Archive for October, 2017

October 27th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 今週は月曜から木曜まで研修会で缶詰めみたいになっており、聖書観想をポストするのが金曜朝になっておりますが、Thank God It’s Friday!  わたしたちの罪のため、またまた主が十字架に架かられていることを覚えつつ。 10月22日(日) マタイ22:15-22 今年2017年10月はマルティンルターが95条の論題としてカトリック教会を批判した文書を1517年10月末に貼り付けたことが発端となり起こってしまった宗教改革から500周年。キリスト教会、とくにプロテスタント教会では大きなにぎわいを感じる。マルティンルター自身がカトリック教会の司祭であったので、教会として改めたいと考えたことが、カトリック教会幹部もルターの意見に賛同したものも、極端に考えてしまい、各地で戦争が起こってしまった事実があることも覚えておきたい。 実は、人々が極端な考えになりすぎて500年前と同じようなことになりかねない世界状況が今の世界にはただよっている。神のものは神に返すと、イエスが言われていることを、この時代にあってよーく考えたい。今ある世界の資源、富、自分たちの命、あるいは社会や政治すらも神の愛無しには存在しない。  10月23日(月) ヨハネの黙示録18:1-10, 19-20 ヨハネの黙示録というと世の終わりについて書かれていると解釈され、わたしたち人間は自分の死についてなかなか考えたがらないの同じように、世の終わりについての話も敬遠されがちだ。(世の終わりについて大きな興味を持っていつ来るかを予測する人々も後を絶たないが。) しかし、わたしは神学校時代にこのヨハネの黙示録を読み返していたときに、はっと気付かされたことがある。 「七転び八起き」のような希望にあふれるメッセージに感じてきて、今もそう思っている。今週与えられた18章だけではそれを感じるのは難しいかもしれないが、ちょっと19章を読んではいかがだろうか。またイエスキリストの死によって私たちの罪が毎週末に滅ぼされ、そして復活が毎週起こっていることとも重なってくるのではないだろうか。 10月27日(金) 申命記9:25-10:5  主が、再び石の板の上に十戒を刻む話。なぜ硬い石に十戒を刻むのか?それは大切な戒めであり、簡単に消えたり壊れないようにするためと考えていた。しかし、29日の福音書箇所のことも思い浮かべている中で、人々の心が頑なだから、石に書かれたのではと思えてきた。つまり石は人間の心を象徴しているような。もっとも大切な掟「主なる神を愛し、隣人を愛するように」と教えられても、頑なな私たちの心は、それを実現できない。そのような私たちのかたい心に、イエスにある信仰生活を生きるなかで、この大切な掟が刻まれて、イエスの御心が人間の心に宿っていくことを、この申命記箇所は暗示していたように思えてくる。 10月29日(日) マタイ22:33-46 十戒とイエスの話されたもっとも重要な二つ(一組)の掟とは、まったく別のものと思われてしまうかもしれない。十と二(あるいは一組)では数が異なるから。 しかし十戒(出エジプト20賞参照)の最初の三つはすべて「主なる神を愛する」ことに関係しており、四つ目以降はすべて「隣人を愛すること」に関係している。  恵み深き日曜の礼拝になることを、またトーランスで予定されている日韓ファミリーイベントについても、主の導きを祈りつつ。 主の平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

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Tweet 10月15日(日) マタイ22:1-14 王が王子のために催す婚礼とは、聖書の結論ともいえる、愛なるイエスと全人類が結ばれる時を言っているように思える。 そして、毎週の礼拝はその結論である婚礼のときを先取りしているようだ。 礼拝には、実は私たちだれもが、神に背いてしまうあるいは神を疑う自分勝手な心をどこかにいだいてやってきている。 その自分勝手な心を、礼服を着ていない者にたとえられているようだ。 その自分勝手な心は、王である神によって、取り去られる。 10月16日(月) ユダ17-25 ユダの手紙は短い。少々背景を説明すると、1世紀から存在している主イエスを否定する、つまりイエスを神と認めないグノーシス派という人々に気をつけるようにという警告が手紙の目的といえるだろう。 現代プロテスタントには3万の宗派があるといわれる。その中には自分たちはキリスト教といいながらも、キリストの存在はただの教師としてしまい、神が肉を持って現れてくださった受肉の信仰を信じない、この世的な教えをする自称キリスト教指導者とか自称牧師が後を絶たないことを覚えておきたい。しかし、イエスの愛は、悪人にも善人にも注がれていることもしっかり覚えておきたい。  10月20日(金) 申命記 17:14-20 この箇所が教えていることが、どういうことなのかわかりにくいかもしれない。22日の福音書に書かれていることとのかねあいから読むと、中心的なメッセージが浮き彫りになってくるように思う。 政治的な地位である国王となる人も、神に帰属していることをちゃんとわかり、主なる神を畏れる人を選びなさいというメッセージに思えてくる。 10月22日(日)マタイ22:15-22 新共同訳聖書には、サブタイトルがついており、ありがたいと思うこともあるが、読むべきポイントがずれてしまう恐れがあることも感じる。「皇帝の税金」というサブタイトルだと、皇帝に税金を払うべきかどうかが、ポイントなのかと思ってしまうかもしれない。 しかし、ポイントは、イエスが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と語られたところから、「神のもの、神に帰属するものは何か」と考える中で皇帝も含めて神に帰属することに気づき、神に返すということは、じゃあどうやって神にお返しするか、を考えることが大切なのかと思う。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ここをクリックーー>2017 10 15 Jpn Parable of Wedding Banquest and Robe Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 11月5日午前11時半からの日本語礼拝に是非おいでください。 2017 Japanese Ministry Anniversary Flyer Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet LCR日本語部週報通算第1431号 2017年10月15日の週報 Sunday English Bulletin 1431E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

October 13th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 先週はラスベガスでアメリカ史上最悪の乱射事件が起こったかと思ったら、今週はカリフォルニアで史上最悪の山火事が発生した。 人災と天災の違いはあるものの、史上最悪が多すぎるような気もしている。 主を愛し隣人を愛するというイエスの御旨にできる限り近づけますように! 10月8日(日) マタイ21:33-46 とくに後半では、イエスがユダヤ教のリーダーたちが酷い目に会うことを暗示していたようにマタイは記述している。ちなみにマタイ福音書は紀元後70年以降、つまりエルサレム陥落以後に記述されたと思われる。 10月12日(火)第2コリント5:17-21 自分を含めて恥ずかしくなってしまうような過去の過ちとか自分勝手な行動を抱えて生きている方がほとんどなんだと思う。その恥ずかしさに気づかないままあるいは間違いかどうかわからないままの方々、政治家、政府の存在もあると思う。私はICANがノーベル平和賞を受賞したことを喜びつつも、それが政府への当てつけだとかではなく、これまでの核兵器を作る方向に社会のリーダーが行動したことはその時点では正しいと思って動いたのだから、その責任を求めたり恥を指摘するのではなく、ひたすら和解の言葉をもたらす存在でありたい。 10月14日(土) イザヤ24:17-24 17節―18節には、恐れないものは、落とし穴に陥り、たとえ落とし穴から出ても、わなに捕らわれるという。「恐れない」ものという言葉にちょっとぴんときてしまった。 そもそも聖書のメッセージは「恐れるな」という言葉が繰り返されており、「恐れない」ことは良いことではないかと思うから。しかし、「恐れるな」という前提には、神以外のものには「恐れるな」ということがあったのだと思う。 ところが、神に対して、あるいは神の遣わした預言者やその言葉に対して「恐れない」ことに大きな問題があったのかと思う。 日本語では同じ「おそれない」でも「畏れない」という漢字があるが、17節は「畏れない」が適切なように感じている。  10月15日(日) マタイ22:1-14 このたとえ話は王は神であり婚宴は御国を示しているのかと思う。似たような話がルカにも書かれているが、7節の「王が立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった」という箇所はルカにはなかった。 上記にも書いたように、マタイはエルサレム陥落後に福音書を書いたと思われる。つまり7節もエルサレム陥落をマタイなりに意味したのかと思う。もっと大切なところとして10節にある悪人も善人も王が招く、つまりすべての者が愛なる神によって御国に招かれていることをしっかり覚えたい。ただ、礼服を着ていなかった者がつまみ出されてしまう話はどういうことかわかりにくい。祈りをもって日曜日の説教で話せればと願っている。  ラスベガスの銃撃事件と山火事で亡くなった方、怪我をされた方、その家族、家を失った方、そのほかいろいろな影響を受けた方(実はこの聖書観想は、サンフランシスコ近くの神学校で水曜の昼から木曜の昼過ぎまで打ち合わせがあって、その帰りの飛行場で書いていた。近くの山火事の煙の影響もあって私が乗る飛行機が遅れ私も影響を受けたが少し痛みを共有した気がする)を覚えて、主の慈しみ、憐れみを覚えて祈る。また日曜日の礼拝も覚えつつ。 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ここをクリックーー>2017 10 08 JPN A Tail of Mayhem and Murder Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

October 6th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 2017年10月1日(日) マタイ21:23-32 現在日本語礼拝で、私が聖書を拝読する際は新共同訳聖書というバージョンを読んでいる。新共同訳では兄は最初は「行かない」と言ったのに後から考え直してぶどう園に行き、弟は最初「行く」と答えたのに結局行かなかった、と書いてあった。ところが今週は口語訳聖書を読んでいて気がついたが、兄と弟の行動が逆に書かれている。これは訳を作成した際の、元となるギリシャ語の写本の違いによるもの。オリジナルの言語のギリシャ語の福音書と言っても、コピー機があったわけではなく、古代の人々が手書きで写していたため、変わってしまうことがあった。聖書には「一語一句、誤りはないのだ。」と言われる牧師がいる。そもそも私はそのようなタイプの牧師ではないが、聖書を読むときに、なんでもかんでも文字通りに解釈しないようにすることは一つ大切なことだと思う。   2017年10月3日(月) フィリピ1:3-14 フィリピの信徒への手紙は、獄中からパウロが書いた手紙。8節には「キリストイエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているか」という言葉がある。1日の夜、ラスベガスではアメリカ史上最悪と言われる銃撃事件が起こった。キリスト者として何ができるかを思いつつ、月曜以降、その現場にいた方々を覚えて祈る毎日を送っている。私たちの教会に来ていた方のお嬢さんが現場にいたという情報が入ったり、近隣教会の幼稚園の園長先生だった方のご主人は弾丸を腕に受けて貫通し、弾はさらにお腹に入ったが、手術を受けられ、命をとりとめたとのこと。犠牲となった方々・怪我をされた方々、その家族がたとえ遠くにいても、彼等が主イエスによって、癒され、慰められることを思うことで、聖霊なる神が働いてくださることを信じ・祈るのがキリスト者としてまずできる事。  2017年10月6日(金) エレミヤ2:23- 3:4 週の後半の旧約聖書はエレミヤ書が読まれる。エレミヤは難解で、子供には読ませてはいけないと言う方もいる。エレミヤ書に限らず、聖書を何の指導者もない状態で、ただ読み始めることは、危険な書物であることは否めない。姉妹教会の立野牧師は神学校時代に、本当に牧師になる道を歩み続けるか悩み、聖書を駅に備え付けの教育上よくない雑誌を入れる箱に捨ててしまった。その気持ちをわかる気がする。一つ、ヒントを書いておきたい。聖書で妻と夫の描写が出てきて、妻のほうが別の男といっしょになるなどいう話が出てきたりするが、妻とは男や女に限らず人類をあらわしていて、夫は神をあらわしている場合が多い。人類が本来の神を忘れて、お金とか名声を、あるいは何か自分の趣味を神と思ってしまいがちである。 そのようなことを男女関係にたとえている話だったりする。  2017年 10月8日(日) マタイ21:33-46 神が神の子イエスを人類の中に送っても人類はイエスを殺してしまうということを、神をぶどう園の主人に、イエスを主人の息子に、人類を農夫にたとえているといえるだろう。イエスの話はたとえ話とかあるいは寓話ともいっても良いと思っている。ただ、寓話というと、童話の一種類と解釈されてしまい、こども向けの話と思われてしまうかもしれないが、それでも良いのだろう。おとなでもこどもでも何歳であろうが、この世の人類は父なる神の子供たちとも言えるのだから。そしてこの聖書箇所のように、現代でも神に反抗する子供たちはたくさんいる。     8日の日曜はPastor Bradの説教で、いい話になります。日本語訳用意しますので、ぜひお越しください。  主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 日本語はここをクリックーー>2017 10 01 Jpn Let’s Go to The Vineyard English Please Click here –> 2017 10 01 Let’s Go to The Vineyard Without Slide Numbers Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace