Archive for January, 2014

Tweet LCR日本語部週報通算#1293号 (日本語) LCR日本語部週報通算1293号(英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週の詩編は37編を読むが、40節もある長い詩編の一部、10節から17節を読む。37編の1節から9節は昨年10月3日に読んでおり、その時何を思ったか思い起こされるのも良いかもしれない。そして、10節から17節の中で気になる言葉は何か。そして主なる神が、この詩編を通して自分に、あるいは自分の所属する家族や教会、あるいは会社でも地域社会でも、何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 37編 10: しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。 11:貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。 12:主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが 13:主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。 14:主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするが 15:その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。 16:主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。 17:主は御自分に逆らう者の腕を折り/従う人を支えてくださる。 詩編37編1節から9節には、主に信頼し、主に委ねることの大切さが書かれており、9節は「主に望みをおく人は、地を継ぐ。」という言葉で終わっていた。そして10節以降は、主に従わず逆らう者はどうなってしまうか、そして主に従う者がどうなっていくかが描かれている。  10節から17節の言葉の中で、どんな言葉が気になっているだろうか? 私の場合は11節の「貧しい人は地を継ぎ」という言葉と14節は「まっすぐに歩む人を屠ろうとするが」という言葉がとても気になっている。 最初に気になった「貧しい人は地を継ぎ」という言葉、今度の日曜日に読む福音書、マタイ5章の山上の説教の最初の部分、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と話し始めており、多いに関係があると思う。イエスは当然、旧約聖書の詩編のこともよくわかっておられるなかで、山上の説教を語られたのだと思う。しかし、日本語の翻訳の問題もあるかと思うが、イエスのこの言葉は、この世の常識からすれば「なんで心の貧しい者が幸いなんですか?どうして神の国は心の貧しい者たちのものなのですか?」と質問したくなる。 今日の詩編の箇所は、山上の説教の最初の言葉を理解する上で、とても参考になるように思う。 詩編作者の記した「貧しい人」もイエスの言う「心の貧しい者」も、貧しい故に主を信頼し、主に委ねる人のことを言われているように思う。 次に気になる言葉として「まっすぐに歩む人を屠ろうとするが」と上記に書いたが、私はこの言葉の中に、「まっすぐに歩んでいたイエスが屠られるが、しかし、死をもって死を滅ぼされた主なる神、イエスキリスト」のことが思い浮かんでくる。 今日の詩編箇所を繰り返し読む中で、繰り返し起こってしまう乱射事件のことを考えている。 15年前コロンバイン高校で亡くなった高校生や教師、7年前のバージニアテックの大学生や教授、二年と少しを経過したがコネチカット州サンディフック小学校で亡くなった小学生たちと教師たち、いまだに遺族の気持ちを考えるといたたまれなくなる。 しかし、犠牲者たちは、天の地を引き継いでいるのだと思う。いたたまれない中に希望を抱いている。 銃を乱射した者たちについては、結局15節の言葉にある「その剣はかえって自分の胸を貫き、弓は折れるであろう。」ということが現実になったように感じている。それにしても、犯人となった若者たちが、もし、この詩編を真剣に読む機会があったら、このようなことは起こらなかったのではと悔やむ。 私が間違っていて、「この詩編を読んだが、あのような犯行に及んだんだ。」ということが全く無いとは言い切れない。 しかし、私は何千年前からも、創造者なるお方、神が人類に残してくださった聖書に記されたストーリが、現代に育つ私たちにも、繰り返し語られることの大切さを思わずにはいられない。   一人でも多くの者が主に従う者とされ、豊かな平和に自らをゆだねる生活をいとなみますように。 アーメン  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 「主が選んだ」  マタイ4: 12-23 主イエスキリストが、集まりました会衆の上に、豊かな恵みを注いでくださいますように! 自分でいろいろな教会をみて、ルーテル教会が良いと思うようになった、あるいは、さまざまな宗教を学んだ結果、わたしはキリスト教徒になったという兄弟姉妹はいる。多いに結構なことだと思う。  しかし、私がキリスト教を選んだとか、私が教会を選んだという気持ちもあるかもしれないが、本当に自分が選んで来たのだろうか。自分がキリスト教会を選んだんだというのは、ちょっと腑に落ちない面がある。というのは、自分が神を選んだようで、それは人間の選択能力が神の選びより優れているような話をしていることにならないだろうか?  たとえ自分で選択したという気持ちがあっても、実は、最初から神が選んでおられたのではないだろうかと思う。しかも、それは、他者より優れていたとかそういうことではなく、ひたすら、神があなたを大好きでたまらなかった。その神の気持ちに応答したと考える方が腑に落ちるように思う。 さて、本日与えらた福音書の前半部分は、預言者たちが書き残していたことが、イエスの出現によって実現することをマタイは述べている。イザヤの8章終わりから9章にかけて、次のようなことが書かれていた。 「ゼブルン、ナフタリと呼ばれる地方、つまりガリラヤ沿岸は、ユダヤから見放されたような状態となっていたが、そこに住む者、暗闇の中に住む者たちは、大きな光を見ることになる。」 そして最初の弟子たちが、イエスに従うようになる様子をマタイは記述している。二人の兄弟ペテロとアンデレがガリラヤ湖で漁をしていた。そこにイエスが声をかけて、「わたしについてきなさい。人間を獲る漁師にする。」という。すると、信じがたいが、二人はすぐに網をすてて、従ってしまう。 次には、ゼベダイというお父さんの息子たち、ヤコブとヨハネが父親といっしょに網の手いれをしていた。そこに、イエスがやってきて、彼等を呼ぶ。すると、やはり信じがたいが、ヤコブとヨハネはすぐさま、父親と網を残して、イエスに従ってしまう。  この4人の漁師たちが突然、イエスの声に反応して、イエスに従うものとなる様子は、ある意味不自然のような気もする。だれかの弟子になるというのであれば、先生となる人の評判とか、あるいは、いろいろな先生を比べてみて、また面接もあり、私はだれだれ先生の弟子になろうということを決めるような面がある。しかし、マタイは全然そういうことは書き残していない。  いったい、今日与えられた福音書を通して、私たちは、何を主イエスキリストから学んでいるのだろうか? ひとつ学べるということは、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、そして、ヨハネも、まずは一方的に神が選んだということではないだろうか。  そして、四人は、ほかの先生と呼ばれる人と比べるようなことはせず、ただイエスに従ったとマタイは記述している。それにしても、私は、マタイの誇張表現があるようにも思う。なぜかというと、先週読んだヨハネ福音書によれば、まずアンデレがイエスに会って、一晩、イエスとの会話なりがあった上で、アンデレはペテロをイエスを合わせている。  また、ルカ福音書によれば、なかなか魚が獲れない状況の中で、イエスから、もう一度船を沖に出して、網を投げるように言われる。 ペトロは、じょうだんじゃない、魚とりに関してはおれの方がプロなんだから、口出ししないで欲しいと言わんばかりだった。 それでも、イエスの言うとおりに網を張ったところ、大漁となり、ペトロはイエスに従うものとなったことが記述されている。  ヨハネ福音書のように、アンデレが兄弟のペテロを連れてきたとしても、またルカが伝えるように、ペトロとイエスの漁の仕方について、やりとりがあった上に、ペトロが従ったにしても、私はマタイの記述から伝わってくる、「主イエスキリストが、”選ぶ”という動詞の主語で、イエスが弟子たちを選んだ。」というポイントは変わらないように思う。神の選び、聖霊の働きがあって、弟子となっている。 もう一つ大切なのは、この弟子たち、ユダヤ社会で、立派な教育を受けていたとか、家柄が良かったからとかという理由で主イエスキリストが彼等を選んでいるのではない。いや、むしろ、世の中でみはなされたような地に住んでいた者たちが選ばれているようなところがある。 それどころか、問題児たちが弟子になっているような面がある。あるいは家庭的に問題のあた家柄の人間が弟子たちになっているような面がある。今日の福音書箇所ではないが、十二弟子たちは、イエスに従っていく間に、「誰が一番弟子のなかで偉いか?」という議論をしたり、さらに、ゼベダイの奥さん、弟子となったヤコブとヨハネの母は、ほかの弟子たちをさておき、イエスのところにやってきて、私たちの息子こそ、あなたの両側の座に座らせてください、と懇願するという話がある。。。 このような聖書の話を通じて、何を思っておられるだろうか? ぜひご自身のことを振り返っていただきたい。 いろいろな過程があって、ご自分で選んで、キリストの信者になったとか、だれだれさんが誘ってくれたから、私は教会に来るようになったという方はおられるのはわかる。しかし、そのようなことが起こるのは、実は神が選んでくださって、今、この礼拝堂に一人一人が座っている。  しかも、その選びは、私たちの能力があるとか、家柄がよいとかそういう基準で選ばれているわけではなく、むしろ、わたしたち自身が社会の中では弱い存在だったり、なにか、問題があってここにいるような面は否めないのだと思う。そのような神の選びだからこそ、すべての人々が主に従う者となる希望があると思う。 また、そのような選びだからこそ、クリスチャンは決して自分自身を誇ることはできない。そしてほめ称える対象は、主の御名となってくる。 今週も謙虚に主に感謝し、主を崇め、キリスト者としての歩みを続けよう。 アーメン “God Chose Us” Matthew 4:12-23 May the Lord, Jesus Christ, pour His grace and peace into this sanctuary! Amen. There are people who looked at many churches before choosing to come to a particular congregation. There are also people who studied many different religions before choosing to be a Christian. These situations are reality and I have no objections when people look into different faiths and choose one that fits their needs. However, even if many people feel that they chose their faith, is it really they who chose? Quite honestly, I am not quite clear if human beings may choose whom to follow religiously…because it seems to imply that humans know more than God. My understanding is even if you feel like you chose whom to follow, especially Jesus Christ, human beings did not choose first, but Jesus, the Lord, chose you and invited you to follow him. God did not choose you because you’re superior to other human beings, he chose you because he loves each one of us equally. His love is boundless and he chose you to receive it. I think because you’re at worship today, you chose to accept his invitation. In the beginning of today’s Gospel text, Matthew described that what prophet Isaiah said 600 years ago became reality by the appearance of Jesus Christ. According to Isaiah, in the beginning of Chapter 9, it reads, “The people who walked…

Tweet Calendar 2, 2014&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet LCR日本語部週報通算#1292号 (日本語)LCR日本語部週報通算#1292E号(英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週の詩編は先週と同じ40編を読むが、7節から18節を読む。最初は詩編作者の気持ちをできる限り想像して読んでみよう。 そして、次は自分の立場で、この詩編がどういう意味を持ってくるか考えてみよう。 また26日の日曜日に与えられている福音書箇所はマタイ4章からになるが、19日の日曜日に与えられていたヨハネ1章後半と似ており、ペトロ・アンデレ等が、イエスに従うものとなっていく様子が描かれている。 そのこととの関連の中で、この詩編を読むのも良いと思う。  詩編40編 7:あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。 8:そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。 9:わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み 10:大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。 11:恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。 12:主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。 13:悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。 14:主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。 15:わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き 16:わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。 17:あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/主をあがめよといつも歌いますように。 18:主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。 7節から12節は、先週も読んで、大好きな讃美歌21の402番の「世にある限り、主の恵みと慈しみを語り伝えん」が、この詩編40編と関係していることを書いた。 そして、今週13節以降を読んでいくと、ガラッと雰囲気が変わる。「恵み」「慈しみ」という言葉は出なくなってしまう。朗らかに讃美歌を歌っている場合ではない。1節には「ダビデの詩」となっていたので、ダビデの心境が、このような状況にあった時のことを詠っているのかとも思う。 また、詩編作者自身も、根深い問題の中に沈んでしまうような経験をしていたのかと想像する。 そして、自分の敵が恥を受け、主の側にある者が主をあがめ歌いますようにと詠う。 そして、詩編作者自身がいかに弱いものであるか、すぐに助けに来てくださいという懇願をもって、詩編40編は結ばれている。 詩編が詠われるようになって、2500年以上の時が流れていると思うが、現代においても、この世の人生、実は13節に描かれたような状況に陥っていることが多々あるのかと思う。 教会で多くの人々と会うなかで、”How are you?” と話しかけ、”Good.”という受け答えをしているなかでも、”How are you feeling?”とさらにもう一度聞きなおすならば、たいへんな問題をかかえておられる方もいる。 私自身も、会社勤めをしていて、電子医療機器の設計を担当していた時はいつも設計ミスがあったのではないか心配したし、臨床試験中に担当していた装置がたいへんな誤動作をしてしまった時と長男の出産がほぼ同じ時期に重なりどうしようもない気持ちに陥った。あるいは子会社のマネージメントを担当していた時も、売り上げ・経費の問題はいつも悩んでいたし、そして、教会の牧師としても、とくに教区の財務を担当している一人として、常に悩みながら日々過ぎていく。家族一人一人のことを思っても、常時心配事があり、自分の弱さを痛感することがしょっちゅうである。それゆえに、この詩編の最後、18節に詠われている言葉は心にしみる。この世の生活は、「主の助け」無しには考えられない。  聖書に描かれた最初の弟子たちのことを考えても、実は、皆、弱くて悩みを抱えており、立派だったとか、優れていたという者を、主が弟子として選ばれていたわけではない。 むしろ、おっちょこちょいのような者が弟子として遣わされているような面は否めない。だから神に従う者、主なるイエスに従う者は、決して自分で自分を誇れるような存在ではなく、主の助けをいただき、そして、なんとかこの世を歩んでいる。そして、主を崇め、賛美する者となっている。  アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 救い主に会いに行こう ヨハネ1:29-41 神の恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように、神の小羊、主イエス・キリストの御名によって! 本日の福音書箇所、「神の小羊」という言葉が二回出てきている。 なぜ洗礼者ヨハネはイエスのことを「神の小羊」と言うのだろうか? 英語ではLamb of Godで、Lamb of God Lutheran Church という教会もあったりする。 Lambと言われるとなんとなくぴんとくる方もいるのではないかと思う。羊肉のこと。羊の運命は、殺されて食べられてしまうもの。  殺されて食べられてしまう小羊、Lambとその血は、旧約聖書の中では、エジプトで400年奴隷生活を送ったイスラエルの民が、エジプトからイスラエルに戻ることができるようになることと密接に関係している。  出エジプト記12章にその記述があるが、小羊を屠って、羊を食べる家族の門の両側の柱に屠った羊の血を塗っておくことによって、竜巻のような強風がその家を過越し、守られ、その結果イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活から解放され、イスラエルへの旅路へと向かうことができる。  今日の福音書箇所の特に後半部分に注目していきたい。 ヨハネの二人の弟子が、「神の小羊」と言ったヨハネの言葉を聴き、そしてイエスに従っていく。  後ろからついてくる二人を見て、「何を求めているのか」と質問をするイエス。それに対して、二人の弟子は、どう答えてよいかわからなかったのか、あるいは好奇心からか、あるいは自分がこれからどこに行くか心配になったのか、「先生どこに泊まっているのですか?」という質問をする。 イエスは、「来なさい、そうすればわかる。」と言われ、二人の弟子はついて行き、その晩は、イエスの所に泊まる。二人の弟子のうちの一人はアンデレだった。アンデレは、後の弟子のリーダ、また、カトリック教会の土台といわれるシモンペトロの兄弟。  翌日は、アンデレは、自分の兄さんのペトロに会って、たった一晩イエスといっしょにいただけだったが、「私は油注がれた者、メサイア、救い主に会った。」と告白する。 そして、ペトロをイエスのところに連れていく。  この話、いったい、現代を生きる私たちに、神なるイエスは何を語っているのだろうか? わからないことばかり。 いったい泊まったところはどんなところだったのだろうか?  アンデレは何を持って、イエスはメサイアだと言い切れるのだろうか? アンデレといっしょにいた弟子はだれだったのか。 その弟子も、イエスはメサイアだということに納得したのだろうか?  ペトロはなぜアンデレの言うことを信じてイエスに会いに行ったのか。 それとも、信じられなかったけど、好奇心からメサイアに会いに行こうとしたのか。ペトロがどう思ったにしろ、はっきりしているのは、とにかく、アンデレはお兄さんのペトロをイエスのところへ連れていった。  実は、現代の教会で行われていることも、わからないことだらけのような面がある。しかし、人々は教会に来て、神秘的な神の働きを感じ、そのなかで、人々が人々を教会に連れてきて、そして、世界で20億人もの人々がキリスト教の信者になっているという事実がある。 それは、礼拝の中で、自分で自覚するかどうかにかかわらず、礼拝に集まる人々は、聖餐式において、救い主イエスに出会っている。 聖餐式の設定の言葉は、イエスキ・リストが語られた言葉をいろいろな言葉に訳して行われているが、その中で、 これは私の体である。 また、この杯は、私の血による新しい契約ということをイエスが語られ、そのイエスの体と血をいただくことで、私たちの罪が赦されるということをイエスは話してくださった。  私の長男が中学生の時の作文でも書いていたことがあったか、なんで、パン(ウェファー)がイエスキリストの体で、なんでぶどうジュースがイエス・キリストの血なのかわからない。 しかし、イエスがそう言われたからそうだとしか言いようが無い。  でも、エジプトからイスラエルの人々がLambの肉と血で解放されたように、イエスの体と血をいただいたとき、信仰によって、私たちが普段の生活で重荷に思っていることや、失敗したなと思うことなどの束縛から解放されるということが、礼拝の中で起こっている。 毎週の神の小羊との出会いを経験した私たちは、その意味やなぜそうなのかということはわからなくても、アンデレが感銘を受け、自分の兄に、救い主に会いに行こうと誘ったように、現代においても、よくわからなくても、友人たちを誘って、救い主イエスに会いに行くという事が起こっている。  “Let’s Go To See The Messiah” John 1:29-41 May Grace and Peace be poured into your hearts in the name of the Lamb of God, our savior and Lord! In the Gospel text I read a short time ago, the phrase “Lamb of God” appeared twice. Why did the Baptist John call Jesus the “Lamb of God”? We see “Lamb of God Lutheran Church.” Why is the church called the “Lamb of God”? What is a Lamb? A lamb is a four-legged, grass-eating, herd animal used for wool and meat, right? In order for lamb to be eaten and provide nutrition, it must be slaughtered. The lamb is a useful animal and a vivid Biblical symbol. The meat and blood of lamb is closely related to the story when Israelites were freed from Egyptian enslavement and journeyed back to the land of Israel. This is written in Exodus Chapter 12, God told Moses and Aaron that they should slaughter lamb and burn the meat to eat and put its blood on both poles of the gate where Israelites live, so that a tornado-like wind will pass over the Israelites’ houses. Then they can start to leave Egypt to journey back to Israel. Now, let’s put aside the story of the lamb and focus on the latter half of today’s Gospel text. The two disciples of John listened…

Tweet LCR日本語部週報通算#1091号 (日本語) 2014年1月19日の週報 LCR日本語部週報通算#1091E号 (英語) Sunday English Bulletin 1291E え Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 1月16 日 詩編を読もう:主の恵みを語り伝える (詩編40:1-12) 牧師:安達均 今週の詩編は40編の1節から12節。最初は詩編作者の気持ちをできる限り想像して読んでみよう。 そして、次は自分の立場で、この詩編がどういう意味を持ってくるか考えてみよう。 19日の日曜日に与えられている福音書箇所はヨハネの1章から、イエスの最初の弟子アンデレが自分の兄弟であるシモンペテロに「自分は救い主に会った」ことを伝え、そしてペテロをイエスのところに連れてくる場面である。その場面と、この詩編の兼ね合いについて思いを巡らせるのも良いと思う。 詩編40編 1:【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】 2:主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。 3:滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ 4:わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。 5:いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。 6:わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。 7:あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。 8:そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。 9:わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み 10:大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。 11:恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。 12:主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。 1節ダビデの詩とあるので、ダビデの生涯を思い浮かべるのも良いかと思う。 2節から4節の内容からして、ダビデがサウルから命を狙われ、絶対絶命とも思えるピンチに遭遇しても、主なる神がピンチから脱することができるようにしてくださったことに感謝し、主を讃え、また、畏れ敬うことを詠っているように思える。 5節から8節の内容からして、詩編作者は、主なる神によって再三起こる不思議な業について詠い、また数え切れない主の計らいを受けており、それを巻物に記録として残している事を述べている。 そして9節以降では、詩編作者自身が、受けた主の恵みを、徹底的に述べ伝え続けることを述べている。  この詩編、ある意味、私のことを詠っているような部分があると感じる。 4節には主の恵みを新しい歌にして詠うこと。 6節には主の御計らいを語り伝えていくことが書かれている。 8節には、記録に残していること、10節11節では、主の恵みについて唇を閉じることなく正しく伝え、語り続けることが詠われている。 私は、こどものころ、兄から「均は本当に話好きだ。」といわれたことがある。その傾向は今でも変わっていないようなところがあり、特に、神様からいかに恵みを授かっているかということとなると、話がしたくてしたくてしょうがないような面がある。 かといって、何時間も話すというわけではなく、節度を保ち、常識的な範囲内でありたいとは思っているが。  19日の日曜に与えられているヨハネ福音書1章の箇所は、ある意味、とても伝道的なところである。そして、この詩編40編もとても伝道的な面がある。 ヨハネ一章では、イエスに一度会っただけの体験ながら、アンデレはペテロに「メシアに出会った」ことを報告し、すぐにペトロをイエスのところに連れてきている。 40編では、主の恵みを繰り返し述べ伝えることを主に約束している詩編のようにも思える。  詩編40編は、大好きな讃美歌21の402番(讃美歌502番)の歌詞と深く関係している。その歌詞の繰り返しのところを以下に記述しておきたい。 世にある限り、 主のみ栄えと いつくしみを 語り伝えん アーメン 主の恵みを讃え、感謝して、自分だけではなく、多くの方々のことを救い主が一人一人大切に思ってくださっていることをひしひしと感じつつ。 安達 均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet “私の愛する子” マタイ 3:13-17 洗礼を受けられた主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに与えられますように! 皆さんの中で、洗礼を受けたために、自分ははっきりこう変わったという自覚を持っている方いるだろうか? 洗礼を受けたからといって自分では特に何か変わったという感覚を持たない方と持つ方がいると思う。あまり変わったと思われない方は、もし自分が洗礼を受けていなかったら、今の自分はどうなっていただろうか?という質問をしてみると良いと思う。 私は、もし洗礼を受けていなかったら、もちろんここに立っていなかったと思うし、妻とも結婚していなかったと思う。 すると子供たちも生まれてこなかったことになる。私たちの子供たちは3人とも、この復活ルーテル教会で17年前にいっしょに洗礼を受けたが、洗礼を受けて数週間してからとても面白い経験をした。 というのは、ゆき子の友人の母親が、彼女はクリスチャンではなかったが、「ゆきちゃんは、洗礼を受けたから全然違う。」と冗談ではなく、本気でそう語っておられた。聖霊の働きが、ゆき子だけではなく、その友人のお母様にまで働いているのを感じた。その家族は数年後に日本に帰ったが、お嬢さんはキリスト教の中学高校へと進学した。また、ゆき子が洗礼を受けた年に、日本語学校で担任をしていた先生が、今日、洗礼を受けたということも起こっている。    さて、今日の聖書の箇所、イエス・キリストの洗礼の場面である。 12月末にクリスマスを祝ったが、イエスの降誕のことを書いているのは、マタイ福音書とルカ福音書だけで、主イエス・キリストの洗礼の記述は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネすべての福音書にあり、とても私たちに意味があることだと思う。 そもそも、主イエス・キリストはなぜ洗礼を受けたのだろうか? 罪が赦されるのが洗礼ならば、罪のないキリストは洗礼を受ける必要が無かったように思う。その質問に対して、私は理論的に、 主イエス・キリストはこういう理由で、こうだから洗礼者ヨハネから洗礼を受けたというような説明はできない。 しかし、次のようなことは言えるのではないだろうか。。。 主イエス・キリストは、罪びとである私たち人類に対して、とてつもなく深い関係を持っておられるということ。 また、実際にイエスが洗礼を受けた後、短期的、中期的、また長期的に、何が起こったかということを見ることが大切だと思う。短期的には、聖霊が下って「これは私の愛する子」という言葉が聞こえてくる。それは、神がイエスを自分の愛する子として語られ、イエスの宣教が本格的にはじまり、イエスに追従する使徒たちが出現していく。 さらに、イエスが洗礼を受けたことは、直後に起こったことだけでなく、中期的というのが何年か明確ではないが、だいたい3年後の出来事、ペンテコステの出来事とも関係している。 イエスの洗礼のシーンとペンテコステでのシーンは似ており、ともに聖霊の働き。 そして、ペンテコステにおいて使徒たちが、伝道へと遣わされていく。  そして、2000年後の、私たちの洗礼とも密接に関係していると思う。同じ聖霊が私たち人間の上に働いて、実に不思議な働きをするということが言える。 イエスの洗礼の時に起こった事は、なかなか私たちには説明がつかない。 それと同じように、私たちの洗礼で起こっていることも、私の娘の話でわかるように説明がつかないようなことが起こる。 あるいは、何が起こっているのかよくわからないが、後から考えると、それが聖霊の働きだったのではないかというようなことがたくさん起こっている。  小教理問答書の中で、信仰告白についてマルチン・ルターは、その第三項、「私たちは聖霊を信じます。。。。」ということについて、それはどういう意味なのかを質問している。  その答として、とてもパワフルな言葉が書かれていると思う。それは、「私たちは、キリストというお方を、自分の知性とか能力によって信じれるようになることではない。しかし、聖霊は福音を通して、わたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。」 主イエスが洗礼を受けて、聖霊が強力に働いた。 そして主イエスが聖霊とともに宣教活動がはじまった。またペンテコステにおいて、使徒たちが宣教に遣わされるようになった。そして、私たちの洗礼において、強い聖霊が働き、とてつもない聖霊の助け、恵みをいただきながら、私たちが、なんらかの形で世の中に派遣されるということが毎週起こっている。洗礼後に賜る想像を絶するような恵み、助けに感謝し、その恵みを生かして今週も主を賛美して世に仕える日々を送ろう。 アーメン “My Dearly Loved Child” Matthew 3:13-17 May God’s Grace and Peace be with you in the name of our baptized Lord, Jesus Christ! Do you truly feel changed since you were baptized? I think there are people who strongly feel that their lives have been transformed after baptism. However, there are also many people who do not feel that way. For those of you, who did not feel changed, it might be good to ask a question, if you were not baptized, how would your life be now? In my case, my baptism occurred when I was very young, I still remember that I was baptized in a Russian Orthodox Church, but I did not feel transformed at all at the time. However, when I ask the question, if I was not baptized, obviously I would not be where I am now. My life would be a quite different. I do not think I would’ve married my wife…and all of our children would not have been born. All of our children were baptized at the same time at Resurrection Lutheran Church at the age of 10, 8, and 6. We had a very interesting experience right after their baptisms. My daughter was playing at one of her Japanese friend’s house. The mother of that friend said seriously “Yuki is so different since her baptism.” Although she was not baptized and did not know about Christianity well, she was…