私たちに対しての愛、それを聖書、説教、Bible study の中でお互いに心の中に受け入れてゆくのです。私たちの神様、イエス様に対しての信仰は聖書の中での神様の言葉を聞くこと、祈ること、お互いを大切にかかわりあってゆく中で大きくなることを経験するのです。 これは私の経験で知っていることなのですが、教会の暦と言うことにあまり関心を示さない教会が多いのです。例えば今このシーズンが受難節、あるいはレントの季節であると言ってもそれが何のことか分からない、いやそれが何であるかを知らないと言う人たちも多いのです。イエス様の復活のイースターは皆さんご存知ですが、イエス様の復活、私たちの永遠の命の約束も、イエス様がこの受難節の中で読む聖書の話、イエス様が私たちの罪をご自身が背負って十字架の上で死んでくださったという事実を私たちの心の中で感謝の思いで受け取るからこそ、私たちは喜びの心で復活祭を祝うことができるのです。 ところで話は変わりますが、イースターは、Candy storeにとって、とても忙しい時です。イースターはまだ一ヶ月以上先のことですが、Riverside のSee’s Candy Storeでは、すでに、イースター・バスケットの中に、チョコレートの卵、ウサギが入っているものが売り始められています。またチョコレートの十字架もあるよと誰かに言われたので、ウエブ・サイトで Chocolate cross と捜索したら、本当にイエス様が十字架にかかった姿のチョコレートが出てきたのです。 例えこれを貰ったとしたらどうしたらいいのでしょうか? 十字架は甘い物のシンボルではありません。多くの人が十字架を装飾品として使いますが、十字架は、あくまでもイエス様がそこに釘で打たれて架かった、死に至る苦痛の道具です。 今日の福音書9章31節に書いてあります。イエス様ははっきり言いました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。そして、殺されて三日の後に復活する」と。弟子たちはこの言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかったのです。 イエス様の弟子として、3年一緒に暮らしてきた12人、イエス様の権威のある教えを聞きました。イエス様の癒しを彼ら自身の目ので見て来ました。また聖書には、沢山の人が、イエス様に「私を哀れんでください」、「わたしに人間として生きる誇りを与えてください」 「私の死にかけている子供を助けてください」ひざまずいたシーンを見てきたはずです。 しかしイエス様に従うことは肉体も精神も、また物質的にも恵まれる、生活が優雅になることだと思ってきた人たち、それは12弟子の中にもいたのです。。これでは十字架もチョコレ-トのようなお菓子となってしまうのです。1970年代、わたしが、神学校で勉強をしていた時、Pierre Bertonと言う人が、”Comfortabを持つことは、自分たちの生活が、楽になる、居心地がよいものになる、まったく毎日が、晴天の続く毎日のようになることだと書いているのです。今でもそのようなことを言うクリスチャンもいるのです。その人たちは、イエス様に従うと言うことは自分の人生がcomfortableになると主張するのです。 「私の教会に来て、私の説教を聞きなさい。どうすれば神様から素晴らしい人生が与えられるか教えてあげよう。イエス様に従うことは人生の悩み、悲しみがなくなり、平和の人生が送れるようになる。あなたの結婚生活も良くなります。物質的にも恵まれるようになる。イエス様に従うことで、生活も安定する。そしてハレルヤと神様を賛美するのです。このような教えはProsperity Theology 、日本語では、繁栄、成功の神学と言って本当のキリスト教の教えではありません。 では何が本当のイエス様の教えなのですかと皆さんから聞かれて当然です。難しいことを言うつもりではありませんが、この言葉を聴いてください。それは北森先生という神学者、この人は、日本キリスト教団と日本福音ルーテル教会の神学校の両方で「神の痛みの神学」と言う題のもとに神様の私たちに対しての救いを熱情をこめて教えられた方です。 神学校の授業とは言わないまでも、今ここで、「神の痛みの神学」ってなに?と言うことを皆さんにお話したいたいのです。この天地万物を創造された神様、私たち人間をお造りになった神、つまりあなたの造り主なる神様は、どこか遠くにいて、ちっぽけな私たちの痛みなど、感じることもできないお方ではなく、私たちが苦しむ時にはともに苦しんでくださるお方だということです。 私たちは、自己中心な故に、自分の喜び、自分の痛みしか感じることができず、他人の痛みを感じることが中々できません。その結果、喜ぶものと共に喜ぶことができず、泣くものと共に泣くことができません。しかし、イエス様はこの自己中心の私たちをも愛してくださっているのです。 イエス様はこう言うって下さっています。「あなたの心がいろいろな悩みで悲しんでいる時、経済的に苦しんでいる時、人間関係がうまく築かれないで、一人ぼっちで寂しい時を過ごしている時、私はあなたの心の中をすべて知っています。でも、ただ知っているだけでなく、あなたは私の大切な人。みなさんが、人生でのトラブル、孤独感を感じている、でもそんな時こそ私、イエスはあなたを力づける私の聖霊によって見守っているんですよ。愛しているんですよ。あなたの痛みは実は私の痛みでもあるのです」と。 私が1975年にアメリカの神学校に入学する前、日本でのルーテル教会の籍をアメリカのボルチモアにあるSt. Paul Lutheran Church に移しました。その教会はボルチモア市から出たすぐ近くの教会で、その当時、白人の会員がほとんどで、2家族ほどの黒人の家族がいただけです。しかし、ボルチモアはすでに、その時80%の人口が黒人の教会で、人種差別の問題が続いていました。しかしそれはアメリカの大きな都会では皆同じだったと思います。 皆さんの中で、今年のアカデミー賞を見た人いますか? “The help” と言うアメリカの南部の地で黒人の家政婦さんが白人の家庭に入って子供の世話をする、部屋の掃除、食事の仕度と朝早くから夕方の7時ごろまでする風景を描いた映画です。もちろん1960年代の人種差別の中の問題を描いた映画で、黒人のヘルパーたちがいかに不当な扱いをされていたかと悲しくなるシーンも沢山ありました。 このようなアメリカの人種差別の問題はいたるところ、それは日系アメリカ人も経験してきたことです。1955年、バーミンガム、アラバマ州でRosa Parks さんと言う黒人の女性がバスの中で黒人が座ってはいけない席に座り、運転手が、そこは白人だけの席、立ちなさいと言う忠告を無視した為無理やりに席から引きずり落された事件が起こったのは皆さん知っているでしょう。60代も半ばを越したRosa Parks さんは、後にこの事件についてこう書いています。 「私が法律で決められていた黒人、カラーと言われる人間が、白人用の席につけない、なぜなら白人用と指定されたその席に座った日に何も考えていませんでした。私がその席に座ったのは、その日、わたしは非常に疲れていたからです。しかし不思議にも私がその席を立たなかった理由はその時恐れると言う思いが私の心の中に少しもなかったからです。あったのは私は神様のイメージで作られた人間ですと言う誇りだけでした。 Miss Rose Park said, “It was time for someone to stand up – or in my case, sit down. So I refused to move.”「この場合誰かがこの差別に対して立ち上がる時期だったので私は座って居て席を立つ事を拒否しました。」 イエス様に従った生活をしてゆくことは私たちがクリスチャンとして求められていることです。私たちは自分の時を使って奉仕のする事を心がけましょう。他人を助けるその時、私たちはそこにイエス様の顔を見ることができるのです。 受難節とはクリスチャンとしてイエス様についてゆくとはどういうことなのか、またそれはどのような私たちの行動の中で表していくものかを考え、実行する時であると思います。それが何であろうとイエス様が私たちと共にいてくださることを知って、聖霊の助けにより神様のみ技ができるように祈ります。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
March 7th, 2012
2012年3月4日四旬節第2主日聖餐礼拝説教「受難節に思う事」”Pondering on The Season of Lent”岸野豊牧師
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