Archive for August, 2014

Tweet 9月はジャパンフェスティバル、召天者記念礼拝と大きな行事が続きます。是非予定にお入れ下さい。 2014年9月カレンダー聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2014年8月14日LCR日本語部週報通算第1321号 2014年8月31日の週報 August 31, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin Sunday English Bulletin 1321E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet “Crisis at the Vineyard” 「ぶどう園と農夫のたとえ」 Mark 12: 1-12 マルコによる福音書12章1節から12節 Bible Study by Pastor Carl カール先生による聖書の学び会 August 26, 2014 2014年8月26日   今回でカール先生の「聖書の奇跡と譬え話シリーズ」は最終回となる。様々な主イエス・キリストが行われた奇跡の話や、語られた譬え話から、私達は自分では考えても見なかったような教えを学び、有意義なシリーズであった。 今日の話は、読み過ごしてしまうと、何がなんだか良く解らない譬え話である。先ず忘れてはならない事は、聖書の中の譬え話しは、神様が私達に語りかけている教えであり、神様と私達の関係が書かれているということである。 この譬え話しを簡単に纏めると:ぶどう園の持ち主は、ぶどう園の周りに柵を巡らし、見はりの櫓まで立て、このぶどう園を最高の状態に整えた。持ち主は自分でそのぶどう園を管理するのではなく、他の農夫に貸した。当時の風習では、ぶどう園のぶどうは、最初の3年は収穫してはならず、4年目の収穫は全てを神に捧げ、5年目からやっと収穫した物が自分たちの物となる。そのような契約が持ち主と農夫の間にあったに違いない。 他の土地に移り住んだ持ち主は、収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取る為に僕を農夫達の所へ送った。しかし、農夫達はこの僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。持ち主はまた他の僕を送ったが、今度も頭を殴り侮辱して送り帰した。さらにもう一人を送ったが、今度は農夫達に殺された。このように多くの僕を送ったにも拘らず、農夫達はこれらの僕を殴ったり、殺したりした。そこで持ち主は自分のただ一人の息子を農夫達の所に送る。自分の息子を送れば、農夫達はきっと自分の息子を敬ってくれるだろう、と持ち主は思ったのだ。ところが、農夫達はこの息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。この譬えをイエスはユダヤ人のリーダー達に話したのである。 この譬え話しをただ読むと、何故このぶどう園の持ち主は、何度も僕を送ったのだろうか、とか、自分が行かないで息子を送ったのはどうしてか、とか、何故  ぶどう園を借りている農夫達は僕に暴力を振るったり殺したりしたのか、そして最後には息子まで殺し、葬りもしないでぶどう園の外に放り出したのか? 質問が次から次に起こる。農夫達は多分自分たちが5年もかけて育てたぶどうだから、収穫を全部自分たちの物にしようと思ったのかも知れない。また、息子を送って来たという事は、もう持ち主は亡くなったのかも知れないから、この息子を殺してしまえば、このぶどう園は自分たちの物になる、と思ったのだろう。この話の最後を、9節でイエスはこのように終えている:「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫達を殺し、ぶどう園を他の人達に与えるに違いない。」と。続けて10節と11節には、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私達の目には不思議に見える。」と言われている。 この2節を理解するには、はやり譬え話しの内容を理解しなければ理解できないのではないか、という事が、私自身カール先生の解説を聞きながら解ってきた。 先ず、ここに書かれているぶどう園の持ち主とは誰の事を象徴しているかと言うと、神様である。ぶどう園は神の民を象徴し、ぶどう園を借りた農夫達は、神に逆らっている人々(ユダヤのリーダー達)を象徴している。僕は預言者達を象徴していて、持ち主の息子は主イエス・キリストを象徴している。このぶどう園で収穫されるぶどうは、人々の信仰を象徴している。 誰が誰を象徴している、何が何を象徴しているか、を理解してからこの譬えを読み返して、私はやっと最後の10節11節が理解することができたような気がする。 ぶどう園の持ち主である神はぶどう園である神の民を創造された。そして神の民が長い年月をかけて、良い実を結ぶようにと柵を巡らし、見張りの櫓を建てた。全地を創造された後、それを人類に託したように、このぶどう園の持ち主もこの土地を農夫に貸してその場から居なくなる。ところがこの神を信じない農夫達(ユダヤのリーダー達)は自分たちのやりたい放題に行動し、神が何度もこの世に送られた預言者達を殺してしまう。それでも神は何度も預言者を送られた程に、忍耐を持って人類を守り愛されている事が、 ぶどう園の持ち主が僕を何度も送った事から理解できる。そして最後に神は独り子の主イエス・キリストをこの世に送るが、持ち主が送ったひとり息子が殺されてぶどう園の外に捨てられたように、キリストも城外で十字架に架けられ殺されてしまう。イエスは、この譬え話しをユダヤ人のリーダー達に話している時、ご自分が十字架に架けられて死ぬ事をすでにご存知なのである。だから、10節と11節に、「捨てられた石(ぶどう園の外に捨てられた息子、城外で十字架に架けられたイエス)、これが隅の親石(基盤となる最も大切な石。これが無ければ全てが崩れてしまう)となった。」と言われているのだ。 9節で「持ち主が戻って来て農夫達を殺し、ぶどう園を他の人に与えるにちがいない。」とイエスが言っているのは、決して私達の神が「復讐の神」であると言っているのではないと思う。これは、イエスが大袈裟に、ユダヤ人のリーダー達に解らせようと言っている事だと思う。もちろん、12節にあるように、ユダヤ人のリーダー達は、イエスが自分たちに当てつけてこの譬えを話されたと気がついて、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れてその場を立ち去っている。しかも、これ程イエスが大袈裟に、「神の怒り」を教えているにも拘らず、ユダヤ人達は、最終的にイエスを十字架に架けてしまうのである。 私達は、「神は愛」と聞く事に平安を覚え安心する。しかしカール先生は、今回のこの箇所は、神がいかに真剣に人々に神の掟を解いているかを語っていると言われた。放蕩息子の父親のように、全てを赦し受け入れてくれる神の一面と、今日の譬え話しのように、契約を守らずに僕や息子を殺してしまった農夫達を殺すぶどう園の持ち主のように厳しい神の一面がある事を忘れてはならないという事なのである。ルーテルの神学校では、常にLaw(掟、法則)とGospel(福音)がバランスを取って教えられるそうだ。Law は神様が私達に神の掟に従うようにと期待していることであり、Gospelは、掟に従う事ができない不完全な私達であるにも拘らず、神様は赦してくださり、愛して下さるということなのだ。 では、この譬え話の教えを私達はどのように学ぶべきなのだろうか、と私は考えてしまった。神様を畏れよ、と言っているのか、それとも神様の送られた独り子を信じて大切にせよと言っているのか。それ以上に、私はこう思ったのだ。私達神の民は、神の創造したぶどう園であるこの世を任されているのだ。私達は、神様に託されたこの土地を大切にし、良い実を結ぶことに全力を尽くす事が大切なことなのではないだろうか。神様が創造されたぶどう園を、まるで自分の所有地のように自分勝手にする事無く、先ずはこの託された土地を大切にしよう、そして沢山の良い実を収穫できるようにしよう。時間もかかるだろうし、手入れも大変かもしれないが、神様は、ぶどう園の持ち主が柵を巡らし、見張りの櫓を作ってぶどう園を守ったように、私達を常に守っていて下さる。誰がこの土地を借りようと、持ち主は神様なのである。しっかりと収穫する事が私達の務めでもあり、喜びなのではないだろうか。                           芙美Liang   記録 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は詩編26編を読む。12 節という比較的短い詩編だが、聖書日課にあるように、最初の8節だけに集中する。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編26編  1:【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。 2:主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。 3:あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。 4:偽る者と共に座らず/欺く者の仲間に入らず 5:悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません。 6:主よ、わたしは手を洗って潔白を示し/あなたの祭壇を廻り 7:感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝えます。 8:主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節、「主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」を挙げる。  詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。先週与えられていた詩編18編の状況と共通しているのかと思う。 ダビデがサウルの手によって、絶対絶命のピンチに立たされている時に、ダビデが(あるいはその時のダビデの状況を察して後世の詩編作者が)詠った詩だと思う。 ただし、18編では、ダビデの安全が保障された時、既にピンチの状況から救い出された後に詠っている賛美だったが、それとは対象的に、26編ではまだ救い出されるかどうかわからない時に詠っているのだと思う。 さて最初から詳しく読んでいきたい。 1節:絶対絶命、生きるか死ぬかという状況の中でダビデはまず、主なる神の審判を望んでいると詠うが、それだけではなく、自分の主張も入ってくる。 自分は完全な道を歩んで来たし、主を信頼して横道にそれたこともありません、と詠う。2節:どうか主よ私が潔癖なことを、調べ、試してみてください。私の五臓六腑や心臓(感情や心情?)が正しいということを、火を用いてでも、試してみてください。3節:あなたのゆるぎない愛が私の目の前にあって、このような絶対絶命の中にあろうが、あなたの真理に従って、主の道を歩んでいます。4節:私は偽る者とはいっしょに食事の席についたりすることはなく、あなたに背を向けて行動するような人々の仲間には入ってません。5節:悪事を企てようとする者たちを憎んでいるし、主に逆らう者とは座ったりもしない。6節:(救い出された時には)私は手を洗って自分が潔白であったことを示し、あなたの祭壇を回るようにします。7節:会衆とともに讃美歌を歌い、主から賜った驚くべき御業を次世代に語り伝えます。8節:主よ、あなたの宿る場所、サイナゴーグを慕っております。(礼拝堂にまた戻ることができるようひたすら望んでいます。) この詩編を通して、主は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか?紀元前1000年ごろのダビデの置かれた様子が、なんとなくわかる気がしてくる。そしてその時の様子が、イエスキリストが十字架を担いでエルサレムを歩む様子にも重なってくる。ただし、イエスの場合は、死に至ることなく救い出されるダビデとは大きな違いがある。イエスは、徹底的な侮辱や辱めを受けたあげく死にて葬られ、しかし、死からよみがえり、復活される方。 そこには、違いがあるものの、ダビデが絶対絶命のピンチでも主を信頼していたように、人の子でありかつ神の子であるイエスも主なる父を信頼しつづけているという点で共通点があるのだと思う。そして、現代を生きるわたしたちにも、世の中がどうなってしまうかわからない状況、明日には世の終わりが来るかもしれないと思われる状況が来ようが、確固たる信仰、主イエスの信仰、を土台として、歩み続ける者になるように導かれていると思う。そして主イエスの信仰が土台となるということの表れとして、詩編作者が8節で詠っているように、礼拝に集いたくてしょうがなくなるような気持ちになってくるのだと思う。 8節の言葉は4月末から5月初めにパシフィカ教区の総会に行った時のことを思い出させる。アメリカ福音ルーテル教会(ELCA: Evangelical Lutheran Church in America)は全米に65の教区があるため、ELCAの総主教(Presiding Bishop)は65すべての教区総会に毎年出席することはできない。しかし、昨年総主教に就任したばかりのElizabeth Eaton総主教はパシフィカ教区総会に出向いてくださり、教区の牧師と信徒リーダーたちはユーモアあふれるしかし力強いメッセージを聞くことができた。その中の一つの大きなポイントは、神の使命を受けて礼拝を司ること、メッセージを取り次ぐこと、洗礼・聖餐式を執行することの大切さを改めて学ばされた。 そんなこともあり、先週の信徒会でも話したように9月からは少しだが、礼拝の形式が変わる。聖霊の働きにより、毎週の礼拝に導かれる方々の信仰生活の土台がさらに強まりますよう祈る。アーメン 安達均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet コロナ地区では夏休みは二週間前に終わっていて、今日の家庭集会は大人だけ4人があつまり、こじんまりとした会であった。 それでも荻野吟子さんの生涯を知るなかで、主イエスが豊かに荻野吟子さんに働かれ、彼女がいかにめげてしまうことなく、信仰心を第一に、患者さんのために駆け巡り、社会に奉仕されていたことを学んだ。  伝道する聖書研究シリーズIV 荻野吟子 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイ 16:13-20    主イエスキリストの恵みと平安がここに集まった会衆の心の中に、豊かに注がれますように! 私たちはよくイエスキリスト、英語ならJesus Christという呼び方をする。 あるいは日本語ではキリストイエスということもある。そうすると、外国人の名前だからキリスト、Christは苗字/Last Nameで、イエスが名前/First Nameだと思っている方もいると思う。 しかし、実際はそうではない。Jesusは名前であっているが、キリスト、Christ、あるいは、新約聖書の原語、ギリシャ語ではXristosあるいは、イエスと弟子たちが使っていたヘブル語では、Messiahで、旧約聖書の中で使われたこの言葉は「油注がれた者」という意味。神が世に送り平和をもたらす救い主という意味だ。 だから、イエスキリスト、Jesus Christと言ったときは、「救い主イエス」という意味のことを言っている。そして、キリスト教という宗教の名前になっているが、その意味は「救いの教え」とか、「世を救う宗教」という意味が、私たちの信仰にはあるのだと思う。 しかし「世を救う宗教」と言ってしまうと、どう感じられるだろうか。日本の新興宗教に世界救世教というものがあるが、なにか信仰宗教と勘違いされてしまうような面もあるように思う。そこで、救い主であるイエスという方について、もっと掘り下げて思いを巡らす必要がある。今日の聖書箇所は、イエス自身が私たちにせまってきているようなとても大切な箇所。 イエスと弟子たちは、先週はティルスとシドン地方という異邦人地域を旅していた。今週も異邦人地区といってよい、フィリポ・カイサリアという地域を旅している時の話。これはガリラヤ湖の北方40キロ近辺の都市。ユダヤ教の影響はうすく、ローマの宗教や土着の宗教が混在しているような場所であったと思われる。そのような環境で、イエスが弟子たちに質問する。 まずイエスは弟子たちに「世の人々は、人の子(イエス自身の意味)を何者だといっているのか?」という質問をした。それに対して、弟子たちが、洗礼者ヨハネとか、預言者の一人だとか返答をした。 その後、ずばり、イエスは「じゃ、あなた方は、私のことを何者だというのか?」という質問を弟子たちにしている。 これは、第三者的の話をすればよかった第一の質問とは全く異なり、これまで直接話して、また行動を共にしてきた弟子たちから見て、イエスは何者なのか、弟子たち自身の応答を求めた質問だ。 それに対してペテロが、100点満点の返答をしたといってよい。「あなたはメシア(世の救い主)、いける神の子です。」と返答する。その回答を聞いたとたん、イエスは、「あなたは幸いだ」と言われ、直後にイエスの言葉で、大きく分け三つの事を話している。 最初に「あなたにこの事を顕したのは、人間ではなく、天の父だ。」イエスがメシアだという正解を言えたからといって、思い上がることないようにという意味がこめられていたように思う。また、後のペトロの勘違い(来週述べる)や裏切りのこともイエスはわかっていて、まだぺトロがイエスを救い主だとは信じきれていないこともお見通しなのではなかったのだろうか?  二つめのコメントが続く。「ペトロはヘブル語でケファで、岩とか石の意味。私はそのペトロの上に教会を立てる。」 教会が建物であれば、岩や石が土台というのはよくわかる。しかし、それは比喩であり、キリスト教会の土台は、イエスが救い主という信仰が土台になるんだよ、ということをイエスはおっしゃりたかったように感じる。 最後のイエスの言葉は、「あなたに天の国の鍵を授ける。地上でつなぐことは天でもつなぐし、地上で解くことは天でも解かれる。」 ここで、イエスはペトロに物理的な鍵を渡したわけではない。これもやはり比喩で、イエスを救い主、生ける神とする信仰が、地上と天国をつなぐことになる。つまり、この地上が天国にもなり得る。それは、鍵が開けたり閉じたりするように、地上が天国のようにもなり、またそうでない時もあるという意味合いがあったように思う。 さて、今日の福音書、イエスと弟子たちの会話からはじまって、さらにイエスとペトロの会話に集中した話、私たちに何を迫ってきているのだろうか。イエスは弟子たちにした「じゃ、あなた方は私を何者だというのか?」という質問は、生ける神、イエスが、現代の私たちにも、質問しておられるのだと思う。  いかがなものだろうか? 私たちとイエスの関係を振り返ってみてはどうだろうか? わたしたちは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神」という告白をしたのと似ていて、洗礼を受けるときには、父と子イエスと聖霊なる、唯一の生ける神を信じてキリスト教徒となっている。  しかし、私たちは、完璧ではない。洗礼で信仰告白をしても、また、毎週毎週、信仰告白をしても、実は、疑いが生じ、神様からソッポ向いて普段の生活をしてしまったりする時がある。土台である信仰のゆらぎというものが出てきてしまうのだと思う。 しかし、その信仰ががたついてしまうような私たちでも、生ける神、主が私たちを事実として、教会に招いてくださっている。 それは、そのような私たちを礼拝中の主イエスとの関係の中で、憐れみ、赦し、大きな愛を持って、霊的な糧をくださり、だいじょうぶやりなおせるよ、永遠の命に生きているんだよ、と語りかけ、希望と喜びを持って、世に送り出してくださることがおこる。希望は不安悩みに対する最高の武器。  2000年前、主なるイエスが世に来てくださったということは起こった。そして主の聖霊がずっと臨在してくださっている。かといって、イエスの再臨は起こっておらず、この世はある意味、中途半端な状態。 多くの闇の部分を抱えている。現代の世の中、神の国は来た、でも完全に来たわけではない、という時代が2000年続いている。  そのような中で、イエスの信仰、十字架にかかって葬られても復活なさるイエスご自身が、どれほど、わたしたちの困難や重荷の支えになっているか、はかり知れないものがある。いろいろな不安や悩みを抱えていようが、主にある希望と喜びを今、新たに与えられて、あらたな1週間を歩みだそう。アーメン “Who is Jesus?” Matthew 16: 13-20 May Grace and Peace from Jesus Christ be richly poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! We often say, “Jesus Christ” during worship. To ears unfamiliar with worship practices, Jesus sounds like a first name and Christ sounds like a last name. But of course, this is only partially correct. Jesus is his first name, but Christ is not his last name. “Christ” whether in English, Greek or Hebrew is a title. “Xristos” is Greek and it means “Savior.” In Hebrew, it means “Messiah.” In the Old Testament it means “anointed” and in the New Testament it means someone sent by God who saves the world and brings peace. Therefore, when we say the words “Jesus Christ,” it means “Jesus, the Savior.” From the title “Christ,” we get our religion’s name “Christianity,” which means something like “religion that saves the world” or “teaching of the savior.” However, if we call Christianity the “religion that saves the world,” this doesn’t sound very different from many other religions. This general description causes many people, especially Japanese people, to question Christianity because it sounds so similar to other religions. Therefore, we need to think more deeply about Jesus, the Savior and I believe today’s Gospel text is wonderful because it makes us think about the relationship between Jesus, his Biblical disciples…

Tweet 9月20日土曜日に開催されますJapan Festival のプログラムです。英語と日本語の両方で掲載しますので、お友達もお誘い下さい。 2014 Golden Japan Festival Program English 2014 Golden Japan Festival Program Japanese Final Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 本日の礼拝後、日本語部信徒会が行われました。9月の20日に開催されるJapan Festivalに向けて、全員で心を尽くして奉仕をし、神様に喜ばれるイベントとなるよう祈ります。行事案内のカテゴリーにプログラムを掲載いたします。ご覧下さい。 2014年8月24日LCR日本語部週報通算第1320号 2014年8月24日の週報 August 24, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin Sunday English Bulletin 1320E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は詩編18編読む。この詩編は119編(176節)、78編(72節)に続いて3番目に長い詩編。そこで、新共同訳聖書では、1-4節および21-31節だけを読む。いつものように気になる言葉は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編18編  1:【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】 2:主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 3:主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。 4:ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。 21:主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。 22:わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。 23:わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。 24:わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。 25:主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。 26:あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27:清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。 28:あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。 29:主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。 30:あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31:神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、3節にある「岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。1節にある言葉から、ダビデがピンチに立たされたが救い出された時に歌ったものであることがわかる。そして、実はこの詩編、サムエル記下の22章に、ほとんど同じ言葉で記されている。聖書は結構重複しているところがある。さて2-4節では、長い詩編の冒頭に、「私の力である主を慕う。主は、たとえるなら、私の岩、砦、逃れ場、神、大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔である。だから主を賛美し、私は主を呼び求め、その主がわたしを救い出してくださる。」と詠う。ダビデが主を慕い、賛美する理由を、「岩」以下「砦の塔」までさまざまな物にたとえて、短く詠っている。そして5節以降では、そのようなたとえをさらに多岐にわたって表現していこうとしているようだ。21節から25節では、ダビデ自身の主に従う行動基準とそれに報いてくださる主を表現している。「わたしの正しさに報いてくださる。手の清さに応じてくださる。わたしは主の道を守り、神に背かない。わたしは主の裁き、掟を近くに置いて行動する。わたしは主に対して純粋で、罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じてくださり、主の目に対してわたしの手は清い。」また26節から28節では、「わたし」という表現はなくなり、ダビデだけに限らず、主に従う人々やそうではない者にも対象を広げて表現しているのかと思う。「主は慈しみに生きる人に、それを示し、純真な人には純真に、清い人には清い。心の曲がった者には背を向け、貧しい民を救い上げ、高ぶる目を引き下ろす。」そして、29節30節では再び「わたし」という言葉が登場し、ダビデ自身の体験談のイメージだと思う。「主はわたしのランプをより明るくしてくださり、闇の中でも歩めるようにしてくださる。主がいてくださるから敵軍を追い散らし、また敵の城壁をも越えることができる。」31節になると、また「わたし」という表現を使わずに、「神の道は完全、主の命令は炎のかたまりのようなもの。主のもとに身を寄せる人には、盾となってくださる。」 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。24日の聖日に与えられているマタイ16章13-20節では、イエスは弟子たちに「あなた方はいったい私を誰だと言うのか?」という質問をしている。その応えを、紀元前1000年ごろダビデが詠っていたようにも感じる。そして、わたしたちは、この賛歌を参考に、ひとりひとり、詩編18編の個人バージョンを作詩するように導かれているのではないだろうか? その時、ダビデが3節で詠ったようなたとえ、いやさらに広がりのあるたとえも良いと思う。しかし、イエスが私たちの罪を背負って十字架に架かった方なので、それらのたとえが自分勝手で私利私欲ではないように注意したいと思うが。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイ 15:21-28 主の恵みと平安が集まった会衆に注がれますように! 79年から80年ごろに大ヒットした曲で、「異邦人」という曲がある。シンガーソングライターで歌っていた歌手の名前は、久保田早紀さんという方。 音楽専攻の大学生だった彼女に、突然と歌詞とメロディが浮かんできて、異邦人を作ったらしい。ちなみに、彼女はクリスチャンではなかった。大ヒットした「異邦人」はメロディはやや暗い感じ。歌詞の内容は失恋。  ある人を好きになったらしい、片思いであり、彼女の思いは彼氏から振り返られなかったという哀しみの歌。とにかく聞いてみよう。(演奏)  一番の歌詞の終わりは、「あなたにとって私、ただの通りすがり。ちょっと振り向いて見ただけの異邦人」 と歌う。 そして、二番の歌詞の終わりは、「あとは哀しみもて余す異邦人、あとは哀しみもて余す異邦人」とくりかえし、「哀しみだけが残る」という歌詞。  さて、久保田早紀さんの話をしたところで、福音書の内容に入っていきたい。しかし、今日の福音書の前半部分は、福音と言えるのかどうか、考えてしまうような内容。 聖書の箇所、最大のフォーカスはイエスと異邦人との関係。イエスはユダヤ人だった。そして、登場している女性はカナン人。  イエスと弟子たちは、ティルスとシドンに旅をする。 そこはイエスと弟子たちにとっては、あきらかに異邦人の町。そして、登場するカナン人女性もイエスにとっては異邦人である。  その彼女には、ひどい病にかかった娘がいた。彼女には、もう頼るべき人はいなかった。そして、ガリラヤ湖周辺で多くの人々を癒し救っていたイエスのうわさを聞いていたのだろう、彼女はイエスに頼めば助けてもらえると必死になってイエスに会いに行く。 そして、イエスとその弟子たちを見つけ、ついて行き、次のように言う。「主よ、娘が悪霊に苦しめられています、この私を憐れんでください。」とお願いする。しかし、イエスは、なにも応えない。 それどころか、弟子たちからは、「この叫びながらついてくる女を早くおいはらってください。」とまでせかされてしまう。  そしてイエスは、はじめて言葉を彼女にしゃべる。「私は迷う羊、イスラエルの民の元にしか遣わされていない。」いったいイエスは何ということをおっしゃるのだろうかと思ってしまう。しかし、彼女はイエスを拝み、「主よ憐れんでください。」と嘆願する。  それで、イエスは2回目の返答をする。「子供たちのパンをとりあげて、犬にやってはいけない。」と。。。 何という発言だろうか? 子供たちとは、イスラエルの民のこと。そして、子犬とは異邦人のことを指す。 差別発言とも言えるかもしれない。 しかし、イエスに頼るしかない女性の現実があった。それこそ、ここであきらめてしまっては、悪霊にとりつかれた娘との生活は、哀しみの連続に陥るしかなかった。そこで、彼女はイエスの言葉を逆手にとり、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という。 どうしようもない状況に追い詰められていた彼女には、異邦人であろうが、主の憐れみ、主の救いは、受けられるはずだという強い信念、ゆるぎないイエスへの信仰が彼女の中に確立されていた。 そして、イエスは、最初は無視した上、二回目も、ひどいと思われてもしかたのないような言葉を言われたのに、彼女のゆるぎない信仰告白を聞き、180度態度を変えられる。そして、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われ、その時点で、娘の病が癒されるということが起こる。  さて、この話、今日私たちに、神は何を語っているのだろうか。イエスもユダヤ人、弟子たちもユダヤ人というグループで行動しているなかで、イエスも含めて、まず、福音、神の救いは選民と言われるユダヤ人に与えられるという考えがあったことは事実なのだと思う。  しかし、同胞たちへ、「神の国は近づいた。」といって伝道しても、ユダヤの指導者たちや、イエスの子供時代から知る人々への伝道は難しかった。 しかし、優先順位が低いと思っていた、異邦人の中に、イエスの救い主とする信仰を表すものが登場してきた。 今日の福音書にあった、カナン人の女性や、ヨハネ4章にある、サマリア人女性も、イエスを救い主とした。  長い歴史で見るならば、ユダヤ人の数を上回る、とてつもない数の異邦人たちがイエスの信仰者となった。 ユダヤ人からはじまったキリスト教会であるが、異邦人であろうがユダヤ人であろうが絶対なる神、主イエスからの救いを受けられるという信仰が確立し、それがユダヤ民族から始ったキリスト教会を様変わりさせたということが言えるのではないだろうか。  先週の金曜には、第二次世界大戦が終了して69年が過ぎ、70年目にはいった。しかし、異国間、民族間の間で戦争が繰り返されている事実がある。 異国で育った人々と、また異なる民族と、どのように接するか。 自分とは異なる国や文化で生まれた育った人々と、どうつきあうか、また異なる宗教を信じる人々と、どうつきあうかは大きな課題である。今一度、異邦人であろうが、主の救い、憐れみを受けられると確信したカナン人女性の姿に学べるところがあるのだと思う。 最後に最初に紹介した、久保田早紀という女性について、もう一言述べておきたい。日本人の彼女からは、異邦人が大ヒットした後は、これといって、ヒット曲は聞かなかった。しかし、最高のGood News 、3年後には、彼女自身がイエスから見れば異邦人ではないということに気づいた。そしてキリストを救い主として受け入れ、洗礼を受け、クリスチャン歌手としての地道な活動をしているそうだ。  この世の中に、失望してしまうようなニュースがたくさんあるが、しかし、父と子と聖霊なる唯一の神が、国籍、民族、文化にかかわらず、私たちを救いだしてくださる。 主イエスキリストにあって、私たち異邦人は、異邦人だからといって、主の愛が受けられないということは全くない。民族や国籍にかかわらず、イエスの信仰を通して、主の憐れみを受け、喜びの人生を歩むことができる。私たちは決してイエスからみて外国人だから関係が無いとか、キリスト教は外国の宗教だということではない。 日本人にも世界のどこに住むどこの国籍の方々にも、主にある平和をひたすら願い祈りつつ。アーメン 安達均 “Despite Being A Foreigner” Matthew 15: 21-28 May Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! About 35 years ago, in Japan, there was a great hit song called “A Foreigner” by singer songwriter Saki Kubota. At that time she was a music major in college and was not a Christian, FYI. The story goes that the poem and melody suddenly came to mind and she wrote this song. This is a sad tune and is a song of heartbreak. Let’s listen to it: (first 2 minutes only. https://www.youtube.com/watch?v=Xo7bTmN6THw ) Although the girl loved a guy, it was one sided and her love was not returned by him. The last line of this song is “when you told me I am just a foreigner.” From here, I want to talk about the Gospel today but I am not sure if the first half of the Gospel text is really good news or not. For me, the focus of the story is the relationship between the Gentile woman and Jesus. Jesus and the disciples were traveling around the regions of Tyre and Sidon. These regions were obviously foreign to Jews. The Canaanite woman, a foreigner to Jesus and the disciples, appeared before them. Her daughter was possessed and tormented by a demon; as a mother she was desperately concerned about her child. There…