Tweet マルコによる福音書1:21-28「イエス様の権威」 “Authority of Jesus” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 イエス様は生まれがベツレヘムですが、育ったところはナザレと言う田舎です。大人になりガリラヤ地方のヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、40日間に亘って荒野でサタンの誘惑を受けましたが、それに打ち勝ち、その後ガリラヤで神様の福音を語り始めました。またガリラヤ湖の湖畔で漁師をしていた4人を弟子として福音の伝道の働きにはいったのです。安息日にはカペナウムの町にあるユダヤ人の会堂で、聖書の内容と神様の福音について教え始めたのです。 さて皆さんの中で、イエス様はユダヤ人のラビ、英語で言うRabbi だったのですかと言う質問が来るかもしれません。ラビは聖書をよく勉強した、また会堂で説教もしていたでしょう。イエス様は勿論子供の時から両親に連れられてユダヤ人の会堂に行っていたはずです。しかし、ユダヤ人の会堂で話をするのはラビだけではなく、一般の男たちもそのような討論をすることができたのです。 神の国の伝道を始め、人々はイエス様の教えに権威があることに驚いたと福音書には書いてあります。いつもの会堂司や、ラビの説教と違い、何か心に訴えられるようなイエス様の教え、また汚れた霊に取り付かれた男からその悪霊を取り去ったイエス様の評判が、ガリラヤ地方の隅々まで広まったのです。 1960年代に私は東京で、Billy Grahamのクルセードに行った事があります。それまでこの人の名前を聞いただけで、彼がどのような牧師さんであるかは知りませんでした。話し始める通訳の人の言葉より彼の力ある声と神様の聖霊に満たされたメッセージに心を奪われました。メッセージの後、Billy Grahamは、イエス様を受け入れる心を持つ方は前に出てくるように勧め、私も何か涙を流して前の方に行き、日本語と英語が一冊になっている新約聖書をもらいました。この人は本当に神様の聖霊に満ちていると感激したのです。皆さんのうちにも誰か、権威を感じさせられる人柄に出会い、この人はすごいと思ったことがあるでしょう。 カペナウムに住む人たちはイエス様の権威のある神様からのメッセージを聞いてびっくりしたのではないでしょうか? また悪霊に取り付かれている人たちはイエス様に出会うことを嫌っていたのです。と言うのはイエス様は悪霊を追い出すことができたからです。私がこれは本当だと思ったことは、悪霊自信が神様を恐れているからです。暗闇、暗いところに存在するものは、神様の愛、お互いを大切に助け合う生活、喜びを分かち合う生活などを嫌うのです。 福音書のマルコによるとイエス様はただ単に言葉による権威を持っていただけではなく、 行動による権威をもっていました。それは旧約聖書の創世記の中に出てくる創造主である権威を持った神様の言葉と行動です。 旧約聖書の創世記1章1-3節にこう書いてあります。 初めに,神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が、水の表を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神様が語ることで光があり、また語ることによってそれが実現したのです。また主なる神は土の塵で人を形作り、その鼻に息を吹き入れたのです。これも神様でしかできない権威ある言葉と行動です。 しかし神様の造られた私たち人間の中でも、権威に満ちていたひとたちもいます。私は神学校の4年間のうち3年間をペンシルベニア州のGettysburg という南北戦争の激戦地で過ごしたのです。神学校はまさに激戦地のど真ん中にあります。5万人もの兵隊さんが3日間の戦いで命を失い、その土地は人間の血で赤く染まったのです。 その時の大統領がリンカーンでした。彼は南北戦争の終わったその年の11月にワシントンからGettysburg に戻り彼の演説の内最も有名なGettysburg Address と言うものを祈りをこめて語ったのです。その一部を聞いてください。 Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal. Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure. We are met on a great battle-field of that war. We have come to dedicate a portion of that field, as a final resting place for those who here gave their lives that that nation might live. It is altogether fitting and proper that we should do this. But, in a larger sense, we can not dedicate — we can not consecrate — we can not hallow — this ground. The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it, far above our poor power to add or detract. The world will little note, nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here. It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us — that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion — that…
January 31st, 2012
2012年1月29日顕現節第4主日聖餐礼拝説教「イエス様の権威」”Authority of Jesus”岸野豊牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet 週報通算#1198(日本語) 2012 1 29W 週報通算#1198(英語) 2012 1 29 1198WE Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2012年2月のカレンダーを掲載いたします。 予定は変更する事がありますので、ご了承下さい。 Feb 2012 Calendar (2) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
January 25th, 2012
2012年1月22日顕現節第3主日聖餐礼拝説教「イエス様に従う」”Following Jesus”岸野豊牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet マタイによる福音書1章14-20節 「イエス様に従う」 “Following Jesus ” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 年は1915年、28名の男たちは氷山の上に体をより寄せながら立っていました。逆登って一年前、彼らは南極点に行きたつ目的をもってロンドンを出たのです。しかし今それがかなわないことが分かって、いやそれ以上にこれからどのようにして350マイルはなれた離れた所にあるベース・キャンプに戻り着くかの心配事に心を悩まされていたのです。彼らの船であるEnduranceは、すでに9ヶ月に渡って氷の中に閉じ込められて、そこから抜け出すことも出来なくなっていたのです。そればかりか、氷の力によってEnduranceは押し潰されつつあったのです。 男たちはもう一度Enduranceに戻ってこれからの困難な旅路に必要な物を持ってきたのです。それらは、シャベル、ピッケル、ハンマー、ロープ、テント、ブランケット、そして25フィートの長さの3隻のボートです。彼らの隊長であるErnest Shackelton は、たった一つの抜け道は350マイルにわたる氷と雪の中をPaulet Island と言う海の水が凍っていない所に行き着けなければならないと皆に言い聞かせたのです。そして必要意外なものは一切持って言ってはいけないと命令しました。Shackelton は自分のポケットから一握りの金貨と金張りの懐中時計を取り出し、それを雪の中に投げ捨てたのです。彼に従って皆自分の持っていた物をそこに残したまま何週間もの死にもの狂いで歩き続け、奇跡的にも28人全員の命が救われたのです。 今日の福音書は、イエス様がガリラヤ湖の湖畔で漁師をしていたペテロとアンドレに「私についてきなさい」と声をかけた話です。この二人の兄弟は網もお父さんも残してイエス様について行ったのです。またその後、船と網を洗っていたヤコブとヨハネもイエス様の『私に従ってきなさい』と言う言葉によってイエス様について行くようになったのです。凍えるような寒さの中で自分の持ち物をすべて捨て命を救ってくれると信じた、南極探検隊も、イエス様というリーダーに弟子たちが従ってきたのは、命の救いを約束された方を信頼することができたからではないでしょうか? 全てをうしろに残してリーダーについてきたのです。命への道を見出したのです。人の一生というものはただ飲み食いするだけではなく、人生とは何か。何かを目的に生きてゆくことが必要なのです。命、永遠の命をあなたに与えたい。受け取ってほしいと言う神様の恵みの中で、私たちはその救いを受けるよう、イエス様から一方的に与えられているのです。ですからすべてを後ろに残して命の救いの道を求めるのです。 いま少し前Shackleton の仲間は一人も残らず救われたと言いましたが、実はShackelton の南極探検の75年前1840年にイギリスのSir John Franklin と言う北極探検隊の140人の一行は北極ですべて戻らない人たちとなったのです。それが何故かと言うと、かれらのPriority が間違っていたからです。彼らは蒸気エンジンを持つ二隻の帆船でこの探検を試みたのですが、2年かかるだろうと思われるこのプロジェクトにそれに必要な燃料の石炭の量を船に積まなかったのです。その代わり、その場所を, 1,200冊の本、オルガン、エレガントなtable wearつまり、銀の食器、(それも一人ひとりの名前が刻まれているもの)などに気を配っていたのです。氷の中で立ち往生の後、探検隊の全員は船を捨て、助けを求めたのですが、厳しい寒さの中で全員が凍死してしまったのです。後に見つかった探検隊のポケットには、自分の名が刻まれた銀のフォーク、スプーン、ナイフなどが見つかったのです。自分の命がさらわれると言うその時まで,それらのものを見放すことができなかったのです。 さて一昔前の話ですが、あるキリスト教の求道者の人が私にこう質問しました。”先生、イエス様についてゆくとは私の持っているものをすべて見放さなければならないのですか? そういう風に言われる事もあるでしょう。皆さんが御存知のSound of Music の話はマリアと言う若い女性が修道院に入る条件として、質素な生活、神様への祈りの時を毎朝、毎晩持つこと、そういう生活をできる人もいれば、神様を自分は愛するが、修道士のような生活はできませんと言う人たち、それは私も含めて、が殆どでしょう。 しかし私たちの生活の中で、神様から愛されていることを信じ、それゆえ、お互いを大切にして生きるということは、イエス様に従うキリスト者の生活の中で実行しなければなりません。人生で一番大切なのは、イエス様を人の中に見出すことです。イエス様は私たち一人ひとりの心の中に住んでいるということも知ってください。 今日の福音書によると、イエス様から『私に従ってきなさい』と言われたシモン・ペテロ、アンドレ、ヤコブとヨハネは網を捨てて、また家族をも残してイエス様についていったのです。イエス様に従うとはイエス様が私たちに示してくださった道を歩むことです。イエス様の十字架は私たちの十字架であり、イエス様の御心は私たちの御心となり、イエス様の命も私たちの命となることです。 これは難しすぎてできないと言われるかもしませんが、それを私たちの生活の中で試みるところに主なるイエス様は一緒にいてくださるのです。神様の聖霊に守られて私たちの生活ができるようになるのです。 考えてみてください。私たちの人生は短く、その命もか弱いものです。しかしイエス様は、手を差し伸べて私たちにイエス様についてゆくよう呼んでくださっているのです。私たちが躓いて転びそうな時、私たちを神様の腕の中に受け取ってくださります。私たちの心と体が滅びそうになった時、それに打ち勝つ力を与えてくださいます。そして私たちに平安と希望を私たちの人生の末期に神様の身許に連れて行ってくださる喜びを与えてくださるのです。イエス様の他にこのような力、信仰、希望を与えてくださる方はだれもいません。 イラクでの戦争が始まって以来、アメリカはすでに1trillion dollar を使ったと聞きました。アメリカの兵隊さんたちはもう帰って来た訳ですが、この戦争の結末がどのように展開されるかは未来の歴史家によって書かれるでしょうが、多くの命が奪われた、父のいない、家族のない孤児たちが沢山、沢山います。 それは日本の65年前の出来事と同じではないでしょうか。今こそ私たちが望むのは未来についての希望です。神様どうか私たちの国、世界、をあなたの愛によって導いてください、お互いを愛する精神を私たちの心の中に植えつけてください。あなたの光をもって私たちの人生の道を照らしてください。私たちの人生があなたの御心にかなうよう、主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 週報通算#1197 (日本語) 2012 1 22W 週報通算#1179 (英語) 2012 1 22,1197WE Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
January 17th, 2012
2012年1月15日顕現節第2主日聖餐礼拝説教「来てご覧なさい」”Come and See”岸野豊牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet ヨハネによる福音書1章43-51節 「来てご覧なさい」”Come and See” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン みなさんの中で、死海文書、或は死海写本という名前を聞いたことのある方、いらっしゃいますか? これは1930年の半ばに、発見された旧約聖書の写本です。迷子になった羊を探していた羊飼いが、イスラエルの死海北西のクムランと言う町の洞窟で壺に入っていた、850巻の写本です。この写本が今の私たちの旧約聖書に素晴らしい貢献をしているのです。 同じように偉大なるものは考えられない処から来るのです。今日の福音書にこう書いてあります。「ナザレの土地から、何の良い者が出ようか」。そういったのはナタナエルという男で、イエス様に呼ばれた12弟子の一人です。ナタナエルという弟子の名前はイエス様の12弟子の中で皆さんにあまり知られていません。しかし彼の別名はほかの福音書に出てくるバルトロマイであろうと言われています。 さて質問ですが、何故ナタナエルはナザレの土地から、何の良い者が出ようかといったのでしょうか? これはユダヤ人の歴史の中でナザレと言う土地について旧約聖書の中に一言も書かれていないからです。また、ナザレはイエス様の時代にはローマ帝国の駐屯軍がいたところでユダヤ人はこの外国人の多くいた、特に兵隊のいた場所を嫌っていたからです。預言者の書いたものに中にはメサイアをガリラヤの土地と結びつけた文章もありません。ましてナザレの町から今までに名を知られるようになった人は一人も出てこなかったのです。 そこで、ナタナエルはフィリポの後についていった時、メシヤ、救い主と呼ばれる人と出会うなど思ってもいなかったのです。ですからイエス様に初めて出会い、イエス様から自分のことを「見なさい。ナタナエルはまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われてびっくりしたのです。何で私のことをこの人は知っていられるのだろうかと疑問に思ったに違いありません。同じようにイエス様は私たちの口に出さない、ただ心の中で思っていることもすべてご存知なんです。神様から隠れて何かをしようとしてもそれも神様はすべてご存知なのです。そんな神様はいやだよ、ごめんだよと人は言うかもしれない。しかし私たちの心で思っていることさえ知っている神様は私たちを罰するために来たのではないのです。もう一度言います。神様は私たちを罰するために来たのではないのです。では何のため神様は私たちの元に来たのですか? 神様が私たちのところに来てくださったのは、私たちがイエス様を通して教えてくださった神様の愛を知ることです。それは私たちを赦すためです。私たちが実行する訳ではないのですが、心、頭の中で出てくる暗闇の中でするようなこと、暗闇の中で企むこともイエス様はご存知なのです。イエス様について行く私たちは、神様から逃げられないのです。それは神様から罰せられると言うより、神様は私たちを神様の愛によって素直な、心の清い、お互いを尊重する、お互いを大切にする人間として私たちを導いてくださっているのです。本当は愛される者でない私たちを愛する神様がイエス様です。イエス様の愛に触れて本当の愛の心がわかるようになるのです。 ところで、今日の福音の中でナタナエルとイエス様の何か謎のような会話があります。48節に、ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私はあなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「イチジクの木の下にあなたがいるのを見たといったので信じるのか? もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 ユダヤ人にとってイチジクの木は霊と実りのシンボルです。そして、イエス様が「私はあなたがイチジクの木の下にいるのを見た』といった意味は「あなたは神様の御心を受け入れる方である」と言うことなのです。それは喜びも悲しみも、疑問に思うことも、失敗もすべて神様にお話してください。そうすることにより神様はある形で、私たちに神様の御心を表してくださいます。ナタナエルはイエス様がどんな人か始めはわかりませんでした。しかしそれは今イエス様に関心を持つ、イエス様の教え、私たちへの約束とはどのようにしたら分かるようになるのだろうと考える私たちの姿ではないでしょうか? 私たちの周りには沢山の教え、宗教があります。それぞれが、私の宗教が神様から与えられた一番の教えだと言うのはわかりますが、西洋の宗教と言われているキリスト教は日本人の心を受け継いできた私たちにとって受け入れにくいものではないかと言う質問を多く受けます。 しかし聖書をよく読んでいくとキリスト教は別に西洋の思想の中から出てきたのでないことがわかります。それ以上にキリスト教はヨハネによる福音書の14章6節に書かれているように私は道であり、真理であり、命であると言われた、その言い方に私たち日本の文明を受け継いだものに近親間を持つ言い方ではないでしょうか? 日本の文化にはたくさんの精神的文化の道があります。お花を活ける花道、お茶の道である茶道、文字に心を表す書道、侍の精神の武士道、その一つ一つは精神を統一して、絶対なるものへの探求、そこで究極の悟りを受ける。私は同じようにキリスト教も悟りの道、しかし『神は愛なり』を言葉だけでなく、口先だけでなく、私たちの生き方を他者との中で実行するのだと信じています。それがいつも実行されていないと言う反省を私はしながら、神様の許しをいただいて生きていくのです。 聖書を読んでみると、イエス様の弟子たちも同じような生き方をしていることに気がつきます。 ナタナエルはイエス様に出会ったことにより人生が変わったのです。イエス様のことををほかのの誰かから聞いたからではなく、実際にイエス様から見えないイエス様の愛と聖霊に触れる生活を持つようになることで彼の人生も変わったのだと私は信じます。 今日の福音書のテキストはEvangelism, 福音の伝道のテキストとして良く使われます。Evangelism と言う言葉はギリシャ語のユウバンゲリオンという言葉から来ています。それは英語でGood News であり、よき訪れの言葉、それが福音です。 イエス様を受け入れた、また、福音を私たちの生きる中でのテキストとして人生を暮らせるように私たちは望むのです。キリストに従う生き方をするものは、言葉と行動も変わってくるのです。どうかイエス様の愛が私たちの心の中で生きる力と思いやりとなり、毎日の生活ができるように神様に祈りましょう。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコによる福音書1章4-11節 『水と命』”Water and Life” 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 私たちはのどが渇いている時冷たい水ほどおいしいものはありません。水は生命の源です。私たちの住む地球も70%が水で覆われています。私たちの体も80%が水だと聞いています。もし水、あるいは飲み物なしで人間は5日も経てば命が脅かされます。 水はその他にも私たちにお風呂またシャワーを与えて、洗濯も水なしではできません。水はまたダムのせき止められた水の力で電力を与えてくれます。料理も水なしではできません。夏の暑いさなかにプールに飛び込むことは楽しいことです。その他に冬でも、雨は雪となり、その雪でスキーなり、スノー・ボードのスポーツもできるのです。しかし水には恐ろしい力もあります。2004年の12月26日にインドネシア沖で起こつた地震と津波は5千マイルも離れたインド、スリランカ、またタイで28万人もの命を奪ったのです。2005年の8月29日に、アメリカではハリケーン・カタリナによる大きな災害がニュー・オリンズとその近郊を襲ったのは皆さんも知っているとおりです。 しかし世界中で、一番大きな災害と言えば、昨年の3月11日に東日本を襲った、千年に一回のマグニチュウ度9.0の大地震、津波、そしてその結果崩壊された福島第一原子力発電所です。今でも何回も何回も沿岸を襲った50メートル、60メートルの高さの津波、この破壊力のすごさはビデオで見ても恐ろしく、また、悲しくなります。 私たちにとって、水は身近にあります。ここにも水の入った洗礼式に使うBaptism Font と言うものがあります。洗礼を受けた皆さんは、この中に入った水を頭に注がれて洗礼を受けたことを覚えているでしょう。あるいは全身水の中に入って洗礼を受けた方もいるはずです。実際、私も1952年の4月11日のイースターに両親と教会員に見守れる中、小児洗礼を受けました。勿論それを覚えてはいませんが、その洗礼式は川島先生と言う戦争中は戦争反対運動のため投獄されていた初代の牧師先生と戦後日本に最初送られたオラフ・ハンセンというアメリカの宣教師によって授かりました。 日本人は水が身近にあるので水の必要性をあまり感じませんが、その反対に、ユダヤ人、パレスチナに住む人たちにとって水の確保は真剣な問題です。イスラエルは地理上、砂漠地帯です。ヨルダン川、ガリラヤ湖が水を提供しているのですが、雨が少なく、地下水も深く掘らなければ出てきません。イエス様の時代、女性の大切な仕事と言えば、朝早く町の井戸に行ってバケツにいっぱい水を汲んで来ることでした。その水で、料理をし、洗濯をし、行水をし、残りの水を自分の畑にある野菜に注いだのです。今では水の確保のためユダヤ人は地中海の海水を真水にするその技術では世界一だと聞いています。 今日の福音書の記事はイエス様自身が洗礼を受けるためにヨルダン川に来た記事です。多分、イエス様はべタニアと言う町に滞在していたでしょう、それは友達のラザロとその姉妹、マルタとマリアの家があって、そこに泊まっていたのかもしれません。ベタニアからヨルダン川までは1マイルぐらいの距離です。ヨハネはそのヨルダン川のほとりで「神の国の到来は近い。悔改めて洗礼を受けよ」と叫びながら人々に洗礼を授けていたのです。 らくだの衣を着て、イナゴと蜂蜜を食事としていたこのヨハネは一般の人から見れば仙人のような存在だったでしょう。しかしイエス様にとってヨハネは彼のまたいとこ、と言うのは、ヨハネのお母さんであるエリザベトとイエス様のお母さんであるマリア様は従姉妹どうしてあったからです。ヨハネもイエス様もお互いの事をお母さんたちから聞いていたと思います。また毎年エルサレムで行われる過ぎ越しの祭りにすべてのユダヤ人が参加するように義務付けられていたので、イエス様の家族はエリザベスの家族を訪れていたかもしれない。 ですから推測ですが、私はヨハネとイエス様は彼らの小さいときからお互いを知っていたと思います。ヨハネの神様から示された役目はイエス様こそ救い主であること、イエス様はご自身の神様の教えを人々に知らせるそのはじめにヨハネより洗礼を受けることを父なる神様から命じられていたと思います。 この時代、ユダヤ人にとって洗礼を言う儀式は特になかったのですが、水に罪を洗い流されて清いものとなるというと意味での洗礼、そしてそこで神の子として世に送る出されるキリスト教での洗礼はそれを預けたヨハネとそれを受けたイエス様で始まったのです。 マルコ、それは、マルコによる福音書を書いた人ですが、彼の頭の中に、何か大切なことが起こる時、天が開き、そこから人々に示す大事なことが顕されるとの予告が神様から知らされると信じていたのです。そしてその通り、イエス様が洗礼を受けたとき、天が開き、炎と鳩に象徴される聖霊がイエス様に下ったのです。神様の聖霊を受けたイエス様はすぐにサタンからの誘惑と戦うために荒野に導かれたのです。 さて、最後にクリスチャンとして受ける洗礼について、まだ分かるまで待つべきかと考えている方、迷っている方もいると思います。クリスチャンになると私たちの日本の先祖との関係はどうなるのでしょうかと心配する方もいるでしょう。 この質問に一言で言うならクリスチャンになるということは、自分の罪を知るようになる、しかし、その罪を赦してくださるイエス様という神様が私たちと何時も、一緒にいてくださる、勇気を与えてくださる、一緒に泣いてくださる、喜んでくださる、目には見えないかもしれませんが、その神さまがどんな時にも一緒にいてくださることを知るようになるということです。その時から、誰も独りぼっちになることがなくなるのです。でも分っていただけるでしょうか。最後まで、私たちは神様に見守られて生きる人生を持つことになります。 教会はクリスチャンだけの集まりではありません。初めは皆求道者の集まりです。しかし、その中で何時か、ある時、聖霊の働きによって私はイエス様に従うものになりたいと言う思いになるのです。イエス様を、わが主、わが神、と告白できるのもイエスの聖霊が私たちの心の中に入って来てくださるからです。 はっきり言って牧師としての一番の喜びは、神様の恵みと愛を皆さんと語り合う時です。この説教を書きながら、あなた方一人、一人のこと、特に求道者の皆さんのことを祈りの中に覚えているのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 週報通算#1195W (日本語) 2012 1 8W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
January 5th, 2012
2012年1月1日降誕後主日聖餐礼拝説教「名は人を表す』”What’s In a Name” 岸野豊牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet ルカによる福音書2章21-40節 「名前は人を表す」 “What’s in the name” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。 まず最初に、平成24年の元旦を迎えておめでとうございます。西暦では2012年ですね。昨年は東日本で起こった地震、津波、原子力発電所の事故、世界のあらゆる国で問題になっている経済問題、アラブ・スプリング、そしてアメリカでは今年の末に、オバマ大統領がまたもう一期、大統領に再選されるか、あるいは新しい大統領が選ばれるかの大きなニュースが続くでしょう。又、メキシコのマヤ文明によって何千年も前に作られたマヤ・カレンダーによると今年の10月に、世界を襲う災害が起こると言われています。しかしながら考えてみると、そのようなことは毎年のように言われてきたのではないでしょうか? 今年はどんな年になるでしょうか? 大切なことは私たちの生活の中で一日、一日、神様に与えられた人生を感謝して、お互いを助け合って生きることです。 今日与えられた新約聖書の日課は主に、シメオンとアンナという年取ったいわば預言者と呼ばれる人たちと赤ちゃんであるイエス様が両親に連れられて神殿に宮参りに来た時の記事です。しかし、この記事の初めにある21節に「8日が過ぎ、割礼を施す時となったので、受胎の前に御使いが告げたとおり、幼子をイエスと名づけた」。と言うただ1節だけの言葉があります。生まれた赤ちゃんに名前をつけることは、その人の人生の始めにあたって、とても大切なことです。与えられた名前は一生私たちに与えられたギフトであり、その名前が私たちの人生の道を整えるとも言われています。私ごとですが、私の両親は私の生まれる前すでに男の子なら『豊』と言う名前にすると決めていたと聞きました。それには理由があります。私の従姉妹(いとこ)、母の姉は私の生まれる6ヶ月前に娘を産んで「めぐみ」と名づけました。私の両親は、この二つの名をくっつけて『恵み豊かに』と言う聖書の中に良く出てくる言葉を考えていたのです。 名前は人を表すといわれています。そして、苗字は家柄を表すも言われています。その典型的な小説は皆さんも御存知のシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」です。ロミオの家族は有名なモンテギュウ、ジュリエットの家族はこれまた有名なキュプレットという家族ですが、両家ともお互いを敵のようにみなしていたわけです。小説の内容は皆さんの知っているとおり、ロメオとジュリエットは恋に落ち、結婚を夢見たのですが、敵対心の強い両家がそれを赦すことはないとあきらめ、ひそかに結婚をしました。しかし、その後、自殺と言う悲しい事件を起こしてしまったのです。これは日本で言えば、源氏と平家の争いのようなものではないでしょうか。自分を自分の名前から引き離すことはできないのです。このことを英語では “Your name is your Identity”と言います。 さてこの中に覚えている方、どのくらいいるかわかりませんが、1970年代の後半、ちょうどそれは私が、ペンシルベニアの神学校にいた時、多くの人たちがCBラジオにこり始めました。その流行に遅れまいと私もCB ラジオを始め、まず最初に7フィートの高さのアンテナを私の愛車、Ford Pinto に取り付け自分の名をYou-talk-a lot と言うハンドル・ネイムでしばらくやり始めました。しかし知らない人とくだらないことをしゃべるのがいやになってやめました。 私たちの名前は私たちのいろいろなことを表すのは本当です。しかし名前だけではなく、名前と私たちが一緒になって現されるのです。私の息子アンドリュウは私の一番好きなイエス様の弟子で、アンドリュウの名前は、彼の生まれる前から用意しておきました。彼は気立ての優しい子です。自分の意見は述べますが、それでもいつも自分の意見をほかの人の意見を聞かずに通そうということはしません。口数も少ないほうで、誰にもいつも親切です。息子をそのように表現する私は親馬鹿かもしれませんが、自分の息子に教えられることも多いのです。このアンドリュウの性格は本当にイエス様の弟子のアンドリュウの性格に良く似ているのです。 マルチン・ルターは言いました。「人が良いReputation を受けることは人生の一つの大切なBlessing である」と。ユダヤ人の赤ちゃんは生まれて8日目に割礼、Circumcision を受けるのが決まりでした。ユダヤ人にとって、割礼は宗教的に、民族的にも大切な儀式であり、神様から恵みをいただいたことを祝う時でもありました。 このルカによる福音書にはその時、イエスと言う名前が与えられたと書いていますが、イエスと言う名前の意味は、マタイによる福音書の中に、次のように書かれています。「見よおとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、「神我らと共にいます」と言う意味である。イエス様にはいろいろなタイトルが与えられています。それは、「平和の君」、「救い主」「キリスト」、「神の子羊」、「ダビデ王の枝」、「人の子」、「言葉」、「命のパン」、「ぶどうの枝」、「ドア」、「門」。その 他にもイエス様には沢山のタイトルがあるでしょう。 神様とイエス様は父と子という関係で表されていますが、聖霊も含めてこの3つのタイトルは切り離すことができません。この広い世界、宇宙の中で、父は創造主であり、子はイエス様という人として、聖霊は私たちの心を神様に向ける力として、私たちの心、思いの中にいつもいらっしゃるのです。 これは昔のヨーロッパの習慣ですが、二人の人が契約を結ぶとき、サインだけではなく、お互いが針で指を刺し、そこで出てきた血で印を押すのです。これはイエス様が私たちの罪を赦すにあたって十字架にかかって流された血による私たちへの契約と同じです。イエス様の流された血によって私たちは清められているのです。真心をこめて私たちの罪を告白し、イエス様に罪の赦しを求める時、イエス様は私たちと共にいて、私たちを清めてくださるのです。又、イエス様のみ名によって、私たちへの神様のすべての約束が与えられているのです。それは、永遠の命、救い、赦してあり、神様から与えられた平安と明日と云う日に向かっての希望です。 これは今世界中で心配されている経済の問題、宗教と宗教の衝突、人種差別などですが、私たち人類はお互いを自分たちの兄弟、姉妹として認めない限り本当の世界の平和は与えられないのです。神様は平和をすぐに力でくださると言うより、私たちに知恵と人々への思いやりの精神を確立することによって本当の平和を約束してくださるのです。 皆さんの良く知っている名前に、Albert Schweitzer (アルベルト・シュワイツアー)と言う人がいますが、イエス様のことを書いた短いDevotion を最後に紹介しましょう。 「イエス様は誰からも知られていない人として私たちの中に入ってきたのです。そして出会った人たちに言いました。『私に従ってきなさい』イエス様は私たち一人ひとりに私たちの時にあってしなければならない行いを、あたえられていのです。そのしなければならないことは私たちがイエス様の弟子となり、私たちの隣人に愛を持ってかかわってゆくことです。 その中にイエス様自身が私たちと共にいます。飢饉の中で、戦争の中で、すべての苦しみの中で。悲しみの時、嘆きの時、イエス様の名前を唱えなさい。イエス様の名前を信じなさい、神様のみ名によって救いの時、やすらぎの時、許しの時、そして喜びで涙を流す時も来るのですよ」と。 この新しい年を迎え、イエス様を愛する私たちが、お互いを信頼し、お互いを助け合い、お互いを理解しあい、お互いに素晴らしい人間関係を築いて生きてゆくことができるように祈ります。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace