Archive for April, 2014

Tweet 2014年4月27日LCR日本語部週報通算第1304号 2014年4月27日の週報 April 27, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin, Second Sunday of Easter Sunday English Bulletin 1304E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ヨハネ20:19-31 牧師 安達均 傷ついたまま復活した主イエスの恵みと赦しが集まった会衆の心の中に豊かに染み渡りますように。 みなさん、なんらかの怪我をして、体に傷を負った経験はあるのではないだろうか? また、体の傷ではなく、心の傷を負うという経験もされた方は多いと思う。 あるいは、逆にだれかに怪我をさせてしまったとか、あるいは、心の傷を負わせてしまったという経験もみなさんあるのではないだろうか? アメージンググレースは多くの方が大好きという讃美歌だが、その歌詞に自分の心が痛むという方もいる。その方は目が見えない方だが、英語の歌詞に「わたしはかって盲人だったが今は見える。」というくだりがある。それは比喩だが、本当に目の見えない方にとって、そのような比喩が使われることに、心の傷が癒されずにいるようだ。今日のメッセージ、傷について、さらに考え、傷を受けることがどういう意味をもってくるか考えてみたい。 今日の聖書箇所、主イエスが復活された当日の夕方、部屋に閉じこもっていた弟子たちに、イエスが顕われる。 弟子たちは、恐くてしょうがなかった。イエスの弟子という理由で自分たちも十字架刑に会うのではないかという不安もあったし、痛々しいイエスの十字架刑を一切阻止できなかったという面では、弟子たちも心に深い傷を負っていた。 それゆえ、死んで葬られたイエスに謝まりたいという気持ちもあったと思う。そこにイエス当人が現れ、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と言われ、両手のひらとわき腹の傷を見せる。  傷は、弟子たちを非難するのではなく、傷が残っていることを見せて、イエスだとわかる証明であると同時に、復活したイエスから弟子たちへの赦しの表現だった。 しかし、弟子の一人トマスはその場にはいなかった。 そして、弟子たちが、イエスが現れた話をしても、イエスが復活したことは信じられないと言い出す。両手の傷やわき腹の傷の、釘の穴に自分の指を入れないかぎり、信じられないとまでいう。  1週間後、今度はトマスもいる時に、イエスはまた弟子たちに顕われてくださる。 そして、1週間前と同じように、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われる。 イエスは痛々しい傷を見せたことだろう。そしてそれに反応して、トマスは、イエスが主なる神であることを信じる。イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉を残される。 与えられた福音書の最後に書いてあるように、このストーリは後世の人類が、たとえイエスの傷を見なくても、イエスが神の子であり救い主であることを信じるようになるためである。 もちろん、神の子であり救い主であるイエスを信じることは重要だ。しかし、今日の話の中で、イエスが私たちの日常生活に関係することで、とても重要なことを教えてくださっているように思う。 イエスが傷を負われた、肉体的な傷はもちろんだが、宣教の間もユダヤの指導者たちから非難され、心の傷も負っていたのかと思う。そして、傷を負うことは、決して悪いことではないんですよ、と言われているように思う。 パウロはコリント人への第二の手紙の中で、「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 」と書いている。 パウロが「とげ」と表現すると、パウロの言葉は結構きつく、パウロと関係した人々がパウロの言葉に傷を受けたことがあったとも考えられる。 しかし、ここでは、パウロ自身には、さまざまな攻撃もあり牢獄にも入り、それは心も体も多くの傷を負ったことが想像される。 つまり、とげは外側にも内側にも向いていたのだと思う。 このことに関して、カトリックのシスターで、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんは、今月号の婦人の友に記事を載せていたが、「傷つけられることによって、自分の弱さに気づき、他人を傷つけていたかも知れない自分を反省する良い機会を得られることもあるのです。」と言われる。 皆様方も、毎日の生活の中で、家庭内での口論にしろ、友人関係にしろ、思わぬ傷を負うことがあると思う。 その傷には、自分をなにか良きに働くこともあることを認識したい。 傷跡を残したまま復活されたイエスを信じることは、「傷だらけの十字架の死さえ、イエスと神の関係が終わらなかったように、わたしたちの人生においても、どんな失敗をするなりして傷を負っていようが、イエスとの関係が終わることがない。」と確信することだと思う。そして、私たちも傷跡を残しながらも、傷を残したまま復活された主イエスを心に覚え、喜んで日々の生活を送りたい。 アーメン  “Rejoice…in spite of His Scars!” John 20:19-31 Pr. H. Adachi May the Grace and forgiveness of our Lord be poured into your hearts in the name of Jesus Christ! Do you have scars? You may not have physical scars but you might have emotional scars that are not visible to other people. Or you might have accidently, figuratively scarred someone else through your actions. As for physical scars, when I was in third grade, I accidently hit my friend’s head while I was playing ping pong and hurt him. Physical scars are usually obvious but emotional scars are not readily visible. Sometimes, we don’t realize how hurtful our words can be. Hurtful words often cut deeper than a knife. Many of you know and like “Amazing Grace,” correct? There is the lyric “was blind, but now I see.” Although it is a metaphor and I do not think my opinion is applicable to all visually-impaired people, for some totally blind people, this phrase is hurtful and may leave emotional scars. In today’s message, let’s think about our scars and what they mean in our lives. Today’s Gospel text still begins with the scene on the day Jesus resurrected. The disciples were together, in a home, with the door locked because they feared being discovered by the Jewish leaders. Despite their secrecy and the locked door, Jesus appeared among His disciples. The disciples were fearful, because the…

Tweet 復活祭は日曜に終わった。しかし、キリスト教の暦では、復活節は7週間続く。復活節の最初の週に、詩編114編を読む。とても短いので、最低三回は読んでみよう。そしていつものように、一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編114編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編 114編 1: イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り 2:ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。 3:海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。 4:山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。 5:どうしたのか、海よ、逃げ去るとは/ヨルダンの流れよ、退くとは 6:山々よ、雄羊のように/丘よ、群れの羊のように踊るとは。 7:地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に/ヤコブの神の御前に 8:岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「イスラエルはエジプトを(出る)」という言葉がキーワードに思える。この詩編の中でも大きなきっかけが「出エジプト」という出来事だが、出エジプトは、すべてのイスラエルの民にとって、最大の出来事であり、またこの出来事は、人類全体にとっての最大の出来事、イエスキリストの復活と直接関係してきているようにも思える。この復活については、また後述したい。  詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、1節から4節は、歴史的事実を詠っている。 1節で、イスラエルの民が奴隷であったエジプトの地を離れるということは、ヤコブの子孫たち12部族が、ヘブル語ではない言語が標準語であるエジプトの民のもとを去ること。2節は「ユダは神の聖なるもの(となる)」と詠い、さらに「イスラエルは神が治められるものとなった。」と詠っているが、ユダとは十二部族のなかで、後にユダ国(南王国)となるユダ族とベニアミン族のことを指しているのではないだろうか。そして、2節で使ったイスラエルという言葉は、他の10部族で後にイスラエル国(北王国)となる、つまり、ルベン、シメオン、エフライム、マナセ、イッサカル、セブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル族のことを指しているように思える。ちなみに、このイスラエル国(北王国)はのちに、滅亡してしまうことになるが、その滅亡という言葉は使わずに、「神が治められるものとなる。」という言葉で詠っているように感じる。 そして、3節4節で、出エジプト後どのようなことが起こったかを振り返っている。「海は見て、逃げ去った。」は民が紅海を渡るときに、海の水がせきとめられて、海の底を歩いて渡ることができたこと。(出エジプト記14章)「ヨルダンの流れは退いた。」は出エジプト後、約40年の歳月を経たのち、カナンの地への定住前に、ヨルダン川を渡るときに、今度は川の水がせきとめられて、川の底を歩いて渡ることができたこと。(ヨシュア記3章)そして「山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。」とは、モーセがシナイ山に入り、神の言葉を預かったのち、山を降りてきて、民に会う前、山全体が激しく震えた(出エジプト19章18節)の時のことを詠っているように思える。 そして5節6節では、それらの出来事を自問自答すると共に、礼拝などで、この詩編を詠うものたち自らが、このような質問を自分自身ですることで、神の偉大さに気づかされるようになるのかと思う。 7節8節では、その神の偉大さにお任せするしかない民の現実を詠っているような詩編なのだと思う。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 特に日曜日に復活祭を祝ったのちに、この114編を読んでいることは神からの大きな語りかけがあるように感じる。 紀元前1200年ごろ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、奴隷時代を終え、エジプトから脱出した。 出エジプトは確かに起こった。しかし、まちかまえていたのは、どうやって紅海やヨルダン川を渡るかにしろ、あるいは信仰心は薄れ、内部分裂のような問題が起こるにしろ、さまざまな困難が迫ってきていた。 私たちの現代の人生の歩み、あるいは、人類全体の歩みを見ても、イエスキリストの復活は2000年前に起こった、あるいは、イエスの復活祭を日曜に祝ったといっても、私たちは多くの困難をかかえながら個人個人が人生を歩み、人類全体もたいへんな困難を前にして生きている。たとえば、原子力の問題を取り上げてみても、ある意味、現代の人類が手に負えないような問題を抱え込んでいるように感じる。 だからこそ、その困難の中に、生きておられる主なるイエスへの祈り、賛美、そして、御言葉を聴く中で、新たな道が開かれることを確信して、歩む人類でありたい。 アーメン 安達 均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイ28:1-10 牧師 安達均 主の恵みと平安が豊かに与えられるように! 何か今の人生、恐いと思っておられることがあるのでは?自分の仕事の問題。自分あるいは家族の病。 あるいは子供の教育問題やら、子供の仕事の問題。 自分自身の老後。人間関係? 韓国の沈没船。 そのような問題から離れ、ここで礼拝の機会が与えられていること、恵みで感謝である。 この礼拝は、日頃の問題から離れ、神の言葉を聴き、神に祈り、そして神と会う時。 最高の恵み。 20年以上前だが、あるキリスト者の友人は、礼拝は最高の時。しかし、その友人の考え方は、礼拝が終わるとまた、神のことを忘れ、現実問題と戦うことになり、月曜から苦しい、また不安の人生。そして、日曜にはまた、救いの時だと言う。  彼がシェアしてくれた事は、日曜は平日とか土曜から独立した存在だということだった。私は特にそのことについて議論もせず彼の意見を聞いていたが、なぜかその言葉が忘れられない。今年の復活礼拝で与えられている御言葉が、ぜひ、月曜以降の普段の生活の中に、たとえそれが苦しいと思う生活であっても、そこに豊かな喜びを与えてくれるように祈る。 イースターの朝与えられた福音書箇所、マタイ28章1-10節。 イエス復活の日曜の朝の墓の前での光景。 登場人物は、二人のマリア、番兵たち、天使、イエスキリスト。 登場はしてこないが他の女性たち、弟子たちの話題も、以下の話しに加えたいと思う。 二人のマリアや、他の女性たち、弟子たちの気持ちを想像するに、恐くて恐くてしょうがない。 金曜には、いままで3年間、この方こそ主であると思って従ってきた、イエスが十字架にかけられ、死にて葬られてしまった。 弟子たちは、イエスキリストが十字架に架けられることを全然阻止できなかった。阻止できないどころか、ペテロは、こんな人は知らないといい、弟子たちもみな、逃げていってしまった。 マリアたちは、イエスが殴られ、侮辱されたあげくに、十字架にて死ぬという恐ろしい光景を見ていることしかできなかった。そして土曜は、リーダを失った悲しみとか、失望感だけでなく、なにもできなかった恥を感じ、さらに、キリストの弟子や協力者だった自分たちも、ユダヤのリーダから、抹殺されるのではないかという恐れも多いにあった。 そのような状況であっても、マリアたちは、とにかく墓に来てみた。マタイはその理由を明確に書いていないが、金曜の夜はイエスにちゃんとしたお別れもできていなかったので、恐いながらも、イエスの遺体に会い、ユダヤのしきたりだった死者に香油をぬるということをしたいと思ったのではないだろうか。というのは、金曜のイエスの死後、日没までには十分な時間がなかったから。 二人のマリアが墓に到着した時、天使が顕われる。マタイは奇跡的な状況を描写している。地震が起こるなかで、天使が顕われ、墓をふさいでいた石をどける。 番兵たちは恐くて、気を失う。天使は、マリアたちも恐がっていることをよく察知していて、「恐がることを止めるように。」と言う。そして、十字架で死んだイエスを探しているのだろうが、イエスが以前言われていた通り、復活された、と言われる。彼女たちは、墓にもう遺体が無いことを知り、そして、天使は、ガリラヤに行くように恐がっている弟子たちに告げなさい、と言う。 しかし、恐がるなと言われても、恐さは消えなかったのだろう。 こんどは、イエスが登場してくださる。 そして、イエスの言葉は「おはよう。」 日本語には「おはよう」と訳されたこの言葉、マタイはギリシャ語で、「喜べ。」という言葉を使ってイエスの挨拶を表している。 そして、マリアたちは、恐くて、興奮状態であったために、天使に言われたことがちゃんとわかったいたのかどうかもわからない。 イエスは、天使が語ったことと同じ言葉を繰り返す。「恐がることはやめるように。 イエスの兄弟たち(弟子たち)にガリラヤに行くように。そこで再会しよう。」 今年の復活祭に与えられた、御言葉から、なにを思われているだろうか。 とかく、「恐がることを止めなさい。」そして、「喜べ」という言葉が際立って聞こえてくる。 「恐がることはない。」と聖書に書かれているが、恐がることを止めるということ。それは、恐がる原因となっていることを、忘れたり、取り除くようにとういうことではない。 ただ、現実を直視するなかでも、恐がることは止めるようにと言われているように思われる。 なぜ、そんなことができるのか。病が治ったわけでも、経済的な問題が解決するわけでも、あるいは、子供の教育問題が一切無くなったというわけでもない。しかし、その現実を見るなかに、そこに、私たちのためにご自身をも捧げてくださるイエスが、私たちの中に、霊的に存在してくださるという確信の中で、喜ぶことが大切なのだと思う。 イエスは、死をもって、死を滅ぼされる主なる王。そのような、復活のイエスがあなたの人生をいっしょに歩いてくださる。 この世だけではなく、この世の死後の世界をも、主なるイエスとともに歩める確信。 この礼拝は、あと20分後には終わる。しかし、礼拝が終わり、日曜が終わり、明日からの月曜日、どんな苦労が待ち構えていようが、そこに主がいっしょにいてくださる確信を得て、新しい復活節のとき、恐がることなく、現実問題を直視し、そこに主がいっしょにいてくださることを確信し喜んで生きていこう。 アーメン “Do Not Be Afraid! Rejoice!” Matthew 28:1-10 Pr. H. Adachi During this Holy Easter Service, may God’s grace and peace be with everybody in this sanctuary and with all His creations throughout this world! Do you have any uncertainty/anxiety about your life’s journey? Are they fears about your job, about your family member’s illness, your children’s education, your own retirement, or relationships with friends and loved ones? Whatever your fears or current situations are, in this sanctuary, you may get away from your problems and focus on your relationship with our Lord, Jesus Christ. This is the time to listen to, talk with, and pray to our Lord and Savior. This is the time we receive great mercy, peace, and time away from our human issues. Although it was over 20 years ago, I still recall one of my Christian friend’s thoughts about Sunday worship: Worship time is great but once worship is over and once Sunday ends, he would contend with all the human issues in his life and struggle with many challenges during the week. What he shared with me was that Sundays are independent from other weekdays and Saturdays. I did not argue with him and I just listened to his thoughts at that time. However, for some reason, I have not forgotten what he said and I pray today that the words you hear on this Easter Sunday you will listen to…

Tweet 2014年4月20日LCR日本語部週報通算第1303号 本日の礼拝で、3名の方が洗礼を受けられました。復活祭の礼拝でともに洗礼の恵みに与る事ができた幸いを感謝いたします。 2014年4月20日復活祭の週報 April 20, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin Easter Sunday English Bulletin 1303E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2014年4月20日LCR日本語部週報通算第1303号 本日の礼拝では3名の方が洗礼に与りました。復活祭の礼拝で、共に洗礼の喜びを祝う事ができた幸いを心から感謝いたします。 2014年4月20日復活祭の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 聖週間、Holy Week、を迎えている。今年の4月17日は、聖木曜日、洗足の木曜日、Maundy Thursday等の呼び方があるが、復活祭前の特別な木曜日にあたる。キリスト教では、この聖木曜日からの三日間を特に尊重して、特別な典礼や礼拝が行なわれてきた。今週は詩編116編1-2節および12-19節を読むが、イエスが十字架に架かる前の日を覚えるにあたってふさわしい箇所だと思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編116編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編116編 1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 12:主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。 13:救いの杯を上げて主の御名を呼び 14:満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。 15:主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。 16:どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。 17:あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び 18:主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で 19:主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」 という言葉。 116編全体からわかることは、詩編作者はあきらかに晩年を迎えている。病なのか老衰なのか死を前にしていても、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」と詠い、主の名呼んで、祈り、主との関係を続ける姿勢に、死を前にした詩編作者から見習うことは大きい。そして、どんな人生の途上にあろうが、主にある大きな希望を頂ける。  詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、死を直前にして、会衆に祈りの大切さを教え、また、最高の捧げ物を神殿に奉献しようとしている詩編作者の様子が浮かんでくる。 12節では、詩編作者の生きてきた道のりで、いかに主が報いてきてくださったか、そしてその報いにどう答えようかと詠う。日本語の「報い」という言葉は微妙だが、英語(New Revised Standard Version)の詩編では 報いのところは、“bounty”という言葉が使われていて、いかに主が、恵み、賜物を与えてくださってきたかという意味になっている。13-14節では、神殿に集まる多くの民の前で、主が救ってくださったことを覚え杯を上げ、賛美し、満願の捧げ物を奉献することにしようと詠う。15節では、主に祈って、主との関係を保ち、主の慈しみに生きる人生はどんなにすばらしいか、そして死は主の目にどんなに大切なことかと、教えるように詠っている。16節には、「縄目」という言葉が出てくるが、死に際して、なにかの痛みを感じていたのかとも思われる。要は、どんな人生においても、さまざまな束縛を経験するのが実際で、そのような縛りから解放されるように主に祈ろう。そして、詩編作者自身も、その母親も主に仕える信仰者であることを主に呼びかけて、束縛から解放されるように祈ろうと詠う。 17-18節は、ほとんど13-14節の繰り返しだが、17節では、「感謝の捧げ物をささげよう」という言葉が13節の「救いの杯を上げて」という言葉に代わって詠われている。詩の後半に来て、より「捧げる」という気持ちが強くなってきているように思う。 そして、19節では、「主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」と詠うが、場所はエルサレムの神殿に多くの会衆が集まっているところを想像しつつ、詩編作者の思いを詠う詩が終わる。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるのだろうか? この詩編、聖金曜日にイエスキリストが十字架に架かるという時を思いながら読む時、「主の家の庭で、エルサレムのただ中で」という場所が、イエスが十字架に架かった、ゴルゴタの丘に一変してくるように感じる。 そして、最高の捧げ物は、イエスご自身に思えてくる。 私たちの罪、至らなさゆえに、主イエスキリストが自ら捧げ物になってくださっていた事実を新たに思い起こさせる詩編116編だと思う。そこまで私個人も、私たち人類全体を愛してくださっている、主なる神、イエスキリスト、十字架に架かられたイエスを見上げるとき、私たち人類はどうそれに応えるかを、神がわたしたちに問いかけておられるように思う。今年の聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日・復活祭が、お一人お一人にとって大きな意味を持って来ますように。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイ27:11-54 安達均 主イエスキリストより、主の恵みが一人一人に与えられ、そして、あなたに造られているわたしたち人間に平安がもたらされますように! 十字架はキリスト教の象徴と言って良い。私たちは、この十字架上で死に三日後に復活したイエスを信じている。それにしても、なぜ、主なる神は、十字架で死んでしまうのだろうか?  神なのだから、十字架にかけられても、たくさんのハトを天から舞い降りて来させ、釘を全部とりさって、自らは十字架から逃れることはできなかったのだろうか?  もし、そのようなことがおきても、人はイエスが神だと信じて、宗教としてのキリスト教が起こったのではないだろうか? また十字架から逃れたイエスということで、十字架がキリスト教の象徴になったのではないだろうか? なぜ、キリストは十字架上で死に墓に葬られるまで及ばなければならなかったのだろうか? もちろん、その後に復活があるからという話もあると思うが、もう少し、十字架に架かった時の状況をよく今日の聖書箇所から考えてみたい。 イエスは他の二人の罪人とともに、三つの十字架が立つなかの、真ん中の十字架に架かっている。 そして、実は、私が質問した事は、今日の聖書箇所にも書かれている。 それも二回も。  一つ目は、そこを通りかかった人々が、40節で、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 十字架から降りて来い。  また、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒になって、イエスを侮辱して、42節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」 その場面で、イエスは神であるから、言われた通りに、奇跡を起こして十字架から降りて来ることはできただろう。 しかし、なぜ、そうしなかったのだろうか?  結論を先に言ってしまうと、そこには、自分だけを救うという誘惑に陥ることになるのだと思う。いや、となりの罪人たちも含めて、奇跡を起こせば、自分だけではなくなるじゃないかと言われるかもしれないが、3人だけ救えばよいということでもない。 イエスの宣教開始前に、イエスが悪魔からの40日間の誘惑を受けていたときのことを覚えておられるだろうか? その時、イエスは神殿の屋根の端につれて行かれて、「神の子だったら、飛び降りたらどうか。天使たちがあなたを支えるだろう。」と悪魔に言われる。 そこには、自分の身を守るということは、決して悪いことではないが、イエスの置かれた状況のなかに悪魔の誘惑があって、神の意思から離れたことに従ってしまうことになってしまう。 神の意思から離れてしまうということが、とても問題なのだ。  結局、イエスは十字架上で死んでしまう。しかし、51節後半-53節には、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」という描写がある。  これは、マタイ福音書だけにある記述で、聖書にこんなことが書いてあったのかと思う方もいるかもしれない。 このマタイの記事は、イエスの救いは決して、イエス自身の救いではなく、すでに死んでいた者たちも含めて、すべての人間に与えられている救い。 今日のマタイが伝えた箇所から私たちは何を学んでいるのだろうか。イエスを信じるということは、イエスだけが復活するということではない。あるいは、イエスを信じている自分だけが復活の人生を歩めるというわけではない。 イエスのことを何も知らずに、墓に葬られた人々にも永遠の命を与えなおしてくださるような面がある。とくに、先祖はキリスト教ではなかったけど、自分が初代のクリスチャンという方にも、たいへんな福音だと思う。また、イエスは、キリストの体である教会を侮辱してののしっていたような人の救いをも覚えて、イエスは十字架に架かられ死なれた。それは決して、イエスを信じずに、また教会を侮辱して生きていけばよいのだということではない。 むしろ、その十字架の事実を認識した時に、私たち人間はどのように生きていくかの問題。  キリスト者の信仰、それは神が与えてくださる信仰で、次のように言うこともできる。イエスキリストとつながる信仰は、神の創造されたすべての人々とも、時代を超えてつながることになる。イエスキリストを信じ、自分のできる範囲で主に仕えるだけで、あとは、主なるキリストがすべての人々へ仕えてくださっているともいえる。キリスト者となることのすばらしさを覚えると同時に、ぜひ、この良き知らせはさらに多くの人々と分ち合おう。アーメン “Love God and Love Your Neighbors” Matthew 27:11-54 Pr. Hitoshi Adachi Lord, may Jesus Christ’s Grace pour into our hearts and bring peace amongst all your people! The Cross is a widely-known symbol of Christianity. We believe Jesus Christ died on the Cross and that on the third day He was resurrected. But, why did Jesus die on the Cross? Since he is God, even if he was crucified, he could’ve asked many doves to come and take the nails out…and thousands of doves could’ve carried him safely down to the ground, correct? It is may seem farfetched to modern ears, but He could have saved himself if he so chose. If that did happen, would the Cross still be the symbol of Christianity? Would Christianity exist as major religion? Why did he need to die and be buried in the tomb? Of course he was resurrected on the third day, but today, let’s read closely about what people said when he was crucified and let’s think about the situation when he was on the Cross. Jesus was crucified together with two other criminals. There were three crosses. Jesus was crucified in the center between the two other criminals. What I’ve wondered aloud a short time ago is written in the Scriptures, not only once but twice. The first one instance was: Those who passed by said in verse 40, “You who would destroy the temple…

Tweet 2014年4月13日LCR日本語部週報通算第1302号 今週は聖週間です。LCRでは聖木曜日のスープランチョンと礼拝があり、礼拝後は皆で卵の色染めをします。土曜日は午後7時15分よりEaster Vigil が行われます。LCRでは初めての試みです。是非多くの方が参加されますように。 2014年4月13日週報 April 13, 2014 Palm Sunday LCR Japanese Ministry Bulletin Sunday English Bulletin 1302E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 四旬節も終盤で、13日からは四旬節の最終週、「聖週間(あるいは受難週とも呼ぶ)」英語では、”Holy Week”に入る。私自身、教区の仕事も担当する中で、一昨日はOrange Coast Memorial、Fountain Valley Regional、そしてSaddleback Hospitalと、三つの病院にそれぞれ入院された3人の兄弟姉妹を訪問した。イエスが十字架に架かられる週を前に、肉体的にも精神的にも厳しい状況にある兄弟姉妹とともに、私自身も厳しい境遇に置かれていることも覚える。そのような境遇で、今週は詩編36編を読む。聖週間を迎える時にあって、ふさわしい詩編が与えられていると思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編143編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編36編 1: 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】 2:神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。 3:自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。 4:彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。 5:床の上でも悪事を謀り/常にその身を不正な道に置き/悪を退けようとしない。 6:主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 7:恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。 8:神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 9:あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 10:命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。 11:あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。 12:神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。 13:悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。 どんなことに思いを巡らせておられるだろうか? 私にとって気になる言葉としては、7節にある、「あなたは人をも獣をも救われる。」と書いてあり、ひときわ目立つ言葉に見えてくる。この件については、後述したい。 詩編作者の立場を思い、この詩編を読み返すとき、はっきりとした段落が三つあって、それぞれの段落は以下のようなことが要点かと思う。2節から5節は、詩編作者にとって神に逆らうような悪しき者について、これでもかとばかりに、きつい言葉を並べている。「神に逆らう-罪-神を恐れはない-自分を偽り-自分の悪を認めない-悪事-欺き-善を行わない-床の上でも悪事を謀り-身を不正な道に置き/悪を退けない。」 6節以降、10節まではガラリと様相が変わり、美しい主の賛美となる。あまりにも輝かしく、そのままの言葉で再度書きたい。「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 、あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」 そして、11節から13節では、悪しき者と主に従う者についてそれぞれ主への願いが詠われている。 この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるか、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。 この詩編は、一見、神に背くような悪しき者の滅亡と主に従う者への祝福が詠われているような気もする。しかし、本当にそうなのだろうか? 冒頭にも書いた「人をも獣をも救われる」という言葉が輝いており、私の頭の中に響き続けている。 私たち人間は、神に背いて生活している人々と、神に従順な人々とに分けるようなことはできないと思う。 いやむしろ、全員が神を忘れ、背いて生きてしまう要素がある。 しかし、主なる神は、人をも獣をも救われると、この詩編作者が詠ったように、人間の中にある獣的な要素も含めて救ってくださるように感じる。 人間の自分勝手な思いがあるにもかかわらず、主なる神は、神ご自身が創造されたものすべてを救おうとなさっている。 主イエスが、私たちの罪のゆえに十字架に架かって、すべての民を救われたということは、私たちの認識している罪、あるいは自分では罪だなんて思っていない罪も含めて、十字架に磔(はりつけ)となり、私たちをしっかり神の方に向く者へと生まれ変えさせてくださっている。それは一年に一回イースターの時に起こるのではなく、毎週金曜から日曜の週末に起こっているのだろう。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]