Archive for June, 2012

Tweet July 2012 Calendar Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1217  (日本語) 2012 7 1W 週報通算#1217E   (英語) Sunday English Bulletin 1217E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1216 (日本語) 2012 6 24W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マルコによる福音書4:26-34節 「私たちの信仰とは?」“What Is Our Faith?” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから平安と祝福があなた方の上にありますよう。アーメン。3ヶ月それはテキサスの暑い夏でした。しかし暑いというのも日本の湿気のある暑さと違い、湿度5%のからからの暑さ。その時毎日新しくできつつあるGrand Prairie とArlington と言うダラスの郊外の新興住宅を一件、一件、これから始まる新しい教会の案内状を持ってドア・ノックをしました。私の仕事はその新しいCommunityで新しい教会を建てることで、その為には人を集めることでした。毎日100件ほどの新しい家を訪れ、「どこかの教会に行ってますか?もしここで新しい教会を探しているなら、私はこの秋を目指してここにルーテル教会を開きますのでおいでください」と招待をしたのです。 しかしこの夏は30年ぶりの華氏でいう100度以上の日、摂氏はで40度を超えた日が40日続いた夏で、北テキサスでの農業は痛手を蒙ったのです。雨がないので草が育たない、とうもろこしも、ほかの穀物もみんな枯れ、倒産した農家、牧場主が続出したのです。私も生まれて始めて日射病にかかり、不思議なことに目で見えるものが皆白黒でしか見えなくなり、病院に担ぎ込まれました。   真剣にどこの教会も毎週神様に雨を降らせてくださいとのお祈りの時を持ったのです。ある教会で牧師さんが信徒の人たちにこうお願いしました。「今は祈ることしかない。みんなが一緒に祈れば、神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださる。さあ家に帰って一生懸命祈りなさい。そして来週の日曜日は神様が雨を降らせてくださったことで感謝の祈りを捧げましょう」と。さて次の日曜日が来て皆が礼拝に集まった時、牧師さんはこう言いました。「ああ、信仰の薄い者よ。何故あなたたちは雨が降ると信じなかったのか」と。信徒の人たちは声をそろえて言いました。「私たちは祈りました。今でも雨が降ると信じています」。「本当ですか?」と牧師さん。「もし雨が降ると信じているなら今ここに誰も傘を持ってきていないのは何故でしょう」。 さて、今日の福音書の言葉は私たちの神様への信仰と信頼とはどのようなものであるか、またイエス様は神様の国とそれを見ることも、完全に理解することも今まだできない私たちの信仰が どのように成長するかを語っているのです。イエス様はお百姓さんがなすべきことのお話をしているのです。お百姓さんは種をもう耕してある土の中に埋めるのです。これらの種がどのように成長するかは考えるかもしれませんが、それについては神様にお任せし、自然現象として種から芽が出、茎が伸びるようになります。そして葉っぱが出てきて、最後には花が咲き、そこに実を結ぶことを信じるのです。刈り取りの日が来るのです。福音書に出てくる、「寝起きしているうちに」と言う意味はお百姓さんが蒔いた種に何一つしなくても神様によって時間が立てば収穫の時が来ることを信じているのです。 お百姓さんが、どんなに心配しても種が育ち、収穫の時が来る時まで辛抱強く待つ事しかできないのです。自然に任せると言うことは私たちにとって難しいのですが、同じように、いつも神様を信じなさいと言うことも、クリスチャンになったからと言ってなかなか難しいのです。神様、こうしてください、ああしてくださいと言ってしまうのが私たちではないでしょうか? 神の国は神様に依って来ます。わたしたちは神の国を自分たちで作ることはできません。しかし、私たちは神様が私たちの心の中に、神様の国、神様の平安、神様の愛の社会の種をまいてくださっているのです。私たちがなすべきことは言葉と行いによって神様に忠実に生きてゆくことです。宇宙を司どる方、またその神様が私たちの目では見えなくても、私たちが神様って本当にいるんでしょうかと疑問を持つ時にも、神様は私たちから離れ去ることはないと信じてください。神様は私たちを見放すことはなさいません。私たちの信仰は、神様からの一方的な私たちへの愛に基づいているのです。神様は私たちから、離れることがない、見放すことはないと言うことです。 では東日本で昨年起こった地震、津波、原子力発電所の事故で家族、家、財産を一瞬にして奪われた人たちは、何か悪い事をしたからですか? いやそうではありません。では何故ですか?以前この復活ルーテル教会で、日本福音ルーテル教会から宣教師として働いていた伊藤先生が、仙台で日本福音ルーテル教会を代表してこの災難を経験された人たちを定期的に訪れ、被害者に同じ人間としての悲しみと苦しみを分かち合っていた時、同じく日本に帰られていたJune吉成さんと共に伊藤先生を仙台訪ね、先生の運転する車で被害地を回りました。これは後で吉成さんが語ってくれたことですが、一番感動したのはある中年の女性の心の持ち方です。その方は大川小学校という半数以上の生徒の命が失われた小学校の近くに住んでいる方で、彼女の家も流されました。家族の人も津波に飲み込まれました。すべてのものが瞬間的に彼女から取り去られたのです。彼女はしかし助かったのです。どうして私だけが、このように命を奪われなかったのかと何回も何回も思ったでしょう。 この人がすごいなあと思ったのは、彼女は同じ災害にあった人の世話をする仕事を始めたのです。毎日、毎日、同じようにすべてを奪われたおじいちゃん、おばあちゃんの面倒、書類の作成、仮設に入っていた人たちの世話をしていたのです。今でもしているでしょう。私たちとの会話の中で、この女性は一言も愚痴をこぼさなかった。自分がこの災害にあってどんな苦しい時を持ったのは確かです。しかしそれを乗り越えて、それ以上に悲しみに中でひとりで立ち上がることのできないお年よりたちの世話をしているのです。災害地を回って4階建てのコンクリートのビルが倒れていた、ずいぶん内陸の所にあった3階立てのビルの上に観光バスがぽつんと乗っかっていた。すごい数のトンビが川の乾いたところでで何かを口ばしでつついて探している、そのような場面も忘れられませんが、すべてを失った、独りぼっちになったこの女性がほかの被害者の面倒を見ている、その生き様を見て感動しました。彼女が、仏教の信者か、それともほかの宗教の信者かその所は聞きませんでしたが、もしこの人が、クルスチャンでなくても、この人は神様の御心に近い人と心の中で思いました。 今日はこの教会に来られてからもう一年ほどたつJune吉成さんの洗礼式を行います。二人の友達が教保となってイエス様を神様と信じますと言う信仰告白をされた後に洗礼を受けます。イエス様と言う神様に従い、信じる者になると言う儀式です。この式の中で、信仰告白をすることは、神様に従う弟子となることです。 クリスチャンになることは洗礼を受けることによって始まります。しかしこれは特に日本人にとって勇気のいることです。その多くの人の家族、親、友達も先祖代々仏教、神道の人がイエス・キリストを神様として、愛の精神を持って生きてゆくことを宣言するからです。私は小児洗礼を受けましたので、自分の洗礼式を覚えていませんが、父も母も青年時代に洗礼を受け、クリスチャンとしての恵みはそれに変えられる物がないとの発言をよく聞いたことがあります。神様への信頼、信仰は私たち一人ひとりの中でいろいろな形で現れ、皆さんも信仰生活の中でイエス様と対話を心の中でなさった方がいるはずです。神様は皆さんの心の中の隅々まで、すべてをご存知です。しかしイエス様との祈りの時は大切です。心の嘆き、悲しみ、苦しみ、喜びをすべて神様、イエス様の名によって語ってください。 最後に毎月贈られて来る日本福音ルーテル教会の機関誌である「ルーテル」の中に今日の福音書のからし種に書かれていることをその記事の著者の松田繁雄先生の書いた「雑草のしぶとさ」の一部を少し紹介して今日の説教を終わります。 「クロガラシと呼ばれる辛し種は砂の一粒ほどのせいぜい育っても2メートルぐらいの雑草ですが、種はとても辛い一年草です。しかし、生命力は強く水や肥やしをやらなくても勝手に種を撒き散らしてゆくのです。聖書にはレバノンの杉と言うような素晴らしい大きな木が書かれていますが、毎年枯れてしまうクロガラシでも鳥が媒介になって翌年も、また次の年もそこいら中に, 新しい芽をふき、根を張り、実を結びつけるのです。それは。実にしぶとく、世の移り変わりにも耐えて、広がっていく、息の長い神の支配、そのようには喩えは語っているのではないでしょうか」。 私たちは雑草のように見られてもいいのです。一生懸命になって生きる人間になること、それは私たちのすべてを尽くして神様の愛と慈しみを私たちに関係する人たちに伝えてゆくということではないでしょうか。私たちの神様への信仰はどのように育つのか、はっきり言ってよく説明することはできませんが、神様が私たちの心の中に信じることのできる心と、お互いを助け合って生きてゆく、その様な人間になれるよう私たちを導いてくださるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2012年6月9日 Pacifica Synod Office にて、復活ルーテル教会日本語部の修養会が行われました。特別講師の松下先生を始め、安達先生、中村先生、岸野先生、お手伝いをして下さった皆様、出席して下さった皆様、ありがとう御座いました。恵みに溢れた修養会でした。Photos taken by Fumi Liang Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1215号  [日本語) 2012 6 17W 週報通算#1215E  (英語) Sunday English Bulletin 1215E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 創世記3章8-15節「隠れる事、探し出される事」  “First Story of Hid and Seek” 私たちの父なる神と,主イエス・キリストから恵みと平安がありますように。アーメン。 先月テレビでChinaのgrowing pain と言うリポートを見ました。たった23年前にはまだアメリカ人は中国に行くことができてもよく警察官が旅行中同行すると言う時代でしたが、今中国人たちはwestern cultureを受け入れています。若い人たちのFavorite foodはKentucky Fried Chicken と MacDonald の Hamburger だそうです。 また、アメリカではタバコを吸う人が減ってきているのに中国では70% もの男の成人は毎日一箱のタバコを吸うと聞きました。しかし、健康を害すると、それをマクドナルドやマーボロのたばこのせいにするのです。しかしこの問題は誰のせいでもありません。自分が自分で正しい行動をしたいと言う思いがない限りできないのです。そのことを覚えて今日のアダムとイブの話を考えて見ましょう。 私はfast food と言われるものを余り食べません。まったく食べない訳ではないのですが、それよりはどちらかというと日本のスーパー・マーケットで、蕎麦かうどんを食べるのが好きです。もっとも一人で食べるより誰かと一緒に食べるときが大好きです。 しかし聞くところによると、毎日、朝、昼、晩とマクドナルドでハンバーガーを食べる人もいるらしい。この頃はどのハンバーガーに何カロリーと書くfast foodのお店が増えてきたと聞きますが、毎日ハンバーガー食べていたら健康の障害が出てきて当たり前でしょう。 同じように私の日本での友達の中には毎日タバコを吸わないと落ち着かないと言う人たちが何人もいます。タバコは健康を損なうものと知りながら、やめることができないとはかわいそうに思うのですが、彼らの中にはこれはタバコを作る会社がいけないんだとか、もっと昔からタバコの害を公に話していてくれたらニコチン中毒まで行かなかっただろうという友達もいます。私がそれを聞くと自分のやっていることを人のせいにしているように感じるのですが。 さて今日の旧約聖書の話はまさに、自分の問題を他の者、他の人のせいにする、つまり自分の欠点 を神様のせいにしているアダムとイブの有名な話です。 エデンの園という所でアダムとイブは働きもしないで毎日神様が造られたおいしい果樹をおいっぱい食べていたはずです。このエデンの園にりんごの木があったとは書いてありませんが、聖書の中にはイチジク、葡萄、オリーブ、マスタード、メロン、デイツ、ぺスタシオ、アーモンド、ガーリック、ざくろ、そして、りんごも出てきます。これは聖書辞典で調べるまで知らなかったのですが、旧約聖書の雅歌2章3節に乙女の歌と言うものがあります。そこには「若者たちの中にいる私の恋しい人は森の中に立つりんごの木。私はその木陰に座り、甘い実を口に含みました。」と書いてあることから、エデンの園にあった、食べてはいけないと言われていたこの果実がりんごであってもおかしくないのです。 私たちは自分でしたことに責任を持つべきですが、自分を正当化することが多いのではないでしょうか。私は間違い事を犯しましたと言う前に、何かによって、または、誰かによって間違ったことをしてしまいましたと言ったことが過去に沢山あったはずです。神様の前で、嘘をつくことはできませんが、いろいろな理屈を付けて自分を正当化するのが私たちではないでしょうか?そんな私たちを神様はすべてご存知です。ですから神様から隠れたくなるのです。裸でいたことが神様の前で急に恥ずかしくなり、イチジクの葉っぱで身を隠したのです。自分の罪を隠したかったのです。 ここで悪いことをした理由のこじ付けをしたのはアダムだけではなく、イブも禁断の果実を食べた理由は蛇にそそのかされたからですと言ったのです。神様はエデンの園という、素晴らしい所で幸福に生きてゆくことのできたはずの人間は罪、それも生まれながらすべての人間は原罪、は を持つことによって、自分で自分を救うことはできないのです。では、私たちはどのように神様との関係を正しく持つようになれるのでしょうか? どのような行いによって私たちは神様の前に神様の者であるとの信頼を築くことができるのでしょうか? 私たちは自分の行い、努力によって神様に愛される者となることができません。自分で、自分の力で、自分の行いによって神様の前で正しい者となることはできません。神様から愛される私たちになれることは、神様の言葉、それは「私はあなたを条件なしに愛します」と言う言葉を自分の心、胸のうちに刻み込むことです。神様の前で私たちは謙虚に自分の犯した間違い、高慢さ、罪の意識をすべて告白しなければなりません。神様は私たちが謙虚になり、子供が親を慕うように私たちに神様の元に素直な心で来てほしいのです。神様から隠れることは私たちにできません。 子供の時、誰でもかくれんぼと言う遊びをしたことがあるでしょう。最初に見つかった人が今度は目を瞑って1分ほど数えた後に隠れた人を探しに行きます。私たちの神様であるイエス様は、私たちが、どんなにうまく隠れてもかならず探しだしてくださいます。しかし、遊びのかくれんぼと違い、私たちは神様から見つけられたいのです。神様から遠く離れていては私たちは孤独で、寂しい、怖い、恐怖の中で震える生活の連続です。しかし、神様は私たちが、どこに隠れていても探し出してくださり、私たちを神様の愛の下に返えらせてくださいます。もう一度聞いてください。神様は私たちがどんな状況にいる時もわたしたちを捜し求め、神様のみが胸の中に抱いてくださるのです。 今日のこのメッセージの中で知って頂きたいことは神様は何時も私たちが神様の身下に戻ってくるように待っていてくださっていることです。私たちが神様の前に罪の意識を持っていて出て行けないときはイエス様、神様自身が私たちの所にやって来てくださいます。 私の牧師としての役目は、病気、または自分の家から出ることの出来ない人たちを尋ねることです。そして一緒に聖餐式を行います。その前にヨハネの第一の手紙1章8節を読みます。そこにこう書いてあります。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。」これは神様、イエス様からの約束です。 神様から隠れることなく、すべての思いをを神様に祈りの中で語ってください。私たちの人生のあらゆる所でイエス様と出会う機会が信仰を持つ者に与えられているのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算番号#1214W (日本語) 2012 6 10W 週報通算番号#1214E  (英語) Sunday English Bulletin 1214E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet   キリスト教の暦の中で、お祭りの日が幾つかあります。それはクリスマス・イエス様の誕生日、イースター・復活祭、その次に、ペンテコステ・聖霊降臨日を思い出すでしょう。しかしペンテコステという名前は聞いていますが、それはいったいどういう日なのでしょうとクリスチャンの中でも、なかなか答えが出ないことがあります。 しかしペンテコステのペンテはラテン語で5の意味がアメリカの国防庁の建物が5角形(ペンタゴン)、また旧約聖書の最初の5書はペンタチュウクと呼ばれています。ペンテコステは、クリスチャンにとって、復活されたイエス様が50日たった時、イエス様にしたがって来た人たちに聖霊を注いでくれた日です。また、目では見えないイエス様が、聖霊と言う形で、私たちのところに来られ、私たちといつも共にいてくださる約束を確認することができた時です。 復活されたイエス様が、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と言う約束は多くのクリスチャンにとってとても心強いことです。ペンテコステはまた教会の誕生日とも言われています。エルサレムに世界のいたるところから帰ってきていたユダヤ人のひとりひとりの上に、聖霊が降ったのです。するとそこにいた人たちは自分の母国語でイエス様に賛美の言葉を語り始めたと聖書は書いてあります。私は6年間テキサスのダラスの教会で牧師として働きましたが、テキサスには異言を語るクリスチャンの教会が沢山ありました。しかし異言を語るだけではなく、多くの人が手を高く上げて踊りだすのです。その中で恍惚状態になり、失神する人も出てきたのです。 一般の説教の代りに、沢山の人が、何か訳も分からないことを口にしているその姿を見て、これも一つのキリスト教の礼拝なのだというのに私は否定しませんが、今日の聖書に書かれている異言とは、いろいろな国から来てエルサレムに集まった人々が聖霊を受けて自分たちの言葉で神様の偉大な業を語り始めたということで、これはイエス様とイエス様の教えが、世界中に広まって行くことを前兆としての姿です。 ペンテコステはキリスト教会の誕生日であるといいましたが、使徒言行録の2章の中に、教会の初め、それは建物としての教会と言うより、イエス様を主と認める、またイエス様にしたがって生きていこうとの決意をした人たちにとってイエス様が聖霊として私たちと共にいてくださると言うことはなんと力強いことだったでしょう。 この日、3千人もの人がイエス・キリストを世の救い主と認め、洗礼を受けたのです。彼らの顔はまさに輝いていたと思います。この3千人の人たちはどんな心境になったでしょうかと考えていた時、私は頭の中に小さい時日曜学校でよく歌った子供讃美歌を思い出しました。それを歌ってみましょう。   「主に従い行けば、いかに喜ばしき、心の空晴れて光は照るよ。みあとを踏みつつ、共に進まん、みあとを踏みつつ、いさみて進まん。 主に従い行くは、いかに幸いなる、悪しき思い消えて心は澄むよ。みあとを踏みつつ共に進まん、見あとを踏みつつ、いさみてすまん。 主に従い行くは、いかに心強き、恐れの陰うせて、力は増すよ。みあとを踏みつつ共に進まん、見あとを踏みつつ、いさみて進まん。」   聖書は、ペテロの言葉で、私たちにはっきり語っています。それは、「悔改めなさい、めいめいキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。 聖霊も賜物の一つですが、ほかにもたくさんの賜物が私たちに与えられるのです。ギリシャ語で、「恵み」と「賜物」は同じ語源から出た言葉です。それは「愛」、「喜び」、「平安」、「寛容」、「親切さ」、「善意」、「誠実」、「柔和」、「自制」と言う、私たちの生活の中で、いつもなすべき心の持ち方と私は思います。私たちがお互いを支えながら生活する中で、今述べた、一つ一つの言葉をこれはイエス様が、私たちに毎日の生活の中で実行されるように求めているのです。もう一度その言葉と私たちの心の持ち方を聞いてください。「愛、喜び、平安、寛容、親切さ、善意、誠実さ、柔和、自制」と言う言葉です。 聖霊の賜物を受け取った人たちは顔が輝いていると言われています。それは顔に隠せない喜びとして顔に出てしまうからです。このことに関して、ある人から聞いた話を聞いてください。 今から150年ほど前のカリホルニアのgold rush の時、金を探して歩き回っていた3人の男たちが、あるところに金の塊をいくつか見つけたのです。そこで、この秘密を誰にも言わないようお互いに誓ったのです。町に行き、彼らが金を掘る許可証をもらい、金を発掘するための道具を買い入れ、秘密の場所に戻ったのですが、彼らを追って沢山の人たちがついてきたのです。なぜかというと、彼らの顔の表現が、喜びに満ちていて、ほかの人が一見して、ああ、あいつらは、金のでた所を発見したに違いないと感じたからです。 もう一つ、教会の礼拝の中で起こったことをお話しましょう。お母さんがまだ3歳になったばかりの男の子を連れて教会に来るようになりました。この男の子、礼拝中泣きもしない、駄々もこねないいい子でしたが、時々後ろを振り向いて、みんなの顔を見て大きなスマイルとウインクをしていたのです。この子のスマイルとウインクは大人の人の心を穏やかにして、大人の人もこの子にスマイルとウインクを返したのです。しかし、この子のやっていることを見つけたお母さん、男の子の耳を引っ張り、「だめですよ、ここは教会なんですよ」と叱ったのです。男の子は叱られて泣き出しましたが、お母さんは、「しずかにしなさい。泣くなら小さな声で泣きなさい」と、またこの子を叱ったのです。私も母によく教会では静かにしなさいといわれてもそれを守ることをしなかった。でもイエス様には愛されていると感じていました。 私が礼拝堂の前で皆さんを見る時、そこで顔が輝いている人もいれば、何か心に悲しみ、心配事があり、悲しそうな顔をしている方を見出します。ティシュウで涙を拭いている人もいます。ペンテコステ、聖霊降臨日はこれから先、イエス様が私たちの生活の中で、私たちが悲しいときも、苦しいときも、喜びのときも必ず私たちと共にいてくださることを約束してくださったのです。それは甦えられたイエス様は、聖霊として私たちと何時も共にいてくださることを知ることです。 教会はこの聖霊降臨日に始まり、イエス様が、私は世の終わりまで私達と共にいると約束された集まるところです。私たち、一人ひとりが何故イエス様を救い主と受け止めたのかとの質問に私はこう答えます。イエス様が救い主の神様と私が呼べるのは、実は神様の聖霊が私に働きかけ、イエス様を神様を呼ぶことができ私にしにしてくださったからです。皆さんもイエス様を信じたい、信じられるようになるには何をしたら良いのかと考えた時期があったはずです。 しかしイエス様を救い主と認められるようになったのは自分で納得ができるように祈ったその結果ですか?  私が口癖のように言うことは、それは、神様である父と子であるイエス様、そして聖霊の働きで、私、私たちの心の中にイエス・キリストが救い主であるという信仰を私たちの心の中に育ててくださったと言うことです。 このペンテコステと呼ばれる教会の誕生日は神様からいただいた聖霊によって始まり、これからも主イエス・キリストこそわが救い主と告白する私たちの信仰により続いて行くのです。この聖霊は目では見ることができませんが、私たちを支えてくださる神様の力です。イエス様が私と共に何時もいらっしゃると信じられる人は本当に幸福です。主によって私たちは生かされ、愛の精神を持って人生の毎日を送くれることができるからです。 祈りましょう。 イエス様、あなたは、私たちに素晴らしい賜物を幾つもくださいました。その一つが、あなたが私たちの心の中で育ててくれた信仰です。このペンテコステ、神様の聖霊が人々の心に働いた日を感謝します。あなたの聖霊が私たちを導き、私たちのイエス様に従う思いと行動にて、まだあなたを知らない人たちに、主に従い行くとはいかに喜ばしきことであるかを知ることができるようにしてください。この祈りを主、イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]