Tweet 今週は聖書日課に従って、詩編22編25節から22編の最後までを読む。「えっ、また22編?」と思われる方もいるかもしれない。というのは、「詩編を読もう」では、今年の四旬節の間に、2回も22編をとりあげたから。しかし、復活節にあって新たな気持ちで、この詩編箇所を読んでいきたい。来る日曜日は復活後第五主日となる。福音書は、イエスが「わたしはまことのぶどうの木」といわれ、ご自分を「真理なるぶどうの木」にたとえ、また弟子たちを「ぶどうの枝」にたとえられた話を読む。そのたとえ話を思い浮かべつつ、この詩編箇所を新たな気持ちで読むのも良い。そして、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。最後に神はこの詩編22編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 22編 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31‐32:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、26節にある大いなる礼拝のなかで「神を畏れる」人々が集まっている様子。 さて、過去に読んだ22編のことにとらわれず、新たに詩編作者の立場を思って詩編22編を読む。主は貧しい人の状況を見下してしまうようなことはなさらず、また助けを求める叫びを聞けば、聞こえぬふりなどなさらず真剣に御顔を向けて聞いてくださる(25節)。だから、神を畏れる人々が集まる大きな集会にて、私は主を賛美して、満願の捧げ物を捧げる(26節)。飢えていたものは食べて満ちたり、主を求めた者が賛美し、主の御心がわたしたちの中に永遠にやどるように祈る(27節)。地のはてまで、この地に存在するすべての人が主を覚え、主に向き直り、国々に行き渡る主の民が、主にひれ伏すように(28節)。御国は主が権利を持っており、すべての国々は主が治めている(29節)。この地で満ち足りたものも皆、主を拝み、また塵となってしまった者も主の御前でひれ伏し、自分の命ではなく主の命、蘇りの命が与えられる(30節)。来る世代の人々も主に仕えて、その次の世代に主のことを語り伝え、代々、主が成し遂げた恵みの御業が継承されていく(31-32節)。 この詩編22編のこの聖書箇所を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 復活節とは言うものの、世間を見回すと、ネパールでは大地震が起き数千人の方が亡くなっている。ボルチモアでは、またもや人種差別と思われる行動がひきがねとなっているようだが、暴動が起きている。安部首相が今週前半はボストン、ワシントンを訪問し、見事な議会演説をされたようだが、かたや中国や韓国から安部首相への歴史認識に関する激しい非難が寄せられており不気味にさえ思える。一市民にはとてもコントロールできかねるような問題が、またかまたかと繰り返し起こっているような気もしないでもない。このような状況の中で、復活された神がおられるなら、なんでこんな悲しい事件や悲惨な歴史は繰り返し起こるのかと、神様に文句を言いたくなるような気持ちが起こっても仕方がないような気がする。しかし、詩編22編の言葉の中で、主なる神が、わたしたち被造物である人類、つまり神によって創られた一人一人が、どう対応したらよいかという鍵が含まれているように思う。26節にある主を畏れる民として集まり、主を賛美して、満願の捧げ物を捧げる状態を、主が望んでおられることを覚えたい。キリスト教徒は20億人とも25億人とも言われるが、まだまだ復活の主の働きを認めず、そっぽを向いて我が物顔にこの地を歩む者がいて、大きな失敗を経験する。あるいはキリスト教徒といえども、迷える羊となり、主から離れて行動してしまう。 だから毎週毎週、復活の日曜には主のもとに立ち返り讃美歌を歌い、反省する。こんどの日曜であれば「私は真理なるぶどうの木であり、人間はその枝でる。」という本来ならきってもきれない関係にあるという主のみ言葉が与えられる。十分の一の捧げ物をし、主なる神からあらたなる祝福をうけて世に送り出される。そのような生活を全人類が歩めますように!アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ 10:11-18 主イエスの恵みと平安が人々の心の中に浸みわたりますように! アーメン 私たちの体験することとして、現代においてもキリスト教を信仰するという方々が二人組となって、玄関のドアをノックされる。キリスト教とはいわれるが、私たちが毎週礼拝で信仰を告白している使徒信条に従った信仰とは違うようだ。 キリスト教と言う言わないに関わらず、使徒信条を否定する宗教は、キリストの十字架の死と復活が起こった直後からいろいろな宗教団体の名前で存在してきている。ただ存在しているばかりではなく、三位一体を認めない一部の勢力は、キリスト教徒を激しく迫害してきているという現実がある。 一部の勢力という言い方をしているのは、かならずしも、キリスト教を信じない方々全員が、キリスト教と敵対する考えを持っているわけではないということを述べておきたい。 むしろ、日本などでは、従来の仏教のお墓があるからとか、迫害に会う可能性があるから等の事情でキリスト教を信仰するという事は隠して、キリスト教の考えを持って生きるという方々もいることにも言及しておきたい。 アメリカ合衆国が歩んできた240年あまりの歴史において、キリスト教が迫害されるという感覚は持ちにくいかもしれない。迫害されるかされないかに関わらず、キリスト教徒として、キリスト教の考えを認めない方々と、どのような対話をするかは、とても大切な課題なのだと思う。 今日は復活後第四主日である。毎年、復活節の第四主日は、イエスが民を羊にたとえ、ご自分のことを良い羊飼いにたとえて、話をされたところを読んでいる。 一人の羊飼いが自分で責任を持つ羊の一群を導いて、草原を歩んでいくところを想像する中で、牧師が教会に集まる方々を導く光景を想像する方もいると思う。 しかし、イエスは、いろいろな教会ができて、それぞれの教会の指導者が、別々に囲いをつくって、それぞれの教会に集まる人々が、別々に宣教・伝道・社会奉仕活動をすれば良いということを言われたかったのだろうか? 与えられた福音書の16節には、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われている。 これはいったいどういう意味を持っているのだろうか? 当時の社会情勢からして、イスラエルにおいては、ユダヤ人か異邦人かの区別がとてもはっきりしていたのだと思う。だからイエスのこの言葉を聞いた弟子たちには、とまどいもあったのではないかと思う。 囲いの中にいる羊たちとは、自分たちユダヤ人のことで、ユダヤ人が、救い主イエスによって救われるのだろう。しかし、異邦人はどうでも良いという考えも持っていたのではないだろうか? イエスはそれをはっきり否定したのだと思う。ユダヤ人ばかりではなく、異邦人をイエスは導くということをここで宣言されていたともいえるのではないだろうか? 囲いの外の羊も、イエスの声を聞き分けるとなっており、異邦人もイエスに従って歩むということを、述べておられたように思う。 16節を今一度、全部読むが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」という言葉を21世紀にあって、改めて聞くとき、現代の私たちに、さらに重要な意味を持ってくるように思う。 私たちは、教会教会といって、教会という囲いがあるのは現実だと思う。教会には来ない方々もたくさんいるし、教会の教えを理解しようともせず、避けてしまっている方々もたくさんいるのかと思う。 冒頭にも述べたように、キリスト教についてよく学んだ上で、教会の三位一体や、イエスが神だということは受け入れられないという方もいるのが現実である。 しかし、どのタイミングで起こるのか、私たちの知りようがないが、その囲いの外にいる羊が、主イエスの声を聞き分け、理解できるようになるということが起こる。キリスト教には無縁と思っていた方が、あるいはキリスト教を完全に否定していた方が、聖書の話を聞き入り、伝道活動をするようになる。 明治初期に日本人の最初の司祭となったといわれる、沢辺琢磨という方がいる。 彼はもともとは武士であり、当時函館にいたロシア正教会の宣教師ニコライを殺すつもりで、ニコライに会いに行ったという。 しかし、ニコライ宣教師から「キリスト教のことがわかっていないのに、なぜ、私を殺そうとするのですか?」と言われ、ニコライの話を聞き、すばらしい神の愛に気付き、キリスト教の洗礼を受けることになり、何年後かにはロシア正教会の司教がロシアから来て按手を受け司祭になってしまった。 いつかはわからないが、明日か、10年後か、もっと先か、キリスト教を迫害する者さえ、教会で語られるメッセージを聞き、教会との関係を持つときがくることを、しっかり念頭におき、いまは教会に来られていない方々とも、長いおつきあいをしていくように導かれているのではないだろうか。新しい1週間、新たな希望、喜びを抱いて歩めますように! アーメン 安達均 Other Sheep Not in the Fold John 10:11-18 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into peoples’ hearts! Amen. May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into peoples’ hearts! Amen. We’ve had experiences with people standing outside of our front door wanting to share their faith. Even though they say that they are Christians and that they read the Bible (very similar to our Bible but a special translation) they do not accept the Apostles’ Creed according to which many Christians confess their faith. Regardless of whether they say they are Christians or not, there are people who deny the Trinity. Those religions have always existed even after Jesus was crucified and resurrected. Not only do they deny the Holy Trinity, some sects have actively persecuted Christians throughout history. The reason why I said “some sects” is that not all people who deny the Holy Trinity act against Christians at all. For instance in Japan, there are people who say they are not Christian due to their ancestor’s grave in a Buddhist temple, but some of them study Christianity and believe in Christ although they could never accept Christ publically. In the US, those that have lived in the later part of our nation’s 239 year history, find it difficult to imagine that Christians are persecuted. Regardless of whether or not we are persecuted, a very important issue…
Tweet 2015年5月カレンダー&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年4月26日LCR日本語部週報通算第1349号 2015年4月26日(復活後第四主日)の週報 April 26, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1349E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 来る日曜日は復活後第四主日となる。7週間ある復活節の半ばに入ってきている。毎年この復活節第四主日は「良き羊飼い」に関する福音書箇所が読まれ、詩編は23編が聖書日課には与えられる。詩編23編は現代ではメモリアルサービスなどでもよく読まれ、「もう読んだことがある」という方が多いのではないかと想像する。 しかし、何度読んでも、その度に新たな発見をするような詩編ではないかど思う。 今年も23編を読んで、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編23編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、1-3節を読み進む中で、主が休憩のために導いてくださることを詠うなかで、ダビデや詩編作者がいかに疲労困憊するような状況にあったことを想像する。 詩編作者の立場を思って詩編23編を読む時、この詩編を詠いはじめるまでの状況が、いかに痛ましくたいへんな状況であっても、不安に陥りそうな羊に必要なものを必ず与えてくださり導いてくださる羊飼いのようなお方、主がおられる(1節)。そして、そのような疲労困憊にある羊に、とても大切な安全で休息の場へと導いてくださる(2節)。その憩いの場において魂は生き返り、まさに主の御名にふさわしく、次のステップに向かう際には、軌道修正をしてくださる(3節)。そして新たな道に向かうとなると、さらに厳しい死の陰の谷を通るようなことがあっても、主が共に歩んでくださっており、羊飼いが手に持って歩む鞭や杖さえも私を力づけ、災いにあうことだって恐いことではない(4節)。 私を苦しめるものが目前に現れても、主が食べ物を与えてくださり、油を注いでくださり、ふんだんに飲み物を与えてくださる(5節)。永遠に主の恵みと慈しみが私の後をはげしく追ってきてくださり、それはどこにいっても、その場が主の家でありつづける(6節)。 この詩編を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 読む一人一人、お若い方も、還暦を過ぎておられる方々もいると思う。 しかし、それぞれに、ピンチという状況を経験されてきたのではないだろうか。 私は2歳のころに結核になったりしているが、まさに、2-3節にあるように、主が十分な休息の場を与えてくださり、快復への道へと導かれたように思う。そして、人生へのさらなるチャレンジを目前にしようが、4-5節にあるように、主なる神が元気付けてくださる。それは主イエスが十字架に架かり、死にて葬られても復活されたように、主イエスの信仰により、私たちにも復活の命、永遠の命が与えられていることを確信することができて、さまざまな困難に立ち向かう勇気が新たに与えられるのではないだろうか? それはこの世の肉体的な死を迎える時、いっさいの食べ物も家も財産もこれから先は持っていくことができないような境遇を迎える時になっても、このうえのない主の恵みと慈しみが与えられ続ける。 今、どんなにか困難な状況を迎えている方々がおられようが、そこに存在する主の癒し、慰め、慈しみが豊かに注がれている。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は聖書日課では4月16-19日に与えられている詩編4編を読む。主なる御方に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 4編 1:【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。 3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ 4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。 5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ 6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。 7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。 8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。 9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。 気になる言葉というと、私の場合は5節の「横たわるときも」と9節の「平和のうちに身を横たえる。」 さて、詩編作者の気持ちになって、一節づつ振り返りたいが、5節の言葉に、「横たわるときも」という言葉があり、最後の9節には、「平和のうちに身を横たえ」という言葉が書かれていること推測して、なにか眠れないときに、作詩されたように思える。 1節にある説明は、この詩編は音楽の伴奏付で歌われる様子が想像できる。しかし、眠りと関係しているので、静かな伴奏を詩編作者はイメージしているのではないだろうか。また、賛歌でありながら静かな曲想で、またダビデの生涯でいろいろな挑戦を受けた時とも関係がある歌なのだろう。2節以降、詩に入っていく。眠れずにいる詩編作者が神によびかけて、私の正しさを認めてくださる神よ、私に答えて、苦難から解放し、憐れんで、祈りを聞いてくださいと嘆願する(2節)。人々は、いったいいつまで私の主にあって生きる誉れを辱め、主の思いから離れたむなしい言葉を愛し、偽るのか(3節)。セラとあるので間奏が入る。主に生きる人は見分けてくださり、主を呼び求めるものの声を聞いてくださるということを知ろう(4節)。 主を畏れよう、そして横たわるときに、自分に正直に語り、そして沈黙しよう(5節)。 またセラとあるので、間奏が入る。 主にふさわしい献げ物をささげ、主を信頼しよう(6節)。 主から恵みが示されることを疑う人々がたくさんいるが、主よどうか私に御顔を向けてください(7節)。人々はぶどうを豊かに収穫して喜ぶ、そして、それにもまさる喜びをどうか私の心に与えてください(8節)。いろいろと気になるこことだらけだが、それでも主に信頼して平和のうちに横たわり、私は眠れる。主よ、あなただけにより、私はこの地に生活することができている(9節)。 さて、この詩編を読むなかで、主なる神が現代の私たちにいったい何を語ろうとされているか思いを巡らせたい。この詩編の背景にある、信仰を持つことを疑問視し、詩編作者に挑戦した人々がいたという時代は、現代にも通じるものがある。 しかし、主なる神、すべてを創造された主が、今も活き活きとおられ、それゆえに、太陽も地球も、さまざまな星も、主にある創造が続いており、秩序が保たれ、わたしたちの永遠の命もその中に存在している。さらに現代は、キリスト降誕と復活後の世界に人類は生かされており、死にて葬られても死を滅ぼしよみがえられ、私たちとともに主なるイエス、聖霊が、私たちのなかにしっかりと働いてくださっている。その創造主であり、この世に来られたそのひとり子イエスであり、そして聖霊なる三位一体なる主を信頼して歩むことがどんなにすばらしいことなのか。この地球上での生活には様々なチャレンジがあるが、しかし、主に頼り主の体である教会に仕える中で、この上もない喜びを覚え、そして主にある平安を与えられる。それはすなわち、どのような困難があって眠れない夜にも遭遇するが、それでも主に信頼する中で、喜びの眠りが平安のなかで与えられている。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ20:19-31 主の恵みと平安が全人類の心の中に浸み込みますように! 「あなたは救われましたか?」 という質問をされる方々がいる。 私はルーテル教会では、そのような聞き方はまず聞いたことはない。 また、私が育った家庭は、正教会だが、やはりそのような質問は聞いたことがなかった。 結婚してからは、妻が洗礼を受けた日本キリスト教団の教会の群れに加わっていた時代があるが、そのなかでもそういう質問の仕方は知らなかった。 その後家族でカリフォルニアに来たわけだが、単立教会とか会員数は多いが少数の教会だけで成り立っていて、はじまってまだ数十年というような教会の方々で、英語では”Have you been saved?”とか日本語の「救われましたか」という言い方をする方々が多いことがわかった。また日本にある教会でもそういう質問をされる方々がいることもわかってきた。 その質問は、ただ「洗礼を受けましたか?」の代わりに使っているのだろうと思っていたが、どうも、ピンと来ないままである。 「私たちは救われたが、あなたは信仰告白をしていないから、あるいは洗礼を受けていないから救われていないのです。」という意味に聞こえてしょうがない。この質問は、残念ながら教会間でも分裂を招きそうな言葉であるとも思う。本当に、洗礼を受けてない方が聞きやすい言葉なのか? 本日は、復活節第二日曜日。カトリック教会とほとんどのプロテスタント教会では、イースターは先週の日曜、4月5日だった。 しかし、東方正教会は使っている暦が異なるため、今日が復活日となる。 イエスは木曜夜半には、ユダ以外の弟子たちからも見放され、金曜には十字架にて死に、墓に葬られた。しかし三日目の日曜夕方に、弟子たちの前に現れた。弟子たちは、復活の主にあったことを話し合っていた しかし、12弟子の一人で、トマスは他の弟子たちとは別行動をとっており、そこには居合わせなかった。弟子たちがイエスの復活に出会ったことを告げても、「イエスに会って、その傷を見ない限り、私は決して信じない。」と言い張った。一連のイエスの十字架の死と復活は、いわば弟子たちの間に一時的な分裂を引き起こしてしまったような面がある。 ルカ福音書には、復活した日曜の午後、二人の弟子たちが、他の弟子たちとは別行動をとってエマオに向かったいたことも書かれている。主イエスの死と復活の出来事により、ある意味、弟子たちの間で分裂が起こっていってしまったような面がある。しかし、それは神の意志だったのだろうか? この質問に答えようとするには、さらに聖書をしっかりと読む必要があるのだと思う。 弟子たちに裏切られたイエスだったが、復活したイエスは、まず、あなたがたに平和があるようにという言葉を2 回も語っている。 イエスは「派遣」について述べられ、息をふきかけて「聖霊を受けなさい」と話し、さらに私があなたを赦している現実を示しつつ、弟子たちもだれの罪でも赦すよう述べられた。この息を吹きかける行為は、もともと創世記2章で、神がアダムに息を吹きかけ命を与え、イブにも命が与えられたことと直接関係している。このイエスの行為は、新創世記ともいえる。 創世記3章では、 アダム、イブ、そして生まれてくる人間みなが、罪の世界に入ってしまう。そして、ユダヤ人も異邦人も共同して神の一人子を十字架にかけ殺す時代が来てしまった。 しかし、神はイエスを復活させ、復活したイエスが慈しみ深い愛をもって、全人類を赦し、そして、新しい復活の命をくださる。全人類は、罪と死の世界から、赦しと新しい命というまったく新しい時代に突入する。 説教の前半で述べたように、先週の日曜から西方教会やプロテスタント教会では復活節に入った。 わたしたちの兄弟姉妹である、東方正教会でも今日はイースターを祝い、全世界のキリスト教会は、全地域で復活節を祝うシーズンに入った。ここで正教会でよくみかけるイースターのイコンの話をしたい。 このイコンには復活の主が墓からよみがえったところが描かれている。 そして、手をさしのべて、イエスから引き上げられているのはアダムとイブ。 時代を超え、また人種や国境を越え、またキリスト教の宗派をも超えて、イースターの前は、罪と死の世界に立っていた私たち全人類が、主の復活の後は、赦しと命の中に立っている。 私たちは、まったく新しい世界にいる。イエスの復活ゆえに、人類は全く異なる時代に生きることができる。 キリストの復活は、ある特定の個人が新しく生きるようになるためでも、ある宗派のある単立の教会だけが救われるわけでもない。 主イエスの復活にあって、私たち全人類が復活し、共同の教会として、赦しと新しい命の中に生かされている。 教会の暦では、復活節は7週間あり、最初の1週間が過ぎた。 残りの6週間、ぜひ、主の復活にある共同の教会がどういうことなのか、おひとりおひとり観想されることを祈る。共同の教会ということを考える中で、ぜひ、神が復活ルーテル教会をよき方向へと導かれますように。 皆様が新しい命に生かされますように。 アーメン 安達均 We Are Church Together John 20:19-31 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this world! Some Christians ask “Have you been saved?” I do not think I have ever heard Lutherans ask someone this question. I believe many of you now know that I was baptized in the Orthodox Christian Church but again, I do not think I have ever heard Orthodox Christians ask, “Have you been saved?” After I married my wife, she was still attending one of the largest Protestant denomination churches, in Japan, called United Church of Christ. I attended that church too and, yet again, I never heard anyone ask, “Have you been saved?” Then, about 10 years after Satoko and I were married, we came to the United States. I found that there are many non-denominational churches in Southern California (worshipping in English and Japanese). It seems like in many of them, people often ask “Have you been saved?” I interpreted the meaning of the question as “Have you been baptized or confirmed your Christian faith?” But to me that question does not really make sense. I feel if you ask “Have you been saved?” the meaning behind it is “Although we are saved, if you have not confirmed your faith or are not baptized, you are not saved.” “Have you been saved?” is often used…
Tweet 2015年4月12日LCR日本語部週報痛祭第1348号 2015年4月12日(復活後第二主日)週報 April 12, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1348E-2 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は聖書日課では4月9-12日に与えられている詩編133編を読む。新しいイースターの季節に入った。厳密には、我等の兄弟姉妹である東方正教会では使っている暦が異なるため、イースターは4月12日となるが、そのようなことも覚えて、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 133編 1:【都に上る歌。ダビデの詩。】 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り 3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。 気になる言葉というと、「兄弟が共に座っている」そういう状態をなんという恵みであるか、そして喜びであるかと表現していること。 さて、詩編作者の思いを想定しながら、一節づつ見てゆきたい。「都に上る歌」とあるので、神殿のあるエルサレムに向かって上るときに歌うものと想像できる。 そして、ダビデの詩となっているが、かならずしもダビデが詠ったというわけではなく、後世の詩編作者がダビデのことを想像しながら歌ったようにも思える。詩の内容に入っていくが、兄弟が共に座っている状態を、すばらしい恵みであり喜びである、と詠っている。そこには、旧約聖書に描かれてきた兄弟関係は必ずしも良いものばかりではない。いやむしろ悲惨な関係ともいえるものが多い。アダムとイブの息子たちで、人類最初の殺人と言われる兄カインが弟アベルを殺してしまう関係にしても、人類最初のオレオレ詐欺(笑)とも言えるかもしれないが弟ヤコブが父イサクを騙して結果的に兄エサウの継ぐべき資産を横取りしてしまったことにしても、またヤコブの息子たち12人のなかで、下から二番目のヨセフは兄弟のなかでは仲間はずれになりエジプトに売られてしまうようなことさえ起こる。そのような難しい兄弟関係が多いなか、ともに兄弟が座っているというなにげない光景が、なんという恵みであり喜びなのかが詠われている(1節)。つづいて2節と3節の前半で、二つのすばらしい光景を付け加えている。すばらしい香りの油がアロンの頭に注がれて、頬のひげに降りてきて、さらに着ている服の襟に垂れている長いひげの先のほうまで滴ってくる香油の様子の美しさを詠っている。そこにはアロンは神の任命を受けたモーセから油注がれて大祭司に就任する様子を想像すればよいのかと思う(2節)。次の節の前半で、光景はがらりと変わり大自然の光景を詠う。都エルサレムの北方約250Kmにあるヘルモン山。標高は1200メートル位らしいが、冬はいただきに雪をかぶるような山で、エルサレムとヘルモン山の中間にあるガリラヤ湖や、さらに都であるエルサレム(別名シオン)に向かう途中にある丘陵地帯に対しても、大切な水源になっているのだと思う。そのヘルモン山にある露とエルサレムに流れてくる滴のなんと美しいことかと詠う(3節前半)。 そして最後に、シオンにて主なる神が、永遠の命を布告されると詠う(3節後半)。 この詩編133編を通して、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。兄弟が共に座っている光景は、ある同じ親から生まれた兄弟というより、あるいはユダヤ教を信仰するユダヤ人たちというより、創造主に創られたすべての人類が、この地球に共に居住している様子に思えてくる。そのように考えると全人類の親はだれなのか、全人類の親、創造主の思いを考える時、その子供たちも、この地球上で、共になかよく居住することが可能になるように思う。 また二節から、神がモーセを通してアロンに油を注ぎ、大祭司に任命する様子を想像するより、娼婦だったと思われるマグダラのマリアを通して、神のひとり子イエスに高級な油が注がれた光景を思い浮かべたくなる。マグダラのマリアさえ用いられ、油注がれた救い主イエスが、そして大祭司イエスが存在することを覚えたい。詩編133編3節前半に詠われた大自然の光景を覚えるとき、とくに今カリフォルニアに住む中で、たいへんな旱魃に見舞われている現実がある。もちろん、水を大切にし、できるかぎり節約する生活をしようとすることは当然しなければならない。ただもっと大切なことがあるように思う。それはその水を創造して供給してくださる創造主を愛し敬うことではないだろうか。そして詩編の133編の結論は、その創造主と人類の愛し合う関係のなかで、主なるイエスが全人類への永遠の命を宣言してくださることをうたっているのかと思う。しかし、この四旬節から復活節に移行する季節にあって(プロテスタント、カトリック教会では5日からもう復活節だが、私たちの兄弟姉妹である東方正教会では12日がイースター)人類が罪の世界に生きてきていることを実感するとともに、主イエスの復活によって、創造主からの一方的な赦しにより、人類が新しく永遠の命を与えられていることを覚える。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ 16:1-8 主イエスの、恵みと赦しが集まった人々の心にしみわたり、復活の主イエスに全人類が気付く、イースターの季節となりますように! みなさん、「私は復活の主、イエスキリストに出会った」という方はおられるだろうか? どのようにイエスに会われたのだろうか? 私が小学校低学年、洗礼を受けてまだ一年ほどしか経っていない時、長野の叔母の家に夏休み中、遊びに行った。 その叔母は父より15歳以上年上で、6人の子供がおり、当時、長女と次女は、すでに家庭を持っていた。長女には3人の子供、次女にも一人の4歳の子がいた。次女は、今思うと、なにか問題を抱えていたらしいのだが、叔母の家にしょっちゅう来ており、本当に次女のいとこがよく私の相手をしてくれた。 彼女は7歳の私に向かって「均ちゃんは救い主イエスに会ったことはあるの?」という質問をしてきた。 叔母は本当に熱心なカトリック教徒で、イエス様の働きをいろいろなところで見て、それを話すのが大好きな叔母だった。 そのような叔母を母にもつ彼女自身は、自分はまだイエス様にあえていない、だから会いたいという話をしていた。主イエスを求めていたのだと思う。 さて今日は待ちに待ったイースター。主の復活のお祝いだ。 しかし、与えられた福音書、マルコ16章1-8節では、だれも復活の主イエスに会うところまではいっていない。いったいどういうことと思われている方もいるかもしれない。 ちなみに、マルコ福音書の原本はさきほど拝読した8節で終わっている。その後に書いてある9節以降の結び一と結び二があるが、それらはあくまで後の時代の人々が付け加えたようだ。 じゃあ、マルコは何で8節の言葉で福音書を終わらせてしまったのだろうか? 金曜日の夕方、イエスが十字架上で亡くなり、墓に葬られた。 遺体には油が塗られるはずが、その時間も無く、安息日と言われる金曜の日没になってしまった。 金曜日没から日曜の明け方まではなにもすることができず、日曜朝に、勇気ある女性たちはイエスに香油を塗りにでかけた。 その結末8節は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 これじゃ、蒸し暑い夜に、あつくてしょうがないから、からだを冷やしてくれる怪談のような話に思われても仕方がないのではないか。 だれも復活の主イエスに会うことを書かないで、いったいマルコは何を考えていたのだろうか。 ブービー賞という言葉があるが、ブービーとはもともとまぬけとかいう意味で最後のこと。 しかし、ゴルフなどではブービー賞というと最後の人や最後から二番目に冗談で商品を上げたりするが、実は、競技というのは、最後の人がいるからその前の人がおり、ずっと遡ってきて、優勝する人も出るわけで、最後の方はとても大切。 なにをいいたいかと言うと、マルコ福音書の最後には大きな意味があると思う。なぜか墓の中に若い男性がいて、その彼も怪談的なものにしてしまっているが、彼のしゃべった言葉で、最後から二番目の7節に、イエスがガリラヤに先に行って、弟子たちはそこでイエスに会える、と語っていた。 ガリラヤとは、イエスの弟子たちの生活の場である。 その生活の場にイエスが現れる。 それは、弟子たちばかりでなく、すべての人々の生活の場にイエスが現れることを示唆しており、この福音書の読者たちにも、イエス自ら、現れてくださることを示唆していたのでないだろうか? マルコはイエスと人類が出会うことを書くのは、もう自分の仕事ではない。 福音書には書かなくても、聖霊として顕われる神なるイエス自らが、わたしたち人間の生活の場に現れてくださることを、いいたかったのではないだろうか? さあ、みなさんどうだろう? みなさんの生活の場に復活の主イエスは顕われてくださっているだろうか? 私は、みなさんが気付くかきずかないかにかかわらず、主イエスが私たちの生活の場に、大きな力を持って働いていてくださることを確信している。 数年前、まだ洗礼を受ける前の千鶴子ミラーさんが話してくださったことを、ご本人の許可をいただいた上で、みなさんとシェアしたい。 ミラーさんは、夜中に真っ暗な洗面所に立たれたとき、なにか光るものに気付いた。 そして、その時のことを、私は神様に会いましたと報告された。 それは、実は、金色のドアのノブが光っていたのだった。 しかし、なんだそれはただドアのノブが光っていただけだ、という話にはされなかった。 ノブが光るように見えるが、ノブだけに光を発行するメカニズムはない。 何かの光があって、それが反射して、ノブが光っていた。 つまり、光をこの世に送られた神の存在、光として顕われてくださったイエスの存在を見出された。 今日はまだイースターの初日。 イースターの季節は今日から7週間続く。この季節、人類が光なるイエスを殺してまでも、復活して人類を赦しつづけ、人類に命を与えてくださっている神なるイエスに、一人でも多くのみなさん気づかされるように祈る。イエスの遺体がお墓の中になかったということは、決して怪談の結末ではない。イエスがみなさんの元に顕われる復活と昇天への約束である。 アーメン。 安達均 “The End of A Ghost Story?” Mark 16:1-8 May the Grace and Forgiveness of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in the sanctuary and May the Holy Spirit let people realize that the risen Lord is among us! Have you ever seen the risen Jesus Christ? If so, how has Jesus appeared in your lives? When I was in second grade, for the whole summer, I went to Nagano prefecture (north of Tokyo). It’s about 4 hours by train and, at that time, it’s where my aunt lived with her family. During this time, in my life, it was 10 months after I was baptized. This aunt was about 15 years older than my father. She had 6 grown children and her two older daughters were already married and had their own families. During my visit, her second daughter had some issues with her husband and she was almost always at my aunt’s house. I remember she asked me a serious question even though I was only 7 years old, “Hitoshi-chan, have you ever seen Jesus in your life?” My aunt was a very faithful Catholic Christian, and she shared her story that she saw the work of Jesus in her life. The daughter, my cousin, often heard her mother’s story, but she said to me, “I wish I could see Jesus but, unlike my mother, I have never…