Archive for September, 2012

September 26th, 2012

2012年10月Calendar

No Comments, 教会Calendar, by admin1.

Tweet 2012年のCalendarを掲載いたします。 10月28日宗教改革記念日をお忘れなく!! Oct 2012 Calendar Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1229W号 (日本語)     週報通算#1229E号 (英語)       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「どうか、私を思い出して下さい」 “Please  Remember Me“   私たちの父なる神と主なるイエス・キリストから恵みと祝福があなた方の上にあるように。アーメン。 私たちは毎年この時期に召天者記念礼拝を守ってきています。私たちの親、配偶者、兄弟、姉妹、子供、友達、恩師と私たちの人生の中で多くの人を天国に送り出してきました。日本人は世界の中で一番長生きする人間と呼ばれ、また100歳を超える方がたくさんいると聞いています。  朝日新聞のよると、こう書いてあります。「今年の9月15日の「老人の日」に100歳以上になる高齢者が、去年より3620人多い5万1376人と、初めて5万人を超える見通しになった。87%を女性が占める。厚生労働省が14日発表した。統計を取り始めた1963年は153人だったが、平均寿命の伸びとともに年々増加し、98年に1万人を突破、2009年に4万人を超えた。過去最多を更新するのは42年連続。日本の人口は若い人が少ない逆ピラミッドの形で、誰がこの老人達の面倒を見てゆくのかが課題となっています。 しかし私の同級生、それは還暦を迎えた60歳のほとんどは今片親、または両親をなくした人です。私は父を2年前、家内も父を去年亡くし、寂しいと感じることがよくあります。私たちこの教会に集う者の中にも、何人か両親、家族、また友達をなくされた方々がいます。その方々が、必ずしもクリスチャンではありません。しかし宗教の違いを超えて故人を偲ぶことは今生きている私たちにとって大切なことであり、必要なことなのです。 今日の説教を書き始めようと準備を始めたとき、私の目に止まったものは、今日聖書の日課として読んでいただいた旧約聖書の詩篇133章1節です。それをもう一度読んで見ます。「見よ、兄弟たちが共に座っている。なんという恵み、なんと言う喜び。」兄弟、姉妹が共に座っている。それは素晴らしいことで、もうそれだけで喜びだと言うのです。しかし、今、私たちの共に座ってくれるはずの兄弟姉妹がいない。両親が一緒に座っていない。それはなんという寂しさ、悲しさという思いに駆られている方々もあると思います。ですから年に一度、私たちは召天者記念礼拝を守り、すでにこの世を去った、そして今天国にいらっしゃる故人を偲んでこの礼拝の時を持っているのです。故人を思い出すことは大切なことです。子供に、孫に、おばあちゃん、おじちゃんはどういう人だったのよと写真を見ながら語ることは、人生の中で大切なことです。私たち一人ひとりに先祖代々多くの人達がいますが、そこまで知ることができなくても、私たちの命は何千年、何万年、いやそれ以上に続いているのです。 私の家族は二世代家族で、祖父、祖母は熱心な仏教徒でした。毎日お線香をあげ、お祈りをしお墓参りにも良く連れて行かれ、そこでご先祖様の墓石をきれいに洗ったことを覚えています。私の父方も母方も仏教徒の家で育ちましたから、大人になってクリスチャンとなった後も、故人を偲ぶ、あるいは故人がなくなった後の何回忌と言うイベントにも、またお墓参りにも行きました。ですから今キリスト教の牧師ではありますが、私はクリスチャンですからほかの宗教の行事には遠慮しますと言うこともないし、仏教にも、神道、ユダヤ教、イスラム教の中にもそれなりに神様と言われる方に行き着くところがあるのだと心の中で感じます。 宗教は心の慰め、お互いを助け、愛し合うことを前提とした人間に必要な精神的な力をいただくところです。押し付けの宗教は困り物ですが、お互いの宗教、心の持ち方を尊重して共存しなくてはいけないのです。 しかし、その中でお互いが自分の信条を持つことは大切であり、信じるものがそこにあるからこそ、お互いの宗教感も認め合わなければいけないのです。人間としての兄弟姉妹が一緒に集まっている、一緒にお祝いする、一緒に祈りあう、それは宗教の違いを超えて人間としての喜びであると私は信じます。 私が顔を見たこともない、写真でしか見たことのない母のお母さん、私のおばあちゃんは母がまだ6歳の時ジフテリアで亡くなりました。その私のおばあちゃんに会った事がないのは寂しいことですが、母はよく自分のお母さんのことを私が小さい時から話してくれました。何回も何回も話してくれたのです。このおばあちゃんがなくなる前、10歳の母の姉、6歳の私の母、4歳の母の弟、2歳の母の妹をベットの前に呼び出しこう言いました。「お母さんはね、この病気が治らないの。もうすぐ神様の元に連れて行かれます。お別れするのは寂しいけれど、お空の彼方から何時もあなたたちを見つめるようになるでしょう。どうかお母さんのこと忘れないでね。お母さんがあなたたちの心の中でずっと一緒に生きていきますから」と。 私たちが家族で集まる時はとても大切な時です。特に、結婚した兄弟姉妹が、お父さん、お母さんの誕生日に家族を連れてきてくれる。おじいちゃん、おばあちゃんと本を読んでくれる子供たち、孫たちもいる。一緒に食事をする、おじいちゃん,おばあちゃんの肩をたたいてあげる、その反対におじいちゃんが肩車してくれる。おばあちゃんのひざに座って大好きな本を読んでもらう。それは素晴らしい時であり、私たちの宝の思い出です。でも、そのおじいちゃん、おばあちゃんも今もういない、あの世に行ってしまった。それは悲しい事です。 しかし愛する人への思い出は消えません。その思い出は私たちの宝物なのです。 反対に、すでに、この世を去った私たちの愛する人達にとって、誰かが私をまだ覚えてくれていると言うことはもう神様、仏様の元にいかれた人達にとってもとても大切なことなのです。私の娘、息子はもう二十代の大人ですが、よく昔の写真、ビデオを見ています。私に父、家内のお父さんも亡くなって1年、2年になりますが、私、私の家族にとっては、毎年太平洋を越えて、またはカルフォルニアからペンシルベニアに飛行機で年に2回帰省するのです。私たちがそれを毎年繰り返しているのは、子どもたちに家族でいる時の大切さを忘れてほしくないからです。 ところで、今日のルカによる福音書 23章の話の中で、十字架にかけられたイエス様の両脇に二人の犯罪者が同じく十字架につけられたのです。そのところをもう一度読んでみます。「他にも。、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に、一人は左に、十字架に付けた」。釘で打たれたのです。十字架にかかって死ぬと言う両手も足も十字架に大きな釘で打たれ、自分の体重がその釘につるされるという、とてつもない苦痛の中で、最後には、気を失って死んでゆくことでした。同じように十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエス様をののしって「お前は、メシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」と叫んだのです。すると、もう一人の方がたしなめて言ったのです。『お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかしこの方は何も悪いことをしていない。』 そこで、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」と言われたのです。多分この二人目の犯罪者も始めの犯罪者と同様に悪いことをしてきたのです。強盗、詐欺、人殺しをしたかもしれない。イエス様に、天国につれていってくださいなどおこがましいことを言えるはずもない。だから、せめて、イエス様、「あなたが天国にいらした時には、私のことを思い出してください」と言ったのではないでしょうか? 死んだ後、自分のことを思い出してくれる人がいないとはなんと寂しい、悲しいことか、しかし死んだ後も誰かに自分の事を思い出してくれる人がいると言うことはなんと言う慰めでしょう。世界にはいろいろな宗教、教え、道と言われる物がありますが、すべての道は私たちが、人間として生きる私たちのガイドであり、命の源なのです。もちろん多くの無神論者もいます。しかし私たちの亡くなられた家族の人達、友人、同僚とたとえ、人生の道しるべ、宗教が違っても、私たちの役目は同じ人間である私たちが、お互いを助け合う、それは物質だけでなく、お互いのために祈り、この世界の中でお互いを信頼する世界を作ることではないでしょうか。 私たちの心の安らぎを私たちの故人を思い出し、偲び、愛情と心の平安を伴ってこの礼拝を守るのです。アーメン。 Memorial Service              September 23, 2012  “Jesus Remember Me When You Come Into Your Kingdom” Grace to you and Peace from God our Father and the Lord Jesus Christ.  Amen. The Japanese Ministry of Lutheran Church of Resurrection has been observing this memorial service for many years.  It is our joy that we have a number of English speaking members as well as many Japanese friends join us for this service today.  I have intentionally invited many non-Christian friends to this service today because we all want to respect and remember those friends and loved ones who have gone to heaven before us regardless of our differences of religion or faith. According to a recent Japanese newspaper article, the Japanese people’s life expectancy is the longest in the world.  Japanese celebrate the day of elders on September 15th every year.  And this year the Japanese government announced that there are 3620 more people who have reached 100 years of age compared to last year at this time.  The actual number of people today who are over 100 years of age are 51,376 people of which 87% are women. The government of Japan started taking these statistics of the number of centurions living in Japan in the year 1963.  There were only 153 persons who were over 100 years old in that year.  By 1998 that number grew to over 10,000 people and in 2009 it grew to…

Tweet 週報通算#1228W号 (日本語) 2012 9 23 週報津産#1228E号 (英語) Sunday English Bulletin 1228 (Special Memorial)E 召天者名簿 2012年9月23日召天者名簿 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音8章27-35節「あなたは私を“誰”と呼ぶか?」 “Who Do You Say I Am?” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 私たちは誰でも名前を持っています。それもAさんとか、Bさんとか言う暗号のような名前でなく、小百合さん、太郎さん、花子さん、一郎さんというように名前を呼ばれてその人のイメージがすぐ頭の中に浮かびます。その一人ひとりのイメージは、私たちとの時間をかけての関係の中で作られ、生涯忘れることもない大切な人、友達となるのです。同じように学校の担任の先生、スポーツのコーチと、学校を卒業しても長い付き合いを続けている人も数多くいるはずです。時々人の名前を度忘れして冷や汗をかいたことがありますが, 「同じようにあなたの名前忘れてしまいましたが、苗字は岸野さんですよね」と言われて、ああ良かった、覚えてくれていたのかと嬉しくなる時もあります。 さて今日の福音書の中で、イエス様は、弟子たちに、「人々は、私のことを何者だといっているか」と質問なさいました。弟子たちは、「イエス様、あなたは洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、また預言者の一人だという人もいます」と答えたのです。実際これらの人たちはユダヤの歴史の中で、民衆から尊ばれていた人達です。そしてイエス様は続いて弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたは私を何者だというのか」。わたしはこの質問をイエス様は弟子の一人ひとりの目を見つめながら言ったと思うのです。というのはこの質問を出したイエス様は、もう3年間、12弟子と共に生活してきたのです。同じ釜の飯を食べてきたのです。イエス様の前に集まった群衆の前で山上の説教、または山上の垂訓を教えられたのです。弟子たちは今までの律法学者の教える律法について、それはそれを完璧に守ることで救いを得るという今までのユダヤ教の教えから、律法は守るべきものであるが、それが守れない人間の弱み、しかし律法が守れない私たちはイエス様の無償の愛によってのみ救いに預かることができると教えられていたのです。 これらの教えを弟子たちに直接的に語ったこともあれば、群衆の中でイエス様の話に感動して後についてきた多くの人達を見て、このイエス様はただ単なる偉大な教師ではなく、本当に神様から送られてきた救い主だと心の中で思っていたはずです。 今日の福音書は、その弟子たちにイエス様が直接に尋ねた質問です。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」またそれ以上に、「あなたは私を何者だと言うのか」と質問されたのです。私たち、イエス様に従って生きていく決心をした者にもイエス様は同じ質問を投げかけているのです。 皆さんがまだ学生だった時、それは幼稚園、小学校、あるいは中学生の時、先生がクラスの生徒に質問をするといつも真っ先に手を上げて、「はい、はい、私をその答えを知っている」と先生の注目を引くそのような生徒がいたはずです。皆は、「またあいつか、知ったふりして、また、胡麻をすっている、あいつは先生のペットみたいなやつだ」と心の中で思ったはずです。私が小学校の4年か、5年生の時、それは算数の授業でそろばんでの足し算、引き算のやり方を習っていた時です。先生は言いました。「これから私が出す数字を足し算なり、引き算なりで練習しましょう」と。そして先生はゆっくりと2プラス9、プラス11、マイナス7、プラス50、マイナス18、誰か答えを教えてください」と。一桁の計算ならすぐできるけれどそろばんを使って3桁も4桁もある計算はもう頭のなかがこんがらがって、いつも出てきた答えに自信がなく、手を上げることもなかったのです。しかし皆が手を上げている、何か自分だけがそろばんができないのだろうかと思い込み、このままでは、通信簿で算数はまた低い点をもらうのではと迷い、その結果、手を今まで上げられない屈辱に負けたくないと「先生が、今度の答えの出た人は』と言った時初めて手をびくびくして上げました。今まで手を上げられないことに屈辱感を感じていたからでしょう。でもその答えが本当に分かっていたはすではないのです。「おお、岸野君、答えはいくつでしたか?」と言われて心臓がどきどき、立ち上がって答えを出す時、「ア、そろばんが動いちゃって答えがからなくなりました」と真っ赤な嘘をついたのです。それを50年経った今でもはっきり覚えているのは、人生の中で悪いことをした、嘘をついた、人を傷つけたということを私たち人間は、心の呵責としていつまでも忘れることがないからです。 イエス様は今日の福音の中で、弟子たちにこう質問しました。「あなた方は私を何者だと言うのか?」でも考えてみてください。弟子たちはイエス様と共にもう3年間一緒に生活をしてきたのです。イエス様は、弟子の一人ひとりの顔を一人ひとり見つめながら悲しい思いにかられたでしょう。と言うのは、イエス様はもう自分の時が来ると感じていたでしょう。自分の時とは、イエス様が十字架にかかる時、それは世界のすべての人の罪のため、その罪をご自身でしょって私たちの罪を取り除いてくださると言うことです。 ただペテロだけが、「あなたはメシヤ、救い主です」と答えたのです。聖書には書いてありませんが、イエス様はペテロの告白を聞いて、ペテロありがとう。あなたは私が人類の救いのために来たことを知っていたのですねと思ったのではないでしょうか。同じ記事を書いたマタイによる福音書は、この他に、「シモン・ペテロ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを示したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。そしてあなたの名前いわく、ペテロ、岩の上に教会を建てる」と。 そう言われてペテロは有頂天になったのです。しかしイエス様は、人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活すると弟子たちに教え始めたのです。それに対しペテロは「そのようなことがおこってはなりません」と答えたのです。 私は聖書の中で自分に一番近い性質を持った男が、ペテロだともう何年前から感じています。イエス様を神の子と認め神様に、一生懸命ついてゆける人間になりたいと思っています。しかし困難なことが起こると、イエス様に何故、どうしての質問で頭の中がいっぱいになるのです。そのような時、祈りの時を持ちなさい。イエス様を固く信じなさい。と言われ、本当にそれができるようなイエス様に従う私になりたいのです。 私が思うに、完全な人は殆どいません。私たち、一人ひとり、不完全な者ですが、ただ神様の恵みにより私たちは愛されたものと呼ばれているのです。不完全の私たちが少しでも完全な者となることができるように、神様は私たちに愛の心と信じる心を与えてくださっているのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1227号  (日本語) 2012 9 16W 通報通算#1227   (英語) Sunday English Bulletin 1227E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 召天者記念礼拝招待状(日本語) 召天者記念礼拝招待状 2012 召天者記念礼拝招待状(英語) 召天者礼拝案内状2012English Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書 7章24-37節「イエス様の恵みと哀れみ」“The Grace and Mercy of Jesus” 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にありますように。アーメン。 私の家族は子供がまだ小さい時から子犬を飼い始めました。一時は大きなラブラドルという犬もいましたが、カリフォルニアに移ってからは、ミニチュア・ダックスフンドとプードルが、家族の仲間入りをしました。小さい犬は可愛いし、子供たちが小さかった時は一緒にベッドに寝ていたのです。しかし郵便屋さん、小包の配達人が来ると、ワンワン、キャンキャンとうるさいこと。お客さんが来ても同じで困り201299ましたが、良いのは泥棒よけです。 今日の福音書を読んでいた時、「穢れた霊に取り付かれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエス様のことを聞きつけ、来てその足元にひれ伏した。女はギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してください」と頼んだのです。イエス様は答えて言いました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」。ここで子供たちとはユダヤ人のこと、子犬とは、異邦人のことを言うのです。これはイエス様の言葉遣いとして何とギリシャ人のお母さんを見下した言い方だと、私はイエス様に対して本当にこれがイエス様の思いなのかと疑問を持ったのです。しかし、イエス様は神様の愛を旧約聖書に親しんでいたユダヤ人を初めとして、世界のすべての人々に伝えることとができるよう計画されていたのです。 イエス様はユダヤの土地から今までに出ることはなかったのですが、今日の福音書の記事はイエス様が当時、ギリシャ語を話すイスラエルの北にあるシリア、それは、2012年9月現在Civil Warの起こっているそのシリアです。これは、聖書の中で、イエス様が、始めてイスラエルから、異邦人の所に出かけていった時の話し、そしてこの外国人の土地でイエス様は自分の娘が病気で心を痛めているお母さんの願いを聞き入れて、娘の病気を直してくださったのです。この土地はイスラエルの国からはそんな遠くはなかった。ですから、イスラエル、シリアを行ききしていた人達は、イエス様の評判を聞いていたはずです。イエス様が奇跡を起こすことのできる人、イエス様は愛に満ちた救い主との評判を知っていたでしょう。 諺に、「藁をも掴む思い」と言う言葉がありますが、この悪霊に取り付かれていた娘さんのお母さんは必死に自分の娘から悪霊が離れるようにと毎日祈っていたはずです。きっとそれは今で言う癲癇(てんかん)、epilepsyのようなものだったと思います。もう20年前のことですが、私の娘、katie がまだ5歳の時、朝いつものように学校に行き、家に帰ってきたとき少し熱がありました。風でも引いたのではと、娘に薬局で買った風薬を飲ませ、その夜は早く休むよう寝かせました。しかし、ごほん、ごほんと咳を繰り返している娘が私たちの寝室に入ってきて、体がだるいことを泣きながら訴えました。子供の痛みは親の痛みです。しかし夜中で、行きつけのお医者さんのところにはいけないし, 家内に調べてもらって住んでいたCorona という町から8 mile 先のRiversideにあるUrgent Care に車で飛んでいきました。そこに着いて、驚いたことに、この夜中に20人ほどの大人、子供がWaiting Roomで、私の娘のように咳をしながら自分たちの呼ばれる番を待っていました。皆何かだるそうな顔つき。お医者さんに見てもらう前に、看護婦さんが来て、「あなたの娘さん、どうもインフルエンザにかかっているようね。ここに来ている患者さん、殆の人達も同じ病気に罹っているようです」と。タオルを水に浸したものを貰って、ぐったりした、体の熱い娘を看病して、2時間ほど立ち、やっとお医者さんに診察して貰いました。 看護婦さんの言っていた通り、娘はインフルエンザに罹っていたのです。お医者さんから処方箋を貰い、今度は薬局に車を飛ばし家に帰ってきたのは夜中の2時を超えていました。当時は携帯電話も持っていない時で,何が起こっているかもしらなかった家内も心配で泣いていました。自分の娘、息子が苦しんでいる時、その苦しみは親の苦しみでもあります。ですから、今日の福音書のお母さんの娘に対する心配事は分かります。このお母さん、イエス様の評判を聞いていたのでしょう。今まで誰も娘さんの病気を治してくれる人は独りもいなかったのです。お母さんは、このままでは、娘も死んででしまうのではないかと心を痛めていたはずです。それに今のように病気になった人達は何が原因でそのような状態になったのか分からなかったでしょう。引き付けを起こしたからといって、それが、頭の中での Chemical unbalance  であるとか、細菌が体の中で炎症を起こしている、それを調べる方法は今でこそありますが、イエス様の時代にはそれが悪霊の仕業と思われていたのでしょう。 イエス様の時代に私が生きていたら、自分の子供が、大きな病気にかかっている、そのような時に、私だってイエス様と言う偉大な方を求めて、イエス様の前にひざまずき、「イエス様、お願いです。わたしの子供を救ってください」と言ったはずです。親にとって自分の子供以上に大切なものはないのです。自分の命に代えてまで子供に生きながらえてほ欲しいのです。このお母さんは必死です。私と私の娘を哀れんでくださいと何回も、何回も、何回も、イエス様に食いつくようにお願いしたにありません。イエス様の力のほか娘の回復はないと信じたからです。まさにこのお母さんは、子犬のようにうるさくほえ続く中で、イエス様はとうとう、彼女の願いを聞いてくださったのと思います。この福音書の話の中で私たちは色々なことを教えられますが、大切なことはこのお母さんはユダヤ人ではないということです。この女性はシリア・フェニキアの女です。ユダヤ人でない人が、イエス様を信じたのです。イエス様を信じるとは、イエス様こそ神から来た人と認めることです。しかし、旧約聖書を良く調べてみるとユダヤ人以外の人達にも神様が異邦人にも哀れみと慈しみを与えている記事によく出会います。 創世記の中でアブラハムの奥さんであるサライには子供が与えられず、悲しんでいたのですが、サライは自分の女中であるエジプト人のハガイをアブラハムに与えてイシマエルという子供をもうけたのです。妊娠したハガイにサライはきつくあたります。ハガイは、サライのもとから逃げたのですが、主のみ使いはさ迷うハガイを見つけてサライのもとに帰りなさい、私は、あなたの子孫を海の砂のように数え切れないほど多くふやすと言ったのです。これは創世記16章1-10節に書いてあります。ユダヤ教もキリスト教も回教も天地創造、また人間を作られた神様は同じ神様です。アブラハムはこの3つの宗教の中で、同じ神様の救いの契約を結んだ大切な人物です。それを知って、ユダヤ人、クリスチャン、回教徒が何世紀にもわたってお互いを傷つけあってきたのを知ると悲しくなります。 私は前に説教の中で、何回かMother Teresaについて語ったことがあります。Mother Teresa はYugoslaviaの出身のカトリックの修道者でしたが、インドに渡り、そこでいろいろ異なる宗教の人々の中で、また、みんなから嫌われていたカルカッタの貧民街で、家族のない人達、飢え死に寸前の人、夜寝るところもない人達に神様の哀れみを60年にわたって施してきたのです。仏教徒であろうか、イスラム教徒であろうか、ヒンズウ教徒であろうか、クリスチャンであろうか、宗教の違いを超えた人間として愛し、愛されることにMother Teresa は命をかけて生きてきたのです。すべての人間は神様に愛されていることを信じ、毎日、毎日の生活の中で、世間から見放された、忘れられた人達に愛の奉仕をすることに命を懸けたのです。同じように、私たちがほかの人間を無条件で愛することができるかという問いに、「はい、できます」とはっきり言える人はどれだけいるでしょうか? しかし、他人に対しての愛を実行することができるような人間になれますように」と神様に祈る時、わたしたちは神様から、人間としての本当の思いやりの心をいただくことができるのです。 私は、イエス・キリストを私の救い主と告白します。イエス様の愛によって、私も毎日の行動ができるように祈ります。さらに、私たちは世界の中でいろいろな宗教の違いがあっても、同じ人間であるという共通点からお互いを助け合って生きて行く私たちになりたいのです。お互いを助け合い、共に泣き、共に笑い、共に祈ることができるのは そのこと自信が、私たちが神様からいただいたギフトなのです。誰もこの世の中でひとりだけでは生きてはいけません。イエス様に私たちの求めているものを知らせてください。イエス様は、必ず私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。 キリスト教はユダヤ教を母体としてイエス様の十字架の死後2千年にわたり世界のいたる所までイエス様の福音を述べ伝えてきたのです。これは最近のことですが、私の学生時代の友からe-mailで私たちの人生についての質問が入るようになりました。その友その中で一番語られることは年取った両親の面倒を見ること、また両親が亡くなったこと、定年引退後の人生の過ごし方、息子、娘さんたちの情報、そしてお孫さんのこと。私たちはどこにいても同じような話に花を咲かせるのですね。しかし、ここにいる皆さん、私たちは皆同僚です。兄弟姉妹です。同じ日本の土地からアメリカに来た私たち、その理由は何であったとしても、今ここで心を開いて語れる人達がいるのです。一緒に励まし合い、喜びの時も、悲しい時も、一緒に祈ることのできる私たちです。 今日の福音書で、イエス様に出会ったお母さんのように私たちもイエス様に私たちの祈りをささげ、イエス様の恵みの言葉と平安をいただきましょう。イエス様が私たちを見放すことはいたしません。そして私たち一人ひとりがイエス様の心を持ってお互いを支えながら生きてゆくこの教会を神様は私たちに下さっているのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1226W号(日本語) 2012 9 9W 週報通算#1226E (英語) Sunday English Bulletin 1226E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書7章1-8、14-15、21-23節 「伝統と愛の行為、どちらが大切?」  “Which is More Important, Tadition or the Act of Love?”   私たちの父なる神と主イエス・キリストからの平安と祝福が、皆さんの上にありますよう。アーメン。 牧師は毎日曜日に何を説教するかを考える時、それもその日に与えられた聖書のテキストを何回も読み直して、時には「あ、このテキストに適したもの、よく似た文章を読んだことがある」と、頭の中にひらめくことがあるのです」。  イエス様は神様の戒めを守ることが大切なことと強調したのですが、ユダヤの宗教家、祭司、学者たちは、戒めと同時に、伝統に基づく生活を強調したのです。昔からの習慣、伝統に従って生活するのが彼らの宗教観と生活の基本となって何千年にもわたる歴史の中で繰り返えられていました。 世界の中で、ユダヤ人ほど習慣、伝統を重んじる人達はいないでしょう。ユダヤ人にとって一番古い宗教のお祝いは過ぎ越しのお祭りですが、それはエジプトで奴隷として働かされていたユダヤ人たちが神様とモーセに導かれて、エジプトから彼らの祖先が住んでいた土地、イスラエルに戻ることができたことを祝うお祭りで、それを最初に祝ったのは紀元前1441年と云われています。今年は2012年ですから、1441年プラス2012年で合計3453年もの間、毎年ユダヤ人は過ぎ越しのお祭りを祝ってきているのです。 私たちクリスチャンは、神様の戒めを守ることを強調しますが、それらの戒律についていけない時があるのを知っています。戒律についてゆけない、戒律を守ることができない私たちが、真心から神様、この私の罪をお許しくださいと祈る時、神様であるイエス様は私たちを赦してくださるのです。戒律を守ることは大切ですが、所詮私たちは神様からこれを守りなさいと言われて、それに従わないことが多いのです。 それを罪を犯したとも言いますが、私たち、イエス様に従うものにとって一番大切なことは、私たちが自分でした間違いを神様に告白する時、神様は必ずどんな、私たちの起こした間違い、罪をも赦してくださります。 さて皆さんの中で、今、これから私の歌う歌を知っている人、ああ、聞いたことがあるという人がいる思います。聞いてみてください。Sunrise Sunset という, “Fiddler on the Roof”というMusical からの歌です。 Is this the little girl I carried?  Is this the little boy at play? I don’t remember growing older. When did they? When did she get to be a beauty?  When did he grow to be so tall? Wasn’t it yesterday when they were small? Sunrise Sunset, Sunrise Sunset swiftly flow by the days One season following another, Laden with happiness and tears. 屋根の上のバイオリン弾き」英語では、 “Fiddler on the Roof”というミュジカルを見たことある、聞いたことがある方がいると思います。、これは、伝統と愛の行為のどちらが大切かについての物語です。この小説は1964年に映画になり世界中で賞賛されました。少しあらすじの内容をお話しましょう。 テヴィエは、ロシアのウクライナ地方の小さな村「アナテフカ」で牛乳屋を営むユダヤ人一家のご主人です。ユダヤ人はロシアにいても、ロシアの生活に溶け込むことなく、ユダヤ人の習慣を守っていたのです。彼は、亭主関白を気取ってはいるもの、その実、妻には頭が上がらない。5人の娘に囲まれ、ユダヤ教の戒律を厳格に守って、つましくも幸せな毎日を送っていたのです。その歴史的背景は、ロシアの共産党革命、ちょうど、ドクター・ジバゴという映画の時代と同じころです。日本でも1967年に東京の帝国劇場で森繁久弥(ひさや)さんがテヴィエ、越路吹雪さんがテヴィエの奥さん、また谷啓さん、大空真由美さん、木の実ナナさんという有名人を集めて900回にわたって上演されたヒット・ミュウジカルでした。 テヴィエは、奥さん共々、娘たちの幸せを願いそれぞれに裕福な結婚相手を見つけようと骨を折っていたのです。ある日、長女のツァイテルに、マッチ・メイカー、縁結びを職業としている女性から、肉屋の金持ちとの結婚話が舞い込みましたが、彼女にはすでに洋服屋のモーテルという恋人がいたのです。テヴィエは猛反対しましが、二人は二人だけの結婚の誓いをしたのです。また、次女であるホーデルは共産革命を夢見る学生闘士パーチックと恋仲になり、逮捕されたパーチックを追ってシベリアへ発ち、さらに三女はテヴィエが敵視するロシア青年と駆け落ちしてしまったのです。 「親が娘たちの結婚相手を見っけるのはユダヤ人の習慣。このTradition を変えるのは人生の間違え。親が子供の、特に娘の結婚相手を決めるべき。親が、子供の将来を考えて、幸福に暮らせるように、貧乏で苦労しないように、それがユダア人たちの習慣、そのTraditionをかえてはいけないんだ」とTevyeは映画の中で、何回も、何回も叫ぶのです。しかし3人の娘たちはみな自分の納得した男たちにTevye の祝福なくして嫁いで行ったのです。TevyeもTevyeの奥さんも娘たちを本当に愛していたのは本当です。しかし心がかたくなっていたTevye はいつまでたっても娘たちと義理の息子たちを祝福することができなかったのです。彼は何回も何回も続けて言います。Tradition, tradition, traditionが私たちユダヤ人の守る一番大切なこと。私たちの伝統を守らずにどうして神様は私たちユダヤ人を愛してくれようか」と。そして泣きながら言います。「なんでわたしたちの目の前でTradition が崩れていくんだろう」と。 劇中で次第にエスカレートしていくロシア共産党のユダヤ人迫害は、終盤でユダヤ人の国外追放が始まり、テヴィエたちは着の身着のまま住み慣れた村から追放されるまでになるのです。そこでアメリカという自由な国に移住する事を決めました。そこで最後に住み慣れた家を離れようとした、その時、兵隊と結婚していった娘が、Tevye とお母さんに最後の別れの挨拶に来たのです。頑固なお父さん、伝統、伝統、なんでも伝統にもとずかないものを阻害してきたお父さん,しかしもう生きてこの娘に会うことができないだろうと思っていたTevye とお母さんのところまで、さよならという切ない、しかし愛のこもった思いで見送りに来てくれた。そこでTevyeは男泣きするのです。 素晴らしい演劇、映画、小説の一番の贈り物は、そこで私たちが心を動かされ、嬉しいにしろ、悲しいにしろ、涙をこぼす、機会を与えてくれることです。原作ではTevyeと奥さんはイスラエルの地へ帰還するが、ミュージカルではニューヨークに移民として向かう所で話が終わるのです。『屋根の上のバイオリン弾き』という題名は、昔ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという話を,有名なユダヤ人のシャガールという画家の絵にヒントを得たものと言われています。これは、ユダヤ人の不屈の魂の象徴だそうです。 今日の説教に何回も繰り返してTraditon, 伝統という言葉を使っていますが、伝統そのものは悪い言葉ではありません。伝統が良くない言葉なら、クリスマスに毎年Christmas tree を飾るのも良くないのですか? 誕生日を祝うのもいけないのですか。しかし、伝統が宗教の中で一番大切なことではない、宗教の中で一番大切なことは、神様の私たちへの愛、そして愛を受けた私たちが、神様の教え、行動を他人に対しての愛として、私たち自身が、神様、イエス様の愛の行いのできる弟子となることです。 はっきり言って世界の中で、イエス様のことを知らない人がまだ沢山います。しかしそのような人達の中で、隣人を愛する行い、思いを持った人達も沢山います。そのような人達に私は「あなたたちはイエス様を神様と信じる信仰がないならば、救いは与えられないない」などと言う資格もなければ、実際そんなことを語ったこともありません。しかし、私たちクリスチャンはイエス様の教えに従って生きてゆくことを洗礼を受けたとき神様に誓ったはずです、それと同時にすべての人をイエス様の愛の精神で受け入れなさいという教えをいただいて、頭に水を注がれたのです。 私たちはお互いを愛し合いなさいとの教えをイエス様からいただいているのですが、キリスト教の歴史の中で、自分の考えに会わない人達を差別したり、攻撃してきたのです。それが、今も、人種問題、性の問題、経済の問題として私たちに「お前たちは私の見方か、それとも敵か」というような、狭い人間同士の戦いとしてあらわれるのです。 イエス・キリストの愛は、このような人間の争い、衝突の中でお互いに和解のチャンスを差し出してくださるのです。新約聖書の書簡の多くをを書いたパウロはどのような難しい意見の違いの中でも神様はそこを離れることなく、神様の愛をすべての人に与えていると知らせてくれているのです。私たちがいかに罪深い者であろうか、自分のことしか考えられない私たちであろうか、イエス様の愛に感謝をすることを忘れがちの私たちであろうか、私たちの主なるイエス様はこの私、この私たちを愛してくださっている神様であることを信じてください。アーメン。   14th Sunday after Pentecost    Sept. 2, 2012Mark: 7:1-8,14-15,21-23 “Which is More Important、 Tradition or the Ac of Love”   May God the Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen. I love musical Movies.  The Sound of music is still my favorite.  The Phantom of the opera, The Wizard of Oz, Grease, Cats, The South Pacific. My favorite musical Movie is the Sound of Music with Julie Andrews and Christopher Plummer. But I equally love the movie called “The Fiddler on the Roof”. As I was contemplating about the message for today’s sermon based on the Gospel lesson from Mark 7:1-23, I could not help, but think about the word “Tradition”.  The Jewish people kept tradition in their lives and that is precisely  the movie “The Fiddler on the  roof” is all about.  The…