Archive for March, 2015

March 31st, 2015

No Comments, 教会Calendar, by admin2.

Tweet 4月5日に復活祭を迎えます。主の復活をご一緒に教会で祝いましょう。 2015年4月のカレンダー&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マルコ 15:1-39 十字架に架かられた主イエスの恵みと平安が、集まったた一人一人の心の中に、豊かに注がれますように! 喜びや希望にあふれていた状態から、深い悲しみあるいは苦しみに暗転した経験をお持ちだろうか?過去の心の傷がいまだに癒えていない方、あるいは、本当に今、悲しみのどん底にあるという方もおられると思う。  先週半ばには、フランスでジャーマンウィングスというドイツの航空会社の飛行機が墜落した。 ご遺族にはまさにそういう気持ちの方々がおられると思う。高校の旅行でスペインを何日か訪れた高校生16人が乗っていたという。 かわいい子には旅をさせろともいうが、その将来に希望あふれる高校生たちの喜びの旅が悲劇となってしまった。 もし自分がその親だったらと思うと、いたたまれない。心の傷が癒えるまでにいったいどれだけの日数を要することなのだろう? イエスが十字架に架かる聖金曜日の週の始り。 今週は日本語では受難週と呼ばれる。 この受難週のはじまり日曜日から受苦日と言われる金曜日まで、いったいどういうことが起こったのか、振り返ってみたい。 まず日曜日は、枝の主日とかPalm Sundayと呼ばれるが、 人々がホサナホサナと熱狂的とも言える歓喜の声の中で、人々の服や、その辺の枝だか葉を敷かれたところを、イエスがろばにのって通られる。 人々は賛美しますとさけびつつ、イエスをエルサレムへと迎え入れる。(マルコ福音書では11:1-11) しかし、ろばに乗って登場するイエスに違和感を感じ始めていたことだろう。 翌日の月曜は、イエスの気持ちは荒れているように見受けられる。 イチジクの木を呪うということをされ、さらに、神殿から商人を追い出すということをされる。 神殿を清められたということもできるのかと思う。(マルコ11:12-19) 火曜になると、呪われたイチジクが枯れているがそこには教訓がある。そして、ユダヤ教の指導者たちとイエスの間で、権威についての問答がある。さらに火曜の残された時間に、イエスがさまざまなことを教えられる。(マルコ11:12-13:36) 水曜になって、ユダヤの指導者たちは、イエスを殺す計画を立てる。かたやイエスはベタニヤの町で香油を注がれるということがおこっている。 十二弟子の一人イスカリオスのユダはイエスを裏切ることを決める。(マルコ14:1-11) 木曜は、過越しの食事、主の晩餐となり、イエスは弟子たちに聖餐式の設定の言葉を教えられる。 そして、イエスはペドロの離反の予告する。さらにゲッセマネへ行き祈られる。(マルコ14:12-42) そして夜中が過ぎ、受苦日である金曜明け方になってくるのだと思うが、イエスがユダに裏切られ逮捕され、弟子は逃げていってしまう。 イエスはユダヤの最高法院で死刑判決を受ける。 一番弟子のペトロは三回、イエスを知らないと言ってしまう。(マルコ14:43-72) その後イエスの死に至るまでの様子は、マルコ15章1-39節で、さきほど拝読の通りだが、ユダヤの指導者たちは、イエスをピラトに、つまりローマの指導者側に引き渡す。 その後、イエスが十字架に架けられ、苦難のどん底につきおとされ、十字架上で亡くなる。 マルコ15:1-39。 日曜日には、最高の歓迎を受けて、エルサレムに迎えられたイエスが、どんどん立場が悪くなり、弟子の一人には裏切られ、ほかの弟子たちにも見放され、しかも十字架刑に会うことになる話をざっと見てきた。 そして、福音書の拝読の中では、詳細にイエスが十字架に架けられる様子が読まれた。 イエスの精神的また肉体的な苦しまれた様子の中で、どういう箇所を聞いたとき、どういうことに一番イエスの痛みや苦しみを感じただろうか。  そして説教のはじめでは、ひとりひとりが、大きな喜びが暗転して、深い苦しみ、悲しみへと転換したみんさんの経験をふりかえっていただいた。あるいは、これから経験するかもしれない、苦しみや悲しみ、いたたまれない傷を想像した方もいるかもしれない。 そのお一人お一人が、体験したことに、あるいはこれから体験するかもしれない痛み、苦しみ、悲しみに対して、イエスの痛み、苦しみ、悲しみは、いったいどういう影響があるかぜひ、考えていただきたい。  受難週の日々を送る中で、主イエスによって、わたしたちの傷が、苦しみ、悲しみのどん底から、一人一人が癒され、励まされ、そして、次のステップに向かう力が与えられるように祈る。 父なる神は死にまで到ったイエスのどん底の状況、地獄とも言える中におられた中でも、イエスをあきらめてしまうことはなかった。 そして、私たちも、主なるイエスが、聖霊として存在されている主なる神が、私たちの痛み、苦しみの中に、共にいてくださって、励まし癒してくださっていることに気がつくことができますように。 アーメン 安達均   In the Depths of Suffering Mark 15:1-39 May the Grace and Peace from our crucified Jesus be poured into the hearts of the people in the sanctuary! Have you ever experienced unexpected sadness or suffering from what was initially a joyful situation? You still might not be fully healed from past trauma or you may be in the depths of suffering now. Last week, we heard the news about the German Wings that suddenly crashed into the Alps in France. There were high school students onboard and I believe their families are in the depths of sadness and suffering now. Their happiness about a study-abroad opportunity for their children has turned to horror. I do not know how long it will take until their wounded hearts are healed. Today is the beginning of Holy Week. This coming Friday is the day we remember our Lord who suffered and was crucified. Now, I would like to reflect on what happened between Sunday and Friday based on Scripture, especially focusing on the Gospel of Mark. This Sunday is called Palm Sunday, Jesus’ Triumphant Entry into Jerusalem. Many in the crowd spread their garments and leafy branches on the road ahead of Jesus. He was at the center of the procession and were people shouting, “Hosana in the Highest.” (Mark 11:1-11) Monday, it seems Jesus was very agitated. He curses the fig tree and then in…

Tweet 2015年3月29日LCR 日本語部週報通算第1349号 2015年3月29日(枝の主日)週報 March 29, 2015 LCR Japanese Ministry  English Bulletin Sunday English Bulletin 1346E(Passion Sunday) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週は聖書日課通り、3月26-28日に与えられている詩編118編1-2節および19-29節を読む。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 118編 1: 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 2:イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。 19:正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。 20:これは主の城門/主に従う人々はここを入る。 21:わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。 22:家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。 23:これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。 24:今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。 25:どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。 26:祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。 27:主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。 28:あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。 29:恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 気になった言葉は何だろうか。 私の場合は、22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」 詩編作者の時代にさかのぼってみて、作者がこの詩編の言葉にこめた意味を想像していきたい。詩編はユダヤ教の礼拝において詠われていた詩が編集されたもの。 118編は、とくに礼拝が始るときに、司祭や会衆が神殿に入る時に詠われていたのではないかと考えられる。礼拝の始めに、神殿の外で司祭が「恵み深い主に感謝しよう。」と大きな声でよびかけると会衆が「慈しみはとこしえに。」と応える(1節)。次に司祭が「イスラエルの民は言う。」と呼びかけるとまた、「慈しみはとこしえに。」と会衆は応える(2節)。 今日の箇所には入っていないが、似たような応答が3-4節にあって、続いて、なぜ主に感謝するのかの理由が5-18節まで詠われる。そして19節ではいよいよ神殿の門があけられて、19-29節は神殿に入ってゆく時に神殿の中で行なわれることが詠われていたのだろう。19-21節は神殿の城門を開けて、入ったところで、主に感謝しよう、これこそ主の門であり、主に従う人はこの門を入る、私たちにあなたが答え、救ってくださったので、主に感謝する、と詠いながら進む。22-24節は喜び踊りながら神殿中央部に入ってくる様子が思い浮かぶ。ただ22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」は、新訳聖書のなかで何度か引用されており、新訳の世界ではイエスのことを述べていると考えるが、旧約時代に、詩編作者はいったい何のことを語っていたのか特定しがたい。しかし、兄弟に裏切られてエジプトに連れてこられたヨセフが後には、旱魃にあってあえいでいたイスラエルの民を救うことになるヨセフのことを意味していたのかもしれない。26-28節は、司祭たちと会衆は捧げものをたずさえて進み、祭壇で捧げ、主に感謝しながら詠い続ける様子が目に浮かぶ。 そして29節では1節と同じように、「恵み深い主に感謝せよ」という司祭の呼びかけと、「慈しみはとこしえに」という会衆の応答で118編は終わる。  この詩編箇所を通じて、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。3月29日からはいよいよ受難週となり、イエスの御苦しみを覚え、そしてこれまで以上に私たちの罪をに覚える時だといえる。それはキリスト教信者自身が、イエスを十字架刑に追い込んでしまった一人であることに気付く時だともいえる。それは2000年前に起こった過去の出来事というより、現代も続いている。イエスキリストの体である教会に集まる者自身が、自ら教会を 傷つけていることを認識する時とも言える。その受難週を迎える前に、この詩編が訴えてくるものは何なのだろう? この詩編は、数日後にはイエスが十字架刑になるのに、民の歓喜の声の中で、イエスがエルサレムに入城してくる様子にも重なってくるものがある。また現代の「主を賛美します、主を賛美します。」と歌い、賛美することが一番大切という牧師たちや教会の指導者たちが、大きな声でプレイズソングを歌っている様子にも重なってくる。賛美することが一番大切ということはどういうことなのか? 家を建てる者の退けた石が隅の親石であることの意味をじっくり観想したい。2000年続いているキリスト教会の礼拝では、最初に開会讃美歌を詠うが、その後すぐに、罪の告白となることに、大きな意味がある。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ヨハネ12:20-33 主の恵みと平安がこのメッセージを聞く一人一人の心に豊かに与えられますように! えいこさんが天に召されてから明日で2週間を迎える。どうして、えいこという名前にされたのかを考えたが、ひょっとしてご両親は、キリストの栄光のえいこうから名前をとったのではないだろうか。えいこさんが九州出身者で比較的キリスト教徒の家庭は多い地域であり、そのような可能性もあるのではないだろうか? えいこさんのことを考えつつ、栄光の話を今日はするように、聖書の御言葉は導いているように思う。 先週の月曜から水曜は、200人くらいのアメリカ福音ルーテル教会のスタッフが集まって会議があった。 アメリカ福音ルーテル教会はいまだに白人主体の教会であり、95パーセントは白人といわれている。 しかし、シカゴ本部は、白人の比率は少なくなる。おそらく、4割は、白人以外で占める。会議は、そのような本部スタッフの約半分と、全米にちらばっている教区事務所に勤めるもの一人ないし二人が集まった。 そして、話した時間の中で、実は、人種差別や性差による差別の問題がかなりしめていた。なぜ人種差別の問題をいまだにしなければならないのかと思われるかもしれない。 もちろん、教会として人種差別などはしていないのだが、表には現われにくい人種者別意識が、心の奥底にあることを、抉り出されるような話がいっぱいあった。あるいは黒人の女性は大学出だが、知らない人と話していると、「えっ、あなたは大学に行ったのですか?」という質問をよくされると語っていた。   今日の聖書箇所、ヨハネ福音書ではキリストがいよいよ十字架に架けられる日が近づいているなかで、起こったできごとを書いている。それが出来事といえるほどのことなのか、ひょっとするとサーと見逃してしまうことに注意したい。何人かのギリシャ人がなんとかイエスに会いたいという人々が現われたようだ。二つの疑問点がうかぶ。  一つ目の疑問は、そもそもなぜ彼等はイエスに会いたくなったのだろうか? 二つ目の質問は、そのギリシャ人に対する対応は、弟子たちははっきりしない。まず、フィリポに申し込みがある。それをすぐに人を相容れるということはしない。フィリポは、アンデレに相談に行く。そして、二人の結論は二人でイエスに相談する。このまどろっこしい対応は何なのか?   最初の疑問については、イエスの救いの御業はイスラエルだけではなく、周辺地域にも広がっていたのだろう。そのようななかで、ギリシャ人は、イエスはユダヤ教の人間で、救い主とは、イスラエル人だけを救うのか、あるいは、ギリシャ人も対象になるのか、そういう質問を持っていたのではないだろうか?そしてそのことをイエスに聞きたかったような面があると思う。  ユダヤ人である、 フィリポもアンデレも、ギリシャ人がやってきて、どう話をしてよいのか、とまどっている。 そこには、フィリポにもアンデレにも、わたしたち、イエスの弟子たちは、まず、ユダヤ人であることが前提で、とてもとてもマルチカルチュラルという現代とは程遠い現実があったのだろう。こころの中で、あきらかに、人種差別をしてしまっているような面がある。さらに、フィリポもアンデレも、心の中では、ギリシャ人が聞きたかったことに対して、まだNOという意識を持っていたのではないかと思う。そして、正しい答えとして、イエスにNOといってもらおうとしているような背景があったのかと思う。 それに対して、イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語りだす。 そこには、イエスが十字架にかかって死ぬ時が栄光の時だということを語られていたのだと思う。 しかし、なぜ、死が栄光なのだろうか? そこには、イエスの十字架の死が、多くの実を結ぶことになるから。 それにしても、多くの実とははんなのか。本日の福音書の最後の言葉に注目したい。 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 このすべての人を引き寄せようという言葉によって、ギリシャ人の抱いた質問に対する答と、またフィリポやアンデレがどう対応したらよかったかの指針が含まれているように思う。  イエスは、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、肌の色が黄色だろうが、茶色だろうが、黒かろうが、白色であろうが、あるいは男性であろうが女性であろうが、国籍、人種、性別にこだわらず、すべての人々を主のもとに引き寄せてくださっている、そういう主なる神。死は死ではおわらず、死を滅ぼして復活し、その際に、すべての人々を引き上げることを言っておられ、それが栄光の時とされている。  先週、月曜から水曜日まで出席した会議のメインの司会者は、肌の色は黒いアフリカ系アメリカ人女性だった。腕には黒い十字架の刺青がされていたが、本当に見事な準備と司会をしてくれた。そして、人種や性別差別の問題で話し合いをリードしてくれたのは、やはりアフリカ系アメリカ人の差別問題を専門に学んだ女性が、講演をして、さらに、グループ別のディスカッションへの質問をしてくれた。 今日のメッセージを終わるにあたり、開会のDevotionをしてくれた、やはりアフリカ系アメリカンの若い牧師が、ズールー語の挨拶を教えてくれた。 ズールー語とは主に南アフリカ共和国の中でも東部で話されている言語。「今日は」に相当する言葉は「ザボナ、Sawubona」という。  このザボナには、もっと深い意味がある。それは「私の中にいる神があなたの中にいる神を見ます。」という意味。 それは、私の中にいるイエス様が、あなたの中にいるイエス様を見ます、と言い換えることもできるし、私の中にいる聖霊が、あなたの中にある聖霊を見ます、と言い換えても良いのだと思う。 そんなばかな話あるかと思われるかもしれない。そういう人間の気持ちがイエスを十字架の死に追いやってしまったともいえる。 しかし、その十字架の死から復活し、イエスはその罪深い全人類を赦される。 その十字架は、アダムとイブにはじまった罪深い人類、肌の色や国籍や性別に関係なく、すべての人類を救うという、輝ける栄光の十字架である。 いっさい人々を除外しないというイエスの信仰を思う時、わたしたちも人種差別のようなことがおこらないように働くことの重要性がある。 安達均 The Hour of Glory John 12:20-33 May God’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! It has been two weeks since Eiko almost passed away. I was just wondering about her name. She might be named from “Eikou 栄光” meaning “Glory” of Jesus Christ since she was born in Kyushu where Christianity is more popular than in other parts of Japan. I think our Lord is guiding me to talk about the Glory of Jesus. This past week I was attending a meeting near the churchwide office in Chicago. Almost 200 church staff got together. ELCA is a predominately white organization. Statistically, 95% of the church members are European American. However, if we look at ELCA staff, the percentage of European Americans is much lower. In the churchwide meeting, there were many African American, Latino, Asian, Native American, and Middle Eastern attendees. During the three day meeting, we spent a great deal of time talking about Racism and Sexism. You might wonder why we still need to talk about these issues. Even though structurally the ELCA does not discriminate people by gender or race, racism/sexism still exists interpersonally and societally. One African American woman shared that she is frequently asked “Did you go to college?” Most likely, if she were a white woman; she probably wouldn’t be asked that same question as often. The Gospel today, describes…

Tweet 2015年3月22日LCR日本語部週報通算第1345号 2015年3月22日(四旬節第五主日)の週報 March 22, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1345E(5Lent) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週は聖書日課では3月23-25日に与えられている詩編119編9-16節を読む。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 119編 9: どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。 10:心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから/迷い出ることのないようにしてください。 11:わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように。 12:主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。 13:あなたの口から与えられた裁きを/わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。 14:どのような財宝よりも/あなたの定めに従う道を喜びとしますように。 15:わたしはあなたの命令に心を砕き/あなたの道に目を注ぎます。 16:わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません。 気になった言葉は何だろうか。 私の場合は、15節の「あなたの命令に心を砕き」という言葉。「心を砕く」というと、「心配する」とか「配慮する」という感覚で使われていることが多いかと思う。しかし、原語のヘブライ語や英語に訳された言葉などを参考にして、つきつめて行くと「熟考する」という意味なのだと思う。 詩編作者の時代にさかのぼってみて、作者がこの詩編の言葉にこめた意味を想像していきたい。 詩編119編には22文字あるヘブライ語のアルファベットの各文字ではじまる22の詩が収められている。本日の箇所は、二文字目のBに相当する言葉ではじまる詩。 1-8節はAではじまる言葉で、基本中の基本ともいうべき教訓が書かれているともいえる。 そして二つ目の詩では、最初の節の言葉から若者への教訓にフォーカスしているようだ。 一節づつ考えていきたい。 いったい若者はどのように清き道を歩んでいけば良いのか、それは主の言われたとおりの道を歩み続けること(9節)。 心を尽くして主に尋ねもとめて、主の教えからはずれてしまうことがないように(10節)。主の言われたことを覚え、主に過ちを犯すことがないようにすること(11節)。主よ、賛美します、あなたの掟を教えてください(12節)。主が語られた裁きも自分で物語ることができるように(13節)。財宝などを喜ぶのではなく、主の定められた道を歩むことこそが宝であり喜びとなりますように(14節)。主の訓示をじっくり観想し、主の定められた道を敬って歩むように(15節)。主の掟こそ楽しみとし、主の言葉を覚えるように(16節)。 この詩編箇所を通じて、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。 ユダヤ教信者の家族では、現代でも、親が子に、じっくりユダヤ教のトーラ(律法)を教えるという。日本語ではトーラを律法と訳してしまうが、どちらかというとさまざまな生活上の基本であり、旧約聖書のなかでも最初のモーセ五書に残された掟、「教訓」として捉えたらよいと思う。そして主イエスキリストは、最も重要な掟に関して次のように語られていたことを思い起こす。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 現代の生活では、モーセ五書や詩編が著された時代とは大きく異なる環境の中に置かれており、モーセ五書では語られていない教訓や掟を自分たちで決めなければならないこともあるのかと思う。たとえば、夜中でも電気をつけて、本を読んだりすることもできる。あるいは夜中に映画を見に行ったり、あるいは友人と遊びにいったりもすることができてしまう。 しかし、いろいろな自由度があるなかで、行動規範は、常に「主なる神を愛する。隣人を愛する。」を年頭におき行動するかどうかになるのかと思う。四文字熟語で「敬天愛人」という表現もできるが、その意味は深く、熟考して行動する必要がある。 現代の親や教師たちは、こどもや生徒たちに、このようなことを教える大切さがあるのだと思う。 ルーテル教会が母体となって100年以上前に建立された九州学院を1月に訪問したが、学院の教訓が「敬天愛人」であることを思い出す。  安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet John 3:14-21 救い主イエスの恵みと平安が私たちの心に注がれますように! 私は牧師になる前は医療電子機器の会社に勤めていた。アメリカの市場で何千台もの機器を病院に納めさせていただいた機械に脳波形があった。 脳波計とは患者の脳波を測定し、記憶装置に治め、脳の解析の手助けをする。使用目的の一つに睡眠の解析がある。 睡眠解析をする件数は、90年代に飛躍的に増大した。というのは、アメリカ人の10人に一人は睡眠障害があるといわれだしたから。学会などにも参加して、医師と対話する機会もあった多かった。 学んだことのひとつに、睡眠障害の7割方は、呼吸系の問題。睡眠時無呼吸になってしまったときに、呼吸を助けるマスクをして対処している方が家族にいたり親戚にいる方もいると思う。 残りの3割は呼吸系の要因ではなく、じつにさまざまな要因で、脳神経に関する原因であるが、その機序は複雑とのことだった。  ある医者は、残りの3割の不眠症は、本当に、それを病として治療することが良いのかどうか疑問であり、かなりの場合は、自分は治療をしないということを述べていた。 神経が高ぶってしまう要因を、それは千差万別なのだ 眠れなくなってしまった時に、神経を他のことに向けるというこがよく行なわれる。数を数えたり、ゲームをしたり、LCRのサイトにアクセスして私の説教の録音を聞いてもらうのも良いかもしれない。 いったいどうしたらよいのだろうか? 正統的な手段としては、私は神に祈ることかと思う。しかし、祈ることとは、意識して祈るわけで、眠らないこと。今年の聖句としてあげているコロサイ人への手紙には「目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」と書かれている。なぜ祈ることが私たちの睡眠の手助けをするのだろうか?   エピスコパル教会牧師、バーバラブラウンは眠れないという感情をそのまま信頼して、それから逃れようとするのではなく、さらにがけっぷちに近づくように、その眠れなくなっている要因をさらに深く考えようとしたらどうだろうかと書いている。心理学者のバイブルとまでいわれる診断と統計によれば、愛する人を亡くして悲嘆に暮れる日々は2ヶ月までとし、もしそれ以上に及ぶならうつ病と診断し処方薬を勧められてしまうそうだ。バーバラブラウンは、西洋の文化が暗い感情を恥として、ふたをしてしまう、拒絶してしまうようなところがあると指摘する。しかし、暗い感情をただおいやってしまってよいのだろうか?  心理療法士ミリアムグリーンスパン氏は暗い感情の治療なる本を書いている。彼女の母はホーローコーストから逃れた人で、彼女の母は戦後10年、率先して嘆き悲しんだという。あのような大量虐殺ということに対して、10年でも短いのかもしれない。グリーンスパン氏は、どうしようもない暗い感情なんというものは存在するのではなく、それはやりきれない感情にただ未熟な対応をしているだけに過ぎない。そもそも感情というものは、人間から何かをとりだす必要のある純粋なエネルギー、私たちを眠りから覚めさせて、私たちが何か知る必要があることを教え、私たちの心の周りに凝り固まってしまっているものを壊して、私たちが行動するように仕向けているものだと述べている。 暗い感情というものは、心の奥にある人々とは分ち合いたくない、あるいは、考えたくも無いことでも含まれているのだとおもう。それらは恐れや恥に起因している場合もある。これらの感情は人々を極端に内向的にさせ、人との対話が難しくなったり、自分に価値がないものだとしてしまったりする。また過去の失敗や事故などによって、とてつもない弱い立場においやってしまうことがある。 実にさまざまな問題から神経がやられてしまうことはある。不眠症になったから西洋医学によって治療しなければならないという気持ちになる人が多い。しかし、バーバラブラウンは、暗闇の感情に対して我慢ができていないのだと指摘する 脆弱、勇気、価値、恥といったような内容の研究をしているブルーネブラウン教授は傷つきやすい心とは、恥や畏れ、そして自分の価値について紋々とする時の核心的な問題だと指摘する。しかし、そのような時に、傷つきやすい心、社会への帰属意識や愛情を受け入れる心に生まれ変わる場合があるという。 今日一人の医師、牧師、心理療法士、大学教授の話をしたが、その間に忘れてはならない存在、お方がいらっしゃるのだと思う。 特にこの受難節という季節にあって。私たちはヨハネ3:16をよく読む。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」しかし、本当に神がどのように私たちに永遠の命を与えられているのかよく考える必要があるのだと思う。 神の子は一人の弟子に裏切られ、他の弟子たちからも置き去りにされ、兵士から鞭でうたれ裸にsれ、人々から十字架にかけろとののしられ、本当に十字架に架けられ殺された。  しかし、イエスの話はそれで終わらなかった。イエスは今でも聖霊として生きておられ、私たちと共にいてくださり、真っ暗闇でもいっしょに歩まれる。どんな暗闇にも夜明けがあり、希望がある。私たちの終わりには、あらたな命のはじまりがある。 残りの受難節、みなさんが良く眠れるようにとは祈る。しかし眠れない時があっても心配しないように。それを無視したりすることはかえってよくないのではないだろうか? 主に祈り、イエスに助けを求めよう。聖霊とともにおられるイエスが、常にいっしょにいてくださり、私たちを決して見捨てるようなことはなさらない。アーメン 安達均 Sleepless Nights John 3:14-21 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace come to you in the name of Jesus Christ, our Redeemer and Lord! Until I finished my first year of seminary education, I was still working for a medical device company. Their most popular product, in the US market, was the electroencephalograph. It’s a device that detects patients’ brainwaves, saves them to the memory, and allows a doctor to analyze them. One of the major purposes of the product was to analyze patients’ sleep patterns and help diagnose sleep disorders. The need to analyze human’s sleep patterns greatly increased in 90s, because research showed that more than 10 percent of the US population had sleep disorders. Since we were providing the sleep pattern analysis devices, I often attended conferences that sleep researchers and physicians attended. One thing I learned, in the late 90s, was that almost 70 percent of physicians thought that insomnia cases should be treated as a respiratory issue. Some of you are wearing or have worn breathing masks at night. However, 30 percent of insomnia cases cannot be cured by respiratory treatments. Physicians discussed the complicated mechanisms that make up a human’s neurological systems. I tried to follow the discussion, despite having only a basic knowledge of physiology. A Japanese physician, I talked with at that time, said he does not believe that 30 percent of insomnia can be…

Tweet 2015年3月15日LCR日本語部週報通算第1344号 2015年3月15日(四旬節第四主日)の週報 March 15, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1344E(4Lent) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週後半の聖書日課にある詩編107 編1-3節および17-22節を読む。150編ある詩編は、五つのグループに分けてとりあつかわれることがある。その五つのなかで、107編以降150編までは、最後のグループとされる。107編は第五詩編グループの中で一番最初の詩編ということになる。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編107編 1:「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 2:主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い 3:国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。 17:彼らは、無知であり、背きと罪の道のために/屈従する身になった。 18:どの食べ物も彼らの喉には忌むべきもので/彼らは死の門に近づいた。 19:苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。 20:主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。 21:主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 22:感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌え。 さて、どのような言葉がインパクトがあっただろうか?あるいは引っかかったか? わたしの場合は、特に一節の言葉から、恵み深い主から慈しみがとこしえにあるという言葉。 詩編作者の気持ちになって、本日の詩編箇所を振り返りたい。詩編作者の気持ちというべきか詩編編集者の気持ちというべきかよくわからないが、冒頭に書いたように、107編は第五詩編グループの一番最初の詩編。その1-3節は、107編から150編の最大のポイントを詠っているようだ。 主がいかに恵み深いか、そしてその主から注がれる慈しみは永遠に存続している、だから主に感謝せよ(1節)。主は苦しめられている人々を救われた、主に買い戻された人々は皆、感謝して謡え(2節)。主によって東西南北にある国々から集められたものよ(3節)。そして4節以降43節まである長い詩編107編は、主の恵み・慈しみがいったいどのようなものかを具体的に挙げているように思える。その中で今日読んだ17-22節では、詩編作者は以下のようなことを詠っているように思う。 人々は主なる神のことをよくわからず、主に背を向けてしまい罪の道を歩くことになり、結局(神の敵対者)に従う者となってしまった(17節)。どんな食べ物も、本来食べるべきものではない(忌むべき)ものであるため、ほとんど死をさけられない病になってしまった(18節)。そのような苦難の中から主に助けを求めると、主は人々を苦しみの中から救い出された(19節)。 主の御言葉が与えられ、人々は癒され、破滅から救い出された(20節)。だから主に感謝しよう、主の慈しみはとても深く、人々に驚くべき事を成し遂げる(21節)。だから感謝の捧げ物をして、主の成し遂げられた事を代々語り、喜んで主を賛美しよう(22節)。 詩編107編を通して、主なる神は、今日の私たちに何を語りかけてくださっているのだろうか? 昨日3月11日を持って、あの東日本大震災から4年間という期間が過ぎた。四年も経ったのに、仮設住宅にいる方々がいるし、心が癒されていない方々がいるという記事も見るし、四年しか経っておらずまだまだ原発の被害とそれに対処する期間はこれから何十年、何世代にも続くのだという記事も見かける。とくに原発の問題を思う時、17節18節にある言葉は、人々が無知(主なる神を畏れていない状況)であるため、主の道から背いて、悪魔の道を歩み、結果食べるものは、みな汚染されてしまったものとなり、瀕死状態となってしまった、という内容が重くのしかかってくる。しかし19節以降にあるように、主なる神に助けを求めると苦しみから救われ、主の御言葉によって癒され、破滅から救われる。という言葉に大きな望みがあることを覚えたい。そして、人々に主の業を語り伝え、主の永遠の恵みに感謝し、捧げ物をし、賛美しようという言葉から、永遠の慈しみを感じる。そして、この詩編を詠う私たちが、どういう行動をとるべきなのか、自ずとわかってくるように思う。  四旬節にあって、十字架を担いで歩むようになる主を覚え、謙り自分のいたらなさを告白し、聖なる御名を褒め称えつつ。  安達均    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]