Archive for December, 2014

Tweet ルカ2: 22-40 主の恵みと平安が、2014年最後の復活ルーテル教会日本語礼拝に集っている会衆の上に豊かに与えられますように! ある教会に、ひとりの信仰深い老人がいた。彼は礼拝に毎週参加していた。彼とその娘さん家族たちが礼拝に出ていることは大きな恵みであった。父の希望もあったのだろう、80才代後半になっていたが、娘さんたちはイスラエル旅行を計画され、実行された。  元気に旅行されて戻った翌日、いっしょに住む長女が仕事から帰宅すると、彼は聖書を開いてリクライニングチェアに座ったままの姿勢で天に召されていた。  考えてみると、彼が信仰深いということはとてもよくわかっていたが、彼が現役時代はどんな仕事をしていたか? 彼がどんなタイトルを持っていたのか、どんな家に住んでいたかなど、なにも知らなかった。 今日与えられた福音書には、シメオンという老人が描かれている。 彼はユダヤ教の司祭だったとは書かれていない。 どんな仕事をしていたか、どんなタイトルがあったかなど、よくわからない。  わかっているのは、シメオンという月並みな名前と、彼は信仰のあつい人であったこと、主の来られるのを待望する生活を送っていたこと、さらに聖霊が彼の上にとどまって救い主を見るまでは死なないという約束を聖霊から受けていたことぐらい。 当時のモーセの律法に従い、ヨセフとマリアは生後40日目にはじめて、イエス奉献のためにイスラエルへ神殿へと参拝した。シメオンも、聖霊に導かれて神殿に来ていた。そして、老人はイエスに出会うことになる。すなわち待望していた救い主との対面となる。 老人はイエスを抱き上げ、神を賛美した。そして、さきほど福音書の拝読で読んだ、すばらしい祈りを述べる。 本日の説教タイトルは「シメオンの見たヴィジョン」としたが、シメオンは祈りの中に、こう述べている。「わたしはこの目であなたの救いを見た。」  第三者から見れば、老人は単にマリアとヨセフが連れてきた赤ちゃんイエスと会っているだけである。しかし、シメオンの目には、聖霊の働きによって、奇跡的な光景が映っていたのだと思う。  シメオンが祈りの言葉を述べた後、信じられないような言葉をマリアに語った。イエスが、人々のつまづきの石になってしまい、十字架刑にすらかかり、マリアにとってもたいへんな心の痛手を負うことになることまで、見えてしまったのかと思う。  しかし、その向こうに、イエスの十字架の死を超えて、復活があった。 さらに死と復活の向こう側にある、主イエスによる、全世界の民の罪の告白と赦し、全世界の民への慰めと救いが、シメオンが見たVisionの中に含まれていた。 シメオンの祈りの最初の言葉からして、彼は主イエスに会った後は、この世の命は終了し、神の家に行かれたのかと思うが、それは、やすらかな死であり、死といえども喜びがあり、天国での永遠の命に与っているのだと思う。  さて、今日、クリスマス直後の2014年最後の礼拝で、与えられた福音書を読む中で、私たちは、今日の聖書の言葉の中のどこにいるのだろうか。 とくに今年を振り返るとき、最愛の方を失くし、悲しみに直面し、今も苦しんでいる人々がいる。 最愛の人をなくさないまでも、自分の両親のことで、自分の子供や友人との間で悲しみや苦しみを経験したこともあったと思う。 その中で、ああすればよかったとか、あんなこと言わなければよかったとか、後悔や、罪を告白する場面もあるのだと思う。 それらは、みな2000年前、シメオンがイエスに会ったときに見たビジョンの奥に含まれていたのだと思う。 わたしたちはそのビジョンの中に入っている。 さらに、そのビジョンの中で、主なる神は、主イエスキリストによって、わたしたちのその苦しみ、しがらみから解放し、私たちを復元してくださる力を担っている。 そのために、父なる神が、人間の体をもって、この世に送ってくださった。  今日、私たちの罪を告白し、そして、聖餐式に与り、私たちが2000年前にこの世に現れてくださった主イエスに救われている超本人であること再認識しよう。  この世の生活は、財産がいくらあるかとか、老後の備えは十分あるかとか、社会的な重要な地位についたか、あるいは、車とか高級な装飾品や衣服を身にまとうことがとかく話題になってしまう。 しかし、そのようなことに関係なく、シメオンをはじめとする、私たちの先輩、すでに天に召された多くの信仰者たちがそうであったように、豊かなる聖霊の導きにより、目を覚まして、主を再臨されることを待ち望み続ける信仰生活こそ、この世に生きる最高価値の着物である。主イエスを身にまとって、今年最後の新しい1週間を歩み始めよう。そして、新たに、主に与えられる激励、永遠の命を覚え、感謝して2014年を終え、2015年の新たな時を迎えよう。それは新たなる困難に向かうことになるかもしれないが、シメオンがイエスを介して見たヴィジョンの中に含まれていること、常に主の救いがあることを覚えて立ち向かおう。アーメン 安達均   “The Vision that Simeon Saw” Luke 2:22-40 May the Lord’s Grace and Peace be showered into the people’s hearts who’re gathered in Resurrection Lutheran Church’s sanctuary! May the Word be a blessing to all who hear it! Amen. There was one elderly person at a church. He never skipped Sunday worship, but he was always quiet and sat in any available pew. Even though he did not talk much, his presence was such a blessing to the church. The people who knew him and his family loved him. He and his wife (who passed away almost 20 years before) raised four daughters, who all became faithful Christians. And one of his grandchildren became a pastor a decade after his passing. Even though he was over 85 years old at the time; his daughters planned a family trip to Israel. He and his daughters had a wonderful trip to the Holy Land and came back to Tokyo in good health. Their dad was happy and it was a memorable trip. One day after they came back from Israel, the oldest daughter, who lived with him, returned home from work and found that her father went to his eternal home while sitting in his favorite chair, with the Bible open on his knees. When I look back, even though I saw him so often at church, in the sanctuary, I did not know what type of job…

Tweet 2015年が、希望と平和の年となりますよう、お祈り申し上げます。 2015年1月カレンダ-聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今年最後の礼拝を終えました。心から感謝を捧げます。 2014 年12月28日LCR日本語部週報通算第1335号 2014年12月28日(降誕後主日)の週報 December 28, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1335E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 主の聖誕をお喜び申し上げます。私たちは24日のキャンドルサービスを厳かにそして平安に迎えました。4時からの日英両語礼拝は、LCR日本語部の聖歌隊とのぞみミッションの聖歌隊が合同でクリスマスの特別賛美を行うことができ、大きな恵みでした。プログラム、そしてカール牧師の説教訳文を掲載いたします。 2014年12月24 日クリスマスイブ日英両語燭火礼拝プログラム。 2014年クリスマスイブ説教日本語訳 2014_Christmas_Eve_Bilingual Bulletin   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 12月25日はクリスマス当日、イエスの誕生日とされている。聖書には、イエスが生まれたのが12月25日だったとはどこにも書いていない。 しかし、文化的な背景もあるのだろう。キリスト教会は北半球で冬至がすぎて間もない12月25日をイエスの降誕日とし、さらに12日間を降誕節として祝ってきた。 それが、日本のように1月1日を元旦として大きなお祝いをする文化にも合致しているし、いろいろ都合がよく、そこにも聖霊の働きがあっておこっていることなのかと思う。 さて、クリスマス当日に与えられている詩編は98編。去年も一度とりあげているが、今日また読み、また余韻をぜひ降誕節終了まで味わっていただきたい。ぜひ各自で、詩編98編を読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの降誕節にあってひとりひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編98編 1:【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 本日は牧師からの観想の記述はお休みします。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ルカ福音書  1:26-38 主よ、恵みと平安を、待降節第四主日に、集まりました会衆の上に豊かに注いでください! アーメン ビートルズの晩年の名曲、レット・イット・ビーという曲をご存知の方、多いと思う。しかし、この名曲が今日読んだ福音書箇所と深い関係があることをご存知の方は、日本人の間では少ないのではないかと思う。 彼等が歌った多くの曲は、ジョンレノンとポールマッカートニーの合作とされているが、すくなくともこの歌詞は、ビートルズの活動がだんだんできなくなりそうな難しい時期に、ポールマッカートニーによって書かれたようだ。 事実、Let It Be をアルバムとしてリリースした後、ビートルズは4人での演奏活動はやめて、各自それぞれに活動するようになっていった。  その時の難しい状況というのは、Let It Beの最初の歌詞からしてもわかる。 ”When I find myself in times of trouble” つまり「自分が困難な時期にある時」といって詠いだしているわけで、ポールがどうしてよいかわからなかったような状況が想像できる。  そして、私たちの現実においても、仕事でも、こどもの教育問題にしても、親の介護にしても、あるいは自分自身の将来を考えてみても、自分でどうしてよいかわからず、悩んでしまう人生の現実がある。 さて、時代は2000年さかのぼる。どうしてよいかわからない状況は、イエスの母マリアにもやってきていた。ビートルズが解散しなければならないかどうかというより、種類の違う問題だと思うが、どうしてよいかどうかわからない状況には変わりはない。   マリアは大工職人のヨセフと婚約はしていた。 しかし、結婚前に、ガブリエルという天使がマリアに顕われて、「おめでとう、恵まれた方。」と話しかけてくる。 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込む。 すると、天使は「マリア、恐れることはない。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けるように。 その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。」と話をつづけた。  マリアは天使に言った。「まだ男性を知らない身に、どうして、そのようなことがありえますか。」 すると、天使は答える。「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、不妊の女とされていたのに身ごもっている。 神にできないことは何一つない。」 マリアはどんなにか悩んだことだろう。ただ悩むというより、たいへんな心配、恐怖感にさえ陥ったと思う。そもそも未婚の女性が妊娠することは、ユダヤの律法社会では考えられないこと。もし、妊娠しようものなら、ヨセフとの破談どころか、死刑にだってなりかねないようなことだ。 しかし、マリアは徹底的に謙虚に、ガブリエル、神の遣いの言葉を信じる。 そして、マリアは「わたしは主の僕です。 神のお言葉どおり、この身に成りますように。」と言った。 このマリアの言葉、新約聖書の原語であるギリシャ語には、「ゲノイト モイ カタ ト セマ ソウ」 となっており、「あなたの言葉通りに、この身になりますように」という意味。 英語で言えば “Let it be according to your word” となる。 最初のギリシャ語の「ゲノイト」が”Let It Be” 日本語で「成りますように。」 ここのLet It Be は、かならずしも、「ほうっておく」とか「成るようになれば良い。」という「無責任に放置する」という意味ではなく、It という代名詞の中に、「神のお言葉通り」ということが含まれている。 マリアは、自分ではどうしようもない事態で自分自身では何もできないけれども、この主のはしためである私を用いて、主のお考えが実現するようにと祈った。 それは信仰深い、受動的というよりむしろ自分を主のために用いてもらおうとする能動的ともいえる祈りなのだと思う。  今日与えられた、福音書箇所の中にある、マリアが天使ガブリエルを通して、神に祈った言葉から何をわたしたちは学んでいるのだろうか? 私にはマリアのその「神のお言葉通り、この身になりますように」、”Let It Be”という言葉に、イエスの母、マリアの信仰深いすばらしい祈り、姿勢、さらに行動を見る思いがする。そして、その言葉は、さらにビートルズが歌って大ヒットしたLet It Beを今一度聞いて、私たちの信仰者としての祈りの姿勢、態度、そして行動を、さらに問われるような面があると思う。 ちなみに、さきほどのLet It Be の歌詞の続きを少し紹介すると、”When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, let it be.” 日本語に訳すと、「困ったことになって悩んでいると、マリア様がやってきて、すばらしい言葉をくれたんだ、身をゆだねなさい。と。」 ちなみに、ポールマッカートニーの母はポールが高校時代に亡くなっているが、その名前もマリアだった。 だから、ポールマッカートニーは自分の母親が夢で現れて、「Let It Be」と歌っていたのかとも思う。しかし、ポールは、イエスの母の言った言葉も意識していたように思う。いや、たとえポールが意識していなかったにしても、神の思いがそこに働いて、マリアの祈りの言葉がこめられていると思う。その証拠に、ポールはこの曲ができた後、アレサフランクリンというゴスペル歌手に歌ってもらっている。  私たちの人生、本当にどうしようもない、壁、難局に直面する。 たとえ自分では何もできないと思うときでも、そこには、必ず、少なくとも一つできることがある。 私たちは、神に祈ることができる。 「神の思いが成りますように」、”Let it be, according to your word.”と祈ることができる。 あるいは、主の祈りの中にある、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と真剣にあきらめずに祈ることがどんなに大切なのかと思う。 そして私たちを神のために用いてくださいという態度をとるなかで、私たちがとるべき言動、行動へと導かれる。自分の思いではなく、神の思いにしたがって、生きるなかで、すばらしい光が射してきて、永遠の命に生きることができる。  アーメン 安達均  “Let It Be” Luke 1:26-38 Lord may you pour your grace and peace unto the people gathered in this sanctuary on this fourth Sunday of Advent! Amen. I believe everyone knows “Let It Be,” a great Beatles song on their final studio album of the same name. But I am not sure how many of you know the close relationship between the Gospel I read and “Let It Be.” Although many of their pieces were composed by John Lennon and Paul McCartney, this piece was written by Paul. When Paul wrote this piece, it was during very difficult time in the lives of the Beatles. Shortly after the release of this album the band broke up. John, Paul, George, and Ringo went their separate ways. We can easily relate to the lyrics of the song, as Paul sings, “When I find myself in times of trouble.”, Paul is not the only person to experience difficulty, each of us often find ourselves in times of trouble. Examples of difficult…

Tweet 2014年12月21日LCR日本語部週報通算第1334号 2014年12月21日(待降節第4主日)の週報 December 21, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin 2014_Christmas_Eve_Bilingual Bulletin Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet クリスマスを一週間後に控えて、今週は詩編89編の1-5節と20-27節を読む。89編は53節もあり、とても長いが、上記の箇所を集中して読む。いつものようにインパクトを感じる言葉や気になる節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編89編を通して、待降節を過ごす私たちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。   詩編 89編8-19節 1:【マスキール。エズラ人エタンの詩。】 2:主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。 3:わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」 4:「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った 5:あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」〔セラ 20:あなたの慈しみに生きる人々に/かつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。 21:わたしはわたしの僕ダビデを見いだし/彼に聖なる油を注いだ。 22:わたしの手は彼を固く支え/わたしの腕は彼に勇気を与えるであろう。 23:敵は彼を欺きえず/不正な者が彼を低くすることはない。 24:わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし/彼を憎む者を倒す。 25:わたしの真実と慈しみは彼と共にあり/わたしの名によって彼の角は高く上がる。 26:わたしは彼の手を海にまで届かせ/彼の右の手を大河にまで届かせる。 27:彼はわたしに呼びかけるであろう/あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩、と。 インパクトがある、あるいは気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は27節の「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父。」   詩編作者の立場を思って詩編89編を読んでいきたい。89編の1節から5節は今年の6月26 日にも読んでいて、繰り返しになるが、マスキールとは詩編の中でしばしば使われている言葉で、ヘブル語の元々の意味は「悟る。」転じて、「教訓的な詩編」という意味をもつ詩なのだと思う。2節から5節は主への賛美。永遠の主の慈しみ(憐れみ)を覚え、私も代々にわたって子孫たちも、主をほめ讃えます、あなたの真理を告げます(2節)。 私は詠う、「天には永遠なる慈しみが用意されており、あなたの真理が天に立っている」(3節) 。4-5節では、主がダビデに約束した、「子孫を永遠に立て、王を代々備える」ということを詩編作者は人々に思いだすようにと喚起しているのかと思う。5節は「セラ」という休符の記号で閉じる。 20節から27 節は、具体的に主がダビデに対して語り実行されたことを、主が「わたし」という第一人称となって詠っているようである。以下、27節までのいくつかのポイントのみ記す。主がダビデに油を注いだ- – – 油を注ぐには、メサイア、救い主の意味がある(20-21節)。主は彼をサポートすること、そして勝利を約束する(22-24節)。神の真理と慈しみは彼とともにあり、彼は崇拝され、彼の力は全世界の大海、大河にまで及ぶ(25-26節)。そしてその彼が、私のことを「わたしの父、神、救いの岩」と呼ぶであろう(27節)。    この89編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? 今日読んだ、20-27節は単に、主とダビデの過去の出来事を詠っているように思えるが、よく読み返すと、そこには救い主イエスのことが詠われているような気がしてならない。5節にあった言葉には、「ダビデの子孫をとこしえに立てる」ということが詠われていたが、ダビデの子孫とはだれなのか? また今日の詩編箇所の最後で、「あなたは私の父」と言うのはダビデのことなのだろうか? 後にこの世にダビデの子孫として顕われたイエスが、繰り返し神に向かって「私の父」と呼ばれていたことを思い出す。 詩編は150編あるが、紀元前数百年間に、150編の詩だけが詠われていたわけではなく、旧約聖書の詩編には掲載されなかった詩もたくさんあるのではないだろうか?その中で選ばれた150曲は、紀元前の大ヒットチャート150ともいえるのではないだろうか? その中で、人々はヒット曲の深い深い意味に気がつかずに繰り返しユダヤの礼拝で詠われていたような面があるように思う。そして、現在においても、私たちが気が付かずに歌っている、ポピュラーソング、クラッシックソング、歌謡曲、演歌、あるいは民謡でも、そこに神の御心が潜んでいて、神の思いを表している曲があるという教訓を与えられているように思う。  アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ヨハネ1: 6-8, 19-28  たとえこの世が真っ暗闇に感じることがあっても、主イエスの光の輝きに気づくことができますように! アメリカに来る前に家族で毎日曜礼拝に出ていた東京にある教会は、「あかしびと」という教会のニュースレターを毎月、発行している。漢字で書くなら「証し人」となるが、漢字の構造を見れば、「正しいことを言う人」ということになる。しかし、わざわざひらがなを使っているのは、意味があってそうなっているように思う。  この言葉、単に「正しいことを言う人」というより、さらに二段階くらい深い意味がありそうだ。一段階目は、裁判で「証人」という言葉が使われるので、「証人」という言葉を用いて説明すると良いように思う。 そこには目撃した、なにかを実体験したという人が証人となる。 そして教会で使う場合は、主なる神と出会う体験をして、神がおられること、神の愛を感じるようになり、その体験を述べる人。 私は、今日与えられた福音書から、「証し」という言葉の、さらなる深さというか、さらにイエスの輝きが見えてくるような面があるのではないかと思っている。ヨハネ1章6-8節には、洗礼者ヨハネは「光について証しするため」という言葉が繰り返し使われている。「証し」という言葉は3回出てきた。ヨハネ福音書の中では、洗礼者ヨハネの「光についての証し」に端を発して、すべての人が光を信じるようになることが啓示されていたのだと思う。 しかし、その「光についての証し」とはどういうものなのだろうか? この質問に答えるには、「さてヨハネの証しはこうである。」という言葉で始まる、ヨハネ1章19節以降を読んでいくことが大切。 それにしても、当時の時代背景を説明する必要がありそうだ。当時のユダヤ地方に住む人々は、ローマ帝国の圧力がますます強まり、政治的には、ローマに圧倒されてしまっていたような状況があった。  そこで人々の生活は、ユダヤ教の宗教的なさまざまな律法を守ることに加え、ローマ皇帝への税金も増え、人々の暮らしは困窮していたと思われる。さらに、ユダヤ人としてのアイデンティティが無くなってしまう恐れから、経済的にも肉体的にも、また信仰の上でも「真っ暗」という気持ちの民が多くいたのかと思う。 そのような状況で洗礼者ヨハネが出現する。 それは、「お先真っ暗」なユダヤに顕われた「期待の星」のような存在だった。マルコ福音書によれば、ユダヤ地方エルサレムの全住民が洗礼者ヨハネの元にやってきて、悔い改めの洗礼を受けたとまで書いてある。 しかし、エルサレムの指導者たちには、疑う者もいた。そして、司祭たちを遣わして、洗礼者ヨハネに質問させる。「いったいあなたはだれなのか? 待望していた救い主なのか、あるいは、過去の預言者エリヤの再臨か、あるいは、一預言者なのか。」これらの質問に対して、どれもNOと言う洗礼者ヨハネであった。 そして、洗礼者ヨハネは、イザヤの言葉を引用して、「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」という言葉を述べる。 しかし、司祭たちは何を言われているのかよくわからないので、「いったいあなたはなぜ洗礼を授けるのか?」という質問をしてくる。  そこで洗礼者ヨハネは大声で叫ぶ。「あなたがたの知らない方が来られる。わたしが水で洗礼を授けているが、わたしの後に来られるとてつもない方がいる。」そこには、洗礼者ヨハネの後に来られる方によって、真っ暗闇に生きる当時のユダヤの民がその輝ける方、光を見ることができるという、先取りした証しを述べたと言える。   2000年後の今、この荒れ野での「声」と「光」はどういう意味を持っているのだろうか? この待降節にあって、真っ暗闇の状況に生きておられる方々がいる。しかし、人々は光を見る。現実問題、真っ暗なところに行けば行くほど、星が輝いてみえる。 私は真っ暗闇なんかにはいないという方もいる。しかし、だれも真っ暗闇を経験しないとは保証できない。人生、まさかと思う暗闇に突入することがある。突然の解雇とか、思わぬ交通事故、愛する友人や家族の死。そのような真っ暗闇にあっても、私たちは、光を見れるようになる。その光とは、人々の考え方を完全に変えるものすごいインパクトのある方。その光なる御方により、人生の暗闇の中に、ポジティブな面が見えてくる。 正しいことを話す「証し人」の話に戻りたいが、ひらがなの「あかしびと」には、単に自分の体験談を話すだけではなく、その方の生き様、病や死、さらに死後にも主の輝きを現す人々だと思う。洗礼者ヨハネからはじまって、とてつもない数の救い主イエスの「あかしびと」が出現した。 冒頭で「あかしびと」には二段階の深い意味があると思うと言った。その二段階目は、この礼拝堂にいる一人一人が、永遠の命に生きる信仰生活を通して、世の光、平和の君、最高の慰め人、愛の塊のような御方を証しする、「あかしびと」である。 アーメン 安達均 “The Voice and the Light” John 1: 6-8, 19-28 May the Light of our Lord, Jesus Christ, shine in the midst of our world’s darkness. The congregation that Satoko and I attended before we came to the US, has been issuing monthly newsletter called “証人” “Witness.” If I explain the characters, the word means: “言” “to say”; “正” is “right”; and “人” is “Person or People”. Therefore, the phrase is “People who say right things.” However, when we use “Witness” in Christianity, it has much deeper meanings. I believe it has two deeper levels. The first level is: the term “witness” is often used in court cases; most people are familiar with this meaning. A “witness” in a court case is a person who makes a statement in a court about what he or she knows, has seen, or experiences. When we refer to “witnesses” in Christianity; they are people who experience God’s love and talk about what they experienced. I think the Gospel today gives us another level of deeper meaning of witness, so that we might see shining light of Jesus Christ even more clearly. I read the word “Witness” three times from the gospel of John verses 6 through 8. I believe the Gospel text today is indicating that all people on earth might see the Light, Jesus, through the witnesses, beginning with the Baptist John, 2000 years ago. However who…

Tweet 2014年12月14日LCR日本語部週報通算第1333号 2014年12月14日(待降節第3主日)の週報 December 14, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin(Third Sunday of Advent) 1333E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]