Tweet 2014 年4月のカレンダー 今年の復活祭は4月20日です。教会活動の多い月ですので、カレンダーを良くご覧下さい。復活祭の礼拝で、3名の方が洗礼を受けられます。是非礼拝に参加してこの喜びを分かち合いましょう!2014年4月カレンダー&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
March 30th, 2014
LCR日本語部4月のカレンダー & 聖書日課 LCR Japanese Ministry April Calendar and Daily Bible Verses
No Comments, 教会Calendar, by admin2.Tweet 2014年3月30日LCR日本語部週報通算第1300号 イースターまで3週間となりました。残りの受難節を、キリストが何を自分に求めているか、心を尽くして覚えながら、原点に戻って復活祭を迎えたいと願います。 2014年3月30日週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 四旬節に入って、三週間が過ぎた。主なるお方、救い主イエスキリストに向いて日々の生活を歩むことができるように祈る。今週は詩編81編を読む。やはり四旬節にふさわしい詩編だと思う。少々長いが、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編81編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編81編 1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。アサフの詩。】 2:わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。 3:ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。 4:角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。 5:これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。 6:エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。 7:「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。 8:わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。〔セラ 9:わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。 10:あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。 11:わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 12:しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。 13:わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。 14:わたしの民がわたしに聞き従い/イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら 15:わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ/彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。」 16:主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。 17:主は民を最良の小麦で養ってくださる。「わたしは岩から蜜を滴らせて/あなたを飽かせるであろう。」 気になる言葉としては、12節にある、「しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。」エジプトからイスラエルへ40年もかかってしまった旅の途中、民はしっかり神の言葉を守れなかった時が何度もあったことを思う。 詩編作者の立場を思う時、先週の詩編と同じように、礼拝を想像しながら詠っているように思える。 2節から6節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っている。そして7節以降は司祭から神の言葉なる説教が詠われているように思えてくる。7節から11節の前半はイスラエルの民に向かって語られている言葉であり、12節以降でイスラエルの民の実態が詠われる。16節で会衆のための祈りが述べられ、17節では神の希望あふれる言葉が与えられる。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。四旬節にあって、現代の信仰生活においても、私たちは「信仰生活」と呼びながらも、あまり信仰的ではない生活をしてしまっている自分たちに気づかされるような面があると感じる。信仰生活とは疑いや迷いの中で歩むような面がある。しかし、17節の言葉の中に、イースターへの期待、希望、喜びを思わせてくださるような言葉が書かれている。 イースターまであと3週間と少し、十字架に架かる道を歩んでくださったイエスを覚え、そしてイエスは私たちにも十字架を背負って歩くように言われたことを覚え、その意味をよくかみしめる時でありたい。信仰生活は生やさしいものではなく、厳しいが、そこに、希望がある。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ4:5-42 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かに与えられますように。 先週水曜の夜から木曜朝まで、Family Promiseというホームレスとなってしまった家族に、一時的に寝る場所と食事を提供するプログラムのボランティアとして、Fountain Valley にあるのKing of Glory Lutheran Churchに行ってきた。 Family Promiseのコーディネータから2枚に渡るボランティアの説明書をよく読んで出かけた。 それにしても、実際、トイレはどこか?朝食の時はどちらのフェローシップホール(二つある)でコーヒーを入れるのか? ボランティアの寝るマットレスはどれを使ったら良いか、細かいことは現地に行ってから確かめる必要があった。 したがって、9時過ぎについて、私たちはまごまごした。 私たちがホストとして、お世話をする立場のはずなのに、逆にゲストとして泊まっているファミリー、とくに12歳の女の子Sちゃんや、二人のお父さんたち、LさんやRさんから、トイレの場所、朝食のフェローシップホールはどっちを使うか、ボランティアのマットレスはどれで、どこで寝るか等々を教わることから会話ははじまった。 結果として、仲良くなることができ、みな夜中はよく眠ることができたようで、私たちも会議室でよく眠ることができた。そして朝は希望を抱いて別れた。 与えられた福音書、ヨハネ4章5節から42節、少々長い箇所だが、すばらしい箇所だと思う。聖書箇所の背景を説明したい。サマリア人とユダヤ人はいってみれば仲が悪かった。ユダヤ人はサマリア人とは大きなギャップがあり、ユダヤ人とサマリア人が話しをするようなことはまずなかった。また、そのサマリア人は女性である。男と女という関係においても、当時の社会情勢からして、知らない男性と女性が話しをすることは適切ではないとされていた。つまり、男と女のギャップもあった。さらに、このサマリア人女性は、地域の人々との間にも大きなギャップがあった。というのは、過去に何人もの男性と結婚していて、今は、一人の結婚していない男性と生活していた。 そのような彼女は、地域の人からも孤立していて、また彼女自身には恥ずかしい思いもあり、なるべく、人とは顔を合わせない生活をしていた。 さまざまなギャップを持つ女性が、人目をはばかりながら、真昼間の暑い時に井戸に水を汲みに行った。 彼女はイエスにそれまで会ったことはなかった。しかし、イエスは救い主であり、また神であるがゆえに、彼女の過去をとことんご存知であった。そして、イエスが話しかける。イエスは全く彼女を批判するような話かけ方はせず、むしろ、イエスの方から、「水を飲ませてください。」と言う。 ジャンバニエというカトリックの思想家は、「本当に人を愛するとは、何かをしてあげることではありません。。。一生懸命にお世話をしながら、『あなたは自分ではできないでしょう』と、その人の無力さを見せつけてしまうこともあるからです。人を愛するとは、その人自身の美しさを自分で発見させ、見せてあげることだと思います。その人の存在する場所を作ってあげることです。あなたは大切な人であり、あなたには価値があると、その人自身に示してあげることです。」と言っている。ユダヤ人とサマリア人とのギャップを超えて、また、男と女の間のギャップも越えてイエスが話しかけられ彼女はびっくりする。イエスはそのようなギャップを問題としない。というのは、イエスがこのときに問題とした、生きた水、命の水に関する話がとても重要だったから。イエスはそのようなギャップを超えるだけではなく、「水を飲ませてください。」と話しかけはじめることによって、困っている人をお世話しようとするのではなく、彼女自身にイエスにはできないことがある、彼女に価値があることを認識させようとしているような面がある。そして、会話が進んでゆき、水を飲ませてくださいとイエスが話しかけたのに、サマリアの女が、逆に、イエスに、生きた水をください。とお願いする話になる。その時点では、まだサマリアの女性には、のどの渇きを思っている。 なので、サマリアの女には誤解があるものの、私はこの時点ですでに、イエスは生きた水を彼女に与えている。そして、イエスとの会話の終盤では、彼女はイエスが救い主であることがわかる。その結果、水を汲みにきたのに、桶をほったらかしにして、村に戻っていく。 地域の人々とはギャップがあって、目をあわせることすら避けていたが、今度は、「さあ見にきてください。私は救い主に会ったようです。」といって、村中の人々に伝道することになってしまう。 そして、村中の人々が、イエスを主と信じるようになってしまう。この話、2000年前の物語で、それを聞いて「良い話だとかおもしろい。」で終わるのではなく、主なるイエスは現代の私たちにとても大切なこと、「生きた水」とはどういうことなのか教えてくださっており、私たちにも命の水が湧き出していることに気づくきっかけになるように思う。 最初の「水を飲ませてください。」という言葉の中に,イエスは彼女が大切な存在であり、価値があるということを、イエスの愛を込めて話かけているように感じる。そこからはじまったイエスとの流れるような会話がおこる。そしてサマリアの女は、まるで暑い地面に置き去りにされてしまい死にそうになっていた魚が、きれいな水の中に再び戻って、元気に泳ぎだすように、彼女は、「命の水」を救い主からいただき、主イエスについて、元気よく伝道をはじめることになった。 ファミリープロミスでの話を最初に紹介したが、私がホストであったにもかかわらず必用に迫られて、ホームレスの家族からいろいろなことを教わることから会話がはじまった。 そこには、私たちが気づかぬうちに、神の思いが働いていて、その会話の中に、豊かなイエスの命の水が、与えられていたように思い、先週KOGに泊まっていた家族のうえに祝福があり、イエスが導かれる方向へ進んでおられると信じる。 今教会に集まってさまざな教会での活動の中にも同じ命の水が湧き出ていることを覚え、そして、またこれから教会に来るようになるものも、同じ命の水が湧き出るように。その命の水によって新しくされる経験を通して、私たちが新しくLCRの周辺のコミュニティに対して、伝道の働きができるように祈る。アーメン “Living Water” John 4:5-42 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ! This past Wednesday night from 9:30 p.m. until 7 a.m. Thursday morning, Satoko and I stayed at King of Glory Lutheran Church and served as volunteers for the Family Promise. It is a program offering temporary accommodations for homeless families. We read instructions that were provided by our Family Promise program coordinator and Council president, Pete. However, we were still unsure about which bathroom of several bathrooms to use, which fellowship hall to use for meals (since there are two of them), and which mattresses volunteers should use while staying on the campus… Therefore, when we arrived at KOG after 9 p.m. we were unsure about what to do. Even though we were the hosts to the families, we learned from a 12 year old girl, S, one father, L, and the other father, R, which bathroom to use, which fellowship hall to go to for breakfast, and the proper mattresses that we should use. As a result, I think, we socialized well with the families, had a good night and everyone slept very well. Then the next morning, all of us departed with hope and the promise of a new day. The Gospel Text read today is John 4:5-42. It is a little bit long, but it is a wonderful portion of…
Tweet 2014年3月23日日本語週報通算第1299号2014年3月23日の週報 Third Sunday in Lent LCR Japanese Ministry English Bulletin #1299E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 四旬節に入って、二週間が過ぎた。私たちの主なる神とは違う方向を向いたり、背を向けて行動したりしてしまう自らの罪を覚え、新たに主に向き直る期間として過ごしておられるだろうか。今週は詩編95編を読む。四旬節にふさわしい詩編だと思う。なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編95編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 / 95編 1:主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2:御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3:主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4:深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5:海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6:わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7:主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 8:「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 9:あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 10:四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 11:わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 気になる言葉としては、メリバやマサという地名。これらの地名の由来は、40年に及ぶエジプトからイスラエルへの大移動の際、民が神とモーセに文句を言って争った場所であり、また神を試した場所とされる。23日の聖日に礼拝の中で読まれる第一日課、出エジプト記17章の1-7節にそのときの様子が描かれており、7節には、モーセがその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけたと書かれている。 詩編作者は、たった11節の詩編の中で礼拝を想像しながら詠っているように思える。 1節から7節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っているようである。讃美歌21の20番「主に向かってよろこび歌おう」は詩編95の内容が詠われている招きの歌。もう一曲紹介すると、讃美歌21の226番「輝く日を仰ぐとき」も詩編95を含む讃美歌で、英語でも日本語でも、とてもポピュラー。 そして、讃美歌の後は、やや辛口の司祭の説教が詠われているように思える。 その説教の要点は、「エジプトからイスラエルに移動しているとき、昔の民がしたように、神に逆らったり、神を試してはならない。また自分勝手な思いから心を頑(かたく)なにしないように。」 旧約聖書時代の礼拝であるため、使徒信条の唱和や聖餐式、主の祈りなどは無い。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。上記に書いたような説教の要点、「昔の民のように、神に逆らったり、神を試したり、あるいは自分自身の心を頑なにしないように。」というメッセージはとてもわかりやすく、頭で理解することはできる。しかし、神が現代を生きる私に上記のような事をしないようにと言っているだけだとすると腑に落ちない。というのは、その内容を守り続けられるかというと首を傾げざるを得ないから。自分が知らないうちに、神に逆らうような言動をしたり、神を試すような行為をしてしまったという経験がだれにでもあるのではないかと思う。では、そのような状況に落ち込んでしまったとき、どのように立ち直れるのだろうか? 私は、イエスキリストが生まれてから私も生まれた人間でよかったと思う。それは、神が独り子イエスの生涯を通して、次のような事を教えてくださったから。私たち人間が過去にどのような罪をおかしていようが、つまり人間が失敗をして悔やんだり、恥ずかしくてしょうがないようなことがあっても、神から私たちへの愛が弱められるようなことはない。徹底的に神が私たちを赦し、愛してくださっている。 東日本大震災が起こって、3年と一週間が過ぎた。いまだに、亡くなった肉親や友人のことを思い、悔やんでいる方々のことを思う。その悔やみからの解放はどのようにすれば訪れるのか? 主なる神、救い主イエスキリストによって癒され、解放が訪れるように祈る。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ 3:1-17 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かにあるように! 聖壇にあるポールを見て欲しい。紫の布がかぶせられている。何があったか覚えいるだろうか?どういう意味があるのだろうか?紫はもともと高級な色で、王位を示すという意味もあるが、クリスチャンとして覚えていたいことは、紫とは四旬節の色。 マルコやヨハネが伝えるところによると、イエスが十字架にかけられる直前に着せられていた衣は紫色だった。イースター前の40日間、イエスが十字架にかけられたこと、そして、私たちの罪を思うとき、この紫色が四旬節の色となる。 じゃ、なぜ十字架を隠すのか?どう思われるだろうか? いろいろな思いがあって良い。イエスが十字架に架かっていることを想像される人もいるかもしれない。私もそのように感じることはいままで何回もあった。 今年は、私は、今日の福音書箇所を読んだあと、この紫の布の中には、蛇が隠されて居るようなイメージを抱いている。なぜそんなことを言うのか、後ほど話す。 本日の聖書箇所、ヨハネ福音書3章1節から17節。特に16節は有名で、聖書の中で一番好きな節は?というアンケートをとったなら、アメリカ人に聞けばこの節だという人が一番多いと言われる。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ニコデモというユダヤ教の指導者であり議員がいた。彼は、イエスの言う「人は水と霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)を理解できない。新たにに生まれるなんていうことがあるはずはない、とニコデモが考える中で、主イエスが語られた言葉が16節の言葉。 有名な16節の前には、14節と15節で、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とも語っている。いったいモーセが荒れ野で蛇を上げたように、ということはどういうことなのだろうか。 これは、明日の聖書日課で読むことになっている民数記21章に書いてあるが、紀元前1200年ごろに、モーセに引率されたイスラエルの民、何十万もの人々がエジプトからイスラエルに40年もかかって移動した。 その途中で、民は神とモーセに文句を言い始める。「こんな粗末な食べ物ではもうやってられない。なんで私たちをエジプトから導きだしたのか。」 そのような民に向かって、神は行動を起こす。 炎の蛇を送って、民をかませる。そして、多くの死者まで出てしまう。そこで民は猛反省して、「わたしたちは罪をおかしました」という罪の告白をし、蛇を取り去ってくれるように祈る。 神はモーセに「青銅の蛇をつくり旗竿につけて掲げるように」と命じ、「蛇を仰ぐものが命を得る」と言われる。そして、事実、蛇にかまれたものが、竿を見上げると命を得る。イエスは、これからイエス自身がどうなるかということを語るに際し、棒につけられた蛇にたとえて話している。 つまり、神の気持ちもよくわからずに文句をいった民が、罪を認め、棒に上げられた蛇を見上げて赦され新たな命を得たように、洗礼を受け、罪を告白し十字架にかかるイエスを信じるときに、新しい命を得るという事を、イエスがニコデモに語りたかったという事なのかと思う。 私たちの日常生活において、私たちは、神の視点からみれば、とてつもない罪をおかしていることが多々ある。1200年前にエジプトからイスラエルに旅をした民に比べればどんなにか物質的には豊かな生活をしていようが、好きなものが食べられないとか、ある食べ物はおいしくない不満を言って過ごしている。私たちは、神がどんな思いでおられるかを忘れてしまい、また、時には、神の言われることを無視してまで行動してしまうことがある。 そのような私たちに、神はひとり子イエスを送ってくださった。そして、イエスはいまだに十字架につけられているようなところがある。それは私たちの罪を赦すため。神は私たちの罪を赦し、イエスが十字架に架かることで、私たちの罪が隠される。 いま一度聖壇の紫のかかったポールを見て欲しい。この紫の布の中に私たちの罪を象徴する蛇がいるような気がしてくる。紫の布の中に、何をみているだろうか? 十字架上のイエスがおられることを見ていると同時に、その中に私たちの、失敗やら恥ずかしい思いも、いっしょに十字架に磔にされていて、イエスがその罪を隠してくださっているのがわかるだろうか? 今日のメッセージのポイントは、神は罪を赦し隠してくださるだから、いくら罪をおかしても良いということではない。 この紫の布で包まれたイエスが、私たちの罪を背負い、赦すために十字架にかかってくださったことを認識する時、神がその独り子を送り、私たちの罪を隠してくださっていることがわかった時、私たちはどう行動するかだ。後ほど、聖餐式のため聖壇の回りに集まるが、跪いて十字架を見上げる時、神の憐れみを覚え、新しい命に生きていることを覚え、キリスト者として、新たな信仰生活を歩みだすことができるように祈る。アーメン。 New Life John 3:1-17 Pr. Hitoshi Adachi Please look at this pole. It is covered by a purple cloth. Do you remember what is underneath it? What does it mean to you? In ancient times, purple represented (maybe it still does) expensive items and royalty. Therefore, purple was historically reserved for kings and queens. Also as Christians, we should remember that purple is a color of Lent. According to St. Mark and St. John, right before Jesus was crucified, he was dressed in purple cloth by soldiers. Therefore when we remember the time Jesus was walking to be crucified, purple is used liturgically. However, why do we put the purple cloth on the cross in this Resurrection Sanctuary? What do you think? It is OK for each of us to have different ideas about the symbology. You might interpret that Jesus is on the cross. I like that idea; it is a potent image. However, this year, especially when I think about the Gospel text given today, I feel like the cross might not be under the cloth. I am wondering if it might be a serpent under the cloth. Why would I say such a thing? I will tell you shortly… The Gospel text today is from John chapter 3:1-17. I would say that verse 16 is a very famous verse. I was told that, based on poll results, John 3:16 is the most…
Tweet 2014年3月16日LCR日本語週報通算第1298号2014年3月16日の週報 March 16, 2014 Second Sunday in Lent English BulletinEnglish Bulletin 1298E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 東日本大震災から3年が過ぎた。 年をとってきたせいか、どんどん一年一年が短く感じられるようになっており、あっという間の三年だった。まだまだ震災の悲しみ、痛み、またいろいろな形での悔やみがあることを覚え、今週の詩編128編を、最低は3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編128編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 / 128編 1:【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。 2:あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。 3:妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。 4:見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。 5:シオンから/主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見 6:多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。 3月11日の夜は、ラグナビーチで開かれた原発問題に関する小規模な市民の集いに参加していた。原発の実態を記録したビデオを見たあと、サンディエゴに行く途中の5号沿いにあるサンオノフレ原発廃炉に至った過程で市民運動を展開した二つの団体の代表者と、日本の原爆や福島の原発の状況にも詳しい方が壇上に上がってパネルディスカッションが行われた。そのような体験をした後、この詩編128編をじっくり読む時、一番気になる言葉は、「多くの子や孫を見るように。」という祈りの言葉が一番気になってくる、というか心配になってきているという方が正しい。詳しくは、また後述したい。 作者の気持ちを読みとろうとすると、ごもっともという感じがする。詩編の全編の中には、「いかに幸いなことか」という言葉が何度も出てくる。この128編もそのひとつ。そして、その言葉に続いている言葉は「主を畏れ」とある。「主を畏れる。」という事は、聖書の中に綴られた言葉の中でとても重要なこと。箴言1章7節には、主を畏れることが知恵の始まりという意味の言葉が書かれていた事を思い出す。そして、主を畏れ、主の道を歩む模範的な人がいたのだろう。2節から想像して、主を畏れ、主の道を歩む者は、労働に生きがいを持って精を出し、相応しい報酬を得ることができていた。また3節の言葉から、家族にも恵まれていた。そして4節では、「主を畏れる」ことが祝福されることであるという重要なポイントを詠う。5節に入ってくると、「シオンから」と始まるが、シオンは神殿のあるエルサレムを指していると思う。一生涯、祝福され、度々エルサレムに上ってその繁栄を見て、次の世代とさらにその次の世代をも担う子孫たちにも恵まれるように、という祈りでこの詩編は終わる。 さてこの詩編128編を通して、主なる神が現代の私たちに何を語っているかということを思う時、「いかに幸せか」ということには、将来の子孫たちも含めて、主を畏れて祝福されて生きるようにと教えられているように感じる。そのようなことに思いを巡らす時、将来の生活環境を思うと、世界各地(スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島)で起こった原子力発電施設での事故からして、将来にたいへんな負債を残してしまったと思う。サンオノフレ原発は、廃炉は決定したものの、まだまだ、使用済み核燃料の問題は残っており気の遠くなるような将来に渡って大問題なのだと思う。もし東日本大震災級の地震・津波が起こってしまえば、使用済み核燃料からは放射能が出始めてしまい、福島と同じような状況になりかねないという話も出ていた。 20世紀半ばに生まれ、いわゆる高度経済成長期に育った世代の一人として、告白し、謝り、後悔の念を述べざるを得ない。一昨日の集いに参加していた何人かの方々は、電力会社を責めていたが、私はそのような気にはなれなかった。20世紀後半は、「もっともっと」といってエネルギーを使う時代になっていって、その恩恵を受けた世代の一人だから。私は数年前から、1950年代に建築された家に住んでいる。電気系統の設備は建築当初のものを使っているので、電子レンジといっしょに、コーヒーメーカーか、トースターか、ヘアドライアーを同時に使うとブレーカーが落ちる。 1970年代か80年代に建築された家では決してそのようなことは起きなかった。 20世紀後半は人類のエネルギー需要に応えようという大義名分の故に、禁断の実を食べはじめてしまったような気がしてならない。将来に渡って、主なる神、すべてを創造してくださっている全知全能の神を畏れ、主の道を歩む人類になれますように。 アーメン。 牧師 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マタイ 4:1-11 牧師 安達均 救い主イエスが集まりました会衆を祝福し、主イエスの御言葉を豊かに与えてください。 悪魔がいると思われている方、何人位いるだろうか? 現代、悪魔とか悪魔の誘惑とか話したところで、どれだけの方がまともに話し相手になってくれるだろうか。 もちろん、そのような話をとても興味を持っていて悪魔のイメージを持っている方もいる。 怪獣とかお化けのような悪魔がいると信じている方もいる。 また、家に仏壇や神棚があったり、なにか、新興宗教のつぼだとか、そういうものの中に悪魔の存在があると信じている方もいて、私の友人でとても保守的な牧師は、そのような置物こそ悪魔で災いをもたらしているという方がいたりする。 私は、もっと違う種類の悪魔の存在があると思う。今日の福音書箇所はそのようなことを考えさせられる。 現実的なことで、私たちが日常出会うことのなかに、私は確かに悪魔の存在というか悪魔の誘惑があるのだと思う。 今日の聖書の箇所はそういうことを考えさせられるところだと思う。 本日の福音書箇所は、まず、「イエスは悪魔の誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野にでかけた。」とある。 「悪魔に会うため」ではなく、「悪魔の誘惑を受けるため」とあるので、誘惑にポイントがあることを認識しておきたい。 イエスが40日間の断食をして空腹を覚えた時、一つ目の誘惑は「石をパンに変える。」ように言われる。それは、神聖なものに頼るのではなく、物質的なものに頼るような誘惑が襲ってきたのだと思う。 二つ目の誘惑は、「神殿の屋根から飛び降りよ。神であるあなたが天使たちに命じれば、助ける。」と言われる。これはいったいどういう誘惑なんだろうか? 天使たちに命じて、過剰なまでに自分だけの利己的に身の安全を確保する、そして、自分以外の社会のことは考えないで生きていこうとする誘惑があるのだと思う。 三つ目の誘惑は、「悪魔にひれ伏せば、国の繁栄を与えよう。」とあるが、この世的な財産とか権力を持とうする誘惑があるのだと思う。 これらの誘惑に対して、イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る言葉で生きる」「主なる神を試してはならない。」「あなたの主を拝み、ただ主に仕えよ。」と、申命記の8章3節、6章16節、そして6章18節を引用して答えられる。 これらの誘惑をする者とイエスの会話は、現代の私たちに何を、教えてくださっているのだろうか? 一つ目のパンに代表される物質的なものには頼らないようにと言っているように思われるが、生きる糧というのは、なくてはならないものだ。 また、二番目の身の安全を確保することだって、普段の健康保険とかあるいは老後のための年金ということは、大切なことだと思う。 イエスは物質的ものや身の安全を確保するということでは、生命保険に入るとか、健康保険をも否定されているのだろか。 さらに、財産とか資産も生きる上で、住む家や日頃の買い物をしたりする上で、ある程度は必用。また社会というものは、政府やその他の多くの組織で成り立っているので、リーダと呼ばれる人たちに、ある程度の権力を委ねるということは大切なのだと思う。 イエスが、物質、身の安全、財、権力をすべて否定されているのでは無いと思う。 しかし、主なる神との関係から離れて、自分の物質的な欲望に没頭しないように、あるいは、自分だけの身の安全を過剰なまでに確保しようとして、医療・生命保険に加入したりしないように。 あるいは、神と隣人への関係以上に、自分だけの財産とか、自分本位の権力を維持しようとすることへの警告を、イエス様は発してくださっている。 この世の中、毎日、神との関係を危険にさらす悪魔の誘惑がたくさんある。物質的な宣伝、医療保険あるいは年金を勧誘する、あるいは、土地とか建物の財産とか権力をむさぼるような教育を受けることが良いような宣伝がされすぎているような面がある。都市部に住むと、平均で4000もの宣伝を目にし、その多くは、悪魔の誘惑に近い。一番大切なことは、物質的なものに頼ったり、年金とか生命保険とか、あるいは財産や権力ではない。主なる神を畏れ敬うこと。それは、すなわち、神との関係と隣人との関係をしっかりした上で、自分の物質的なこと、身の安全、そして、財産のことも考えれば良い。灰の水曜日からレント、受難節に入った。イースターまでの40日間を、神を畏れ敬うとの関係を第一にして、御言葉を読み、神なるイエスに祈る、友や家族を誘う、礼拝に出る、恵みに応答して捧げる、生活をされますように。 “Is there a Devil?” 2014 3 9 Matthew 4:1-11 Pr. H. Adachi May the Lord bless us and give us His word, in the name of our Savior, Jesus Christ! How many of you believe that the devil exits? If you speak to someone about the devil or the devil’s temptations, how does he or she respond? Of course, there are people who are very serious about the devil. Some people have a certain image of the devil, something like a monster or an evil spirit. For example, if someone has a Buddhist altar, a small shrine, or a sort of religious urn, some conservative Christians believe that these things are “of the devil.” However, I believe there are different devils in this world. The text today makes us think about the existence of the devil. The Gospel text begins with, “Then Jesus was led up by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.” Interestingly, he was led by the Spirit and it also says, “to be tempted,” in other words, the purpose was not meet with the devil, but to be enticed by the devil. After Jesus fasted for 40 days and 40 nights, the devil’s first temptation was to command stone blocks to become loaves of bread. This was the temptation to only rely on material goods rather than to rely on divine sustenance as well. The second temptation was to “throw yourself down from the top of shrine, and…