Tweet 「今をどう生きるか」 ルカ 16: 19-31 主イエスキリストの恵みと平安が皆様方の上に豊かにありますように! アーメン 先週の秋分の日、日本ではお墓参りに行く習慣がある。この復活ルーテル教会では、召天者記念礼拝が行われた。皆様のご協力もあり、またもっとも重要なこととして聖霊の助けにより、天国にいる方々との交わりの時が持てた。 礼拝を終えたあと、食事の時を持ち、故人の思い出を分ち合う機会が与えられた。 そして、月曜から日頃の生活に戻ったが、どのような一週間だっただろうか。 故人を思い出すことが、なにかみなさんの一週間に変化を与えただろうか? 私は、40代で亡くなった友人のことを思い出していた。 膵臓癌になった彼が、なぜ自分がすい臓がんにならなければならないか等ということを質問するより、現実に迫ったこの世の死期を前に、家族や友人との交わりに感謝し、信仰を持ち、この世の生活を全うしたことを思い出した。 そして、私を牧師に導いたともいってもよい彼の言葉を思い出した。彼の今の天国での幸福を確信するとともに、神が彼を通して与えた伝道という使命を今一度思い出し、新たに、牧師としての仕事に取り込む思いのする一週間となった。 さて、今週与えられている聖書、大金持ちとラザロのたとえ話。 大金持ちとラザロが死後、天国に行きどのような状況になるかの話。 大金持ちは、この世では贅沢三昧をしていた。もう一方で、貧乏人ラザロは、見るも無残な生活を送っていた。 ホームレスであることはもちろん、犬にできものをなめられる、それは貧困中のなかの貧困という生活を送っていた。大金持の食卓から落ちてくる食べものを食べれないものかと思って生きていた。 そのラザロが死んだが、葬式をしてくれる者もいなかったのだろう。ところが、彼は天使に連れられて、天国で上座にいるアブラハムの隣に座る。一方、大金持ちもやはり死に、贅沢な葬式が行われたと思われるが、天国に行くとどうだろう。アブラハムやラザロのいるとても気持ちの良いところの手前に深い割れ目があって、そこを渡ることができず、炎の中で苦しみもだえている。とても天国と呼べるところではない。その割れ目は自分の力では越えることはできず、いろいろなお願いをするものの、この世で贅沢三昧をしたことで、炎の中で苦しみもだ続けるしかない。アブラハムからは、お前はなんでも手に入れいたいものを入手できたが、ラザロは何も持たなかったと諭される。 イエスはなぜ、こんな話をしているのだろうか。 また、いったい誰に向かってこんな話をしているのかよく考えてみたい。 話の前後関係からいって、イエスのたとえ話は、お金に固執してしまう、ファリサイ派というグループの人々に向かって話している。ある意味、ファリサイ派の人々は大金持ちと共通した面があり、お金に固執していた。モーセや預言者たちの言葉を読んではいるものの、実際にはそれらの話に基づいた行動をしていない生活をしていたと思われる。もし、信仰をもってそれらの言葉を読んでいたとすれば、貧しい人々や寄留者たちと食物を分かち合っていたのだろうが、大金持ちと同じように、貧乏人と分かち合うということはしていなかった。 たとえば、ミレーの絵画になっている申命記の落ち穂拾いの話は有名だし、イザヤ書の58章の6節7節には、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」とある。 第一日課にあったアモス書もいってみれば、社会正義に関する話。 つまり、イエスはこの大金持ちとラザロのたとえ話をする中で、旧約聖書の言葉を読むものの、実生活ではお金に執着してしまい、当時のイスラエル社会で困難の中にある人々を見下していたようなファリサイ派の人々に、もともと神がモーセや預言者たちを通じて、どう行動するように言っていたかに気づいてもらうため、イエスは話しているのだと思う。 では、このたとえ話は私たちに何を語っているのだろうか? このたとえ話は、大金持ちと、貧乏人ラザロの死後の世界のたとえ話だが、この話は、私たちの死後の世界の問題というより、私達が、いまどう生きるかをするどく問われているように思う。 私たちは、神なるイエスが、どのようなことに一生懸命であるかよく覚えておく必要がある。そしてイエスが私達を愛し、私達もそれに気づくという関係の中で、イエスが私たちを徹底的に赦すイエスの信仰によって、私達も聖書に書かれていた神の行いに導かれる。 3週間前の9月8日は、オレンジカウンティのELCAの教会がホームレスや困窮の中にある方々の食料を集める事を行なった。 私達が寄付するだけではなく、スーパーマーケットの前に立ち、できる方には寄付を呼びかけ、たいへんな量の食料が寄付された。 しかし、困難の中にある方々に奉仕するのは、一日限りで終わってはならない。 今一度、私達教会に集うものは、イエス・キリストの体の一部となって奉仕活動をするように導かれている。 イエス・キリストは、宣教することと、病気や貧困の中にある方々に憐れみをいだき奉仕することに本当に熱心な方だった。 キリスト教徒はイエスの信仰によって、イエス・キリストが我々に行動して欲しいことをするようになる。 今週与えられた譬え話、イエス・キリストの英知が、わたしたちの今週の生き方を変え、この世の中がさらにキリストの御国へと近づきますように。 アーメン How Do We Live Now? Luke 16: 19-31 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Amen. Last Sunday was the Autumnal Equinox. In Japan, during autumn, it is customary for people to visit cemeteries to remember loved ones. Therefore, in this Japanese ministry, we do a special Memorial Service on a Sunday around the Autumnal Equinox. I believe that it was a great service to remember our loved ones. In addition to the service, it was great to have lunch together and share stories of our loved ones with each other. Then on Monday we returned to our normal weekday schedule, but how was last week for you? Did remembering a loved one change the way you lived last week? For me, I was thinking about my friend who passed away 16 years ago due to pancreatic cancer. Before he was diagnosed with cancer, he was not a Christian but then he accepted Christ as his savior. While he was fighting cancer, rather than ask God why he got cancer, he thought about how to better live with his family, friends, and most importantly with God faithfully. It is not an exaggeration to say the way he lived changed my life. What he said to me several weeks before he passed away changed the course of my life from a corporate employee to becoming an ordained pastor….
Tweet LCR日本語部週報通算#1275号(日本語) 2013年9月29日の週報 LCR日本語部週報通算#1275E合[英語) Sunday English Bulletin 1275E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
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Tweet 今週読む詩編は146編。いつものように3回読まれることをお勧めしたい。 1:ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。 2:命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。 3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。 4:霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。 5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 6:天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。 とこしえにまことを守られる主は 7:虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 8:主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 9:主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。 10:主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。 先週与えられていた詩編は113編はハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編だった。 今週も同じようにハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編。 実は、詩編146編以降は、最後の150編まで、すべてハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編となる。 150ある詩編の結論は、「ハレルヤ」(主を賛美せよ)とも言える。 最後の5つの詩編の最初、146編について、1-2節、3-6節前半、さらに6節後半から10節までに分けて、以下、思ったことを書いておきたい。 1-2節: 私もみんなも主を賛美せよ 1節では、一見、「わたしの魂よ」という言葉の中に、詩編作者個人が自分自身に「主を賛美するように」呼びかけているかのように読めるが、2編を読み、さらに3編以降に移っていくとき、決して詩編作者個人で賛美するのではなく、自分の属するコミュニティ、ひいては人類全体へ「主を賛美せよ」と呼びかけているように思える。 3節-6節前半: 誰を頼るか 君候、昔の中近東やヨーロッパの文化で言うなら領主、日本なら大名に相当するような人々、つまり一般市民を支配する立場にあるような人々に頼っても、所詮彼等は人間であり、死が訪れてしまい、頼り続けることはできない。 だから、主なる神に頼る人々は幸福である。 その主なる神は、大昔に天と地と海を造られた方であり、また、現在もそこに住むものすべてを造り続けておられる方。 6節後半-10節: 貧困の中にある方々を憐れむ主 すべてを創造された主なる神は、虐げられている人々、飢えている人々、捕囚されている人々、目の見えない人々、うずくまっている人々を憐れんで行動を起こしてくださる。 主に従う人々を愛し、孤児や未亡人も励ます。 そして、主に従わないものは、その歩みをひっくり返してしまう。 主なる神は、代々永遠に続く王。 だから主を賛美しよう。 「今をどう生きるか」 9月29日の日曜日に与えられている聖書の箇所はルカ福音書16章にある金持ちとラザロの話。 金持ちとラザロが、死後に行く天国では、立場が逆転してしまうような譬えをイエスは話されている。 その話は、私達の死後の世界への予言というより、現実社会で富める層と貧困層との間に大変な格差がある現実のなかで、私達がどう生きるかを問いかけているのだと思う。 そして、今週、いっしょに与えられている、詩編146編に関しても、ただ昔に詠われた詩編を読んで鑑賞するというのではなく、21世紀を生きる私達に、「今どう生きるか」を問いかけているように思える。 表題に書いたように「主に頼り、主を賛美して」生きることはもちろんだが、主に頼り主を賛美する中で、さらに、私達ひとりひとりにできることをするように、主が行動へと導かれる。 復活ルーテル教会の中で、さまざなな困難にある方々のことを覚えるとともに、ホームレスの方々、またホームレスではないものの、日々の食料に困っている経済的な困窮の中にある方々の上に主の憐れみを祈り、また教会につながる者が、つまり主イエス・キリストの体である教会が、さらなる行動を起こし続けることができますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ2:1-5 主イエス・キリストの恵みと平安がお集まりの会衆に豊かに注がれますように! 天国にいくことができるのは、キリスト教信仰のある方だけなのだろうか? 聖書を読んでいると、たしかに、そのように読めるところはある。アメリカにいるクリスチャンに聖書で一番好きな箇所はと聞くと、ヨハネ福音書3章16節と答える方が多い。そこには,「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とある。神の独り子であるイエス・キリストを信じる者が、永遠の命を得られるとある。 では、信じていない者は、どうなってしまうのか? 日本では、1%もクリスチャンはいない。では99%の方々はどうなってしまうのか? イエス・キリストの愛を何も伝えられないまま、亡くなる方や、洗礼を受けるまでにいたらずに、亡くなる方々はたくさんいる。それは、私たちの友人や親戚でも。 さきほど読んだ聖書の箇所、中風と書いてあるが、たぶんストロークに襲われ、動けなくなってしまった方だと思う。病状はくわしく書かれていないが、意識もまったく無かったのではないだろうか。ストロークを起こす前は、とくに信仰心があったというわけでもなく、暮らしていた方だったのだろう。しかし、イエスに望みをおく信仰者の友人たちが、必死になって、担架に乗せてイエスのところに連れてきた。 イエスがある家で説教していたので、たいへんな人だかりで、担架を運び込むスペースなどありはしない。そこで、屋根に上がり、屋根の一部を開けて、担架ごと、屋根からつるしたまま、その人をイエスのところに降ろした。 すると、イエスは、その友人たちの信仰を見て、その担架に寝ている人の罪を赦し、救われる。この話で鍵となっているのは、担架でその人を運んできた人々の信仰。担架に乗っていた癒された本人の信仰ではなく、友人たちの信仰により、神なるイエスは、その担架にいる人を救われる。 今日私たちは、先に亡くなった多くの友や親戚のことを覚えている。もちろん、キリスト教の信仰をもって亡くなった方々もたくさんおられ、残された家族も、はっきり故人は天国に行っていると確信できる。しかし、洗礼を受けるまでにはいたらずに亡くなった方々や、仏教や日本神道の信仰を持たれていた方々もいる。信仰にはほとんど無縁で生きていた方々だっている。しかし、私たちには彼等が天国におられないとは聖書の言葉からしても断定できない。そのような裁きは神のみができることで私たちの仕事ではない。むしろ、先にこの世の命を終えられた方々の友人や親戚の人々の信仰により、私たちは、イエス・キリストが、今日私たちの心に覚えるすべての方々を、信仰や文化の違いの壁を超えて、すべて天国に招き、今も永遠の命を与えくださっていると信じることができる。アーメン。 A Friend’s Faith Mark 2: 1-5 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into this assembly! Are the people who are promised eternal life in heaven, only Christians who believe in Jesus as son of God? There are scriptures that seem to strongly suggest this. It is said that Christians in the United States like this Bible verse most, John 3:16, which reads, “For God loved the world so much that he gave his one and only Son, so that everyone who believes in him will not perish but have eternal life.” Everyone, but who believes in Christ, son of God, will have eternal life… So we wonder, what will happen to those who do not believe in Christ? In Japan, the number of Christians is only 1% or even less for the whole native Japanese population. What will happen to the 99% of Japanese after they pass away? There are plenty of people who were not told about Christ and they passed away. Or there are many who even though they were told about Christianity a bit, were not baptized and then passed away, including some of our friends and relatives. The scripture, I read a short time ago, about the paralyzed man on the mat; he probably suffered a stroke and could not move any portion of his body and was unconscious. Before he suffered his stroke, he was not living a faithful life. However, his friends or relatives who…
Tweet 週報通算#1274号(日本語) 2013年9月22日(召天者記念礼拝)の週報 週報通算#1274E合(日本語) Sunday English Bulletin 1274 (2013 Special Memorial)E 3 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 詩編を読もう:主は偉大ですばらしい (詩編113) 今週読む詩編は113編。ユダヤ教の伝統では、過越しの祭りの際にうたわれる詩編のひとつ。 短い詩編なので、いつものように3回読まれることをお勧めしたい。 1:ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ/主の御名を賛美せよ。 2:今よりとこしえに/主の御名がたたえられるように。 3:日の昇るところから日の沈むところまで/主の御名が賛美されるように。 4:主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。 5:わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き 6:なお、低く下って天と地を御覧になる。 7:弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥(あくた)の中から高く上げ 8:自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。 9:子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。 ハレルヤで始まり、ハレルヤに終わるこの詩編、どのようなことに思いをもたれただろうか? さっと読んだだけで内容があまりよく把握できなかったとしても、なんとなく、気持ちが晴れ晴れしくなるような詩編だと思う。 このハレルヤの意味は、「主を賛美せよ」という意味だが、日本語に訳された詩編なのに「主を賛美せよ」とは訳さずに、ヘブライ語の言葉をそのまま用いて、その響きが、うれしくて喜ばしい感じがしてとても良いと思う。 以下、二つのハレルヤにはさまれた中身について、1-3節、4-6節、7-9節に分けて書き留めたい。 1-3節:時と場所を超えて主を賛美せよ 最初のハレルヤに続いて、1節の残りの部分から3節までは、主に仕える者たちよ、とにかく主を賛美せよ、という呼びかけの言葉。どのように賛美するかというと、「今よりとこしえに」(2節)、つまり時間を越えて永遠に。また、「日が昇るところから日の沈むところまで」(3節)、つまり、すべての場所。 4節-6節:主は偉大 1-3節で、時や空間という次元を超えて、主の御名を賛美するように。と詠う以上、その続きには、なぜ主を賛美するかの理由が歌われる。 なぜなら、主はすべての国を超え、つまりさまざまな国の事情を超越した天の高いところに居られ、主の栄光は天をも越えて輝いており(4節)、その方こそが私たちの神であり、そこに並ぶものはいないし、とても高い所に主の座を置いておられ(5節)、かといって、地上のできごとに無関心というわけではなく、へりくだって、地上に起こる、さまざまな出来事もご覧になる(6節)ような偉大な方だから。 7節-9節: 主はすばらしい 主を賛美する理由はさらに続く。 主は天からただご覧になっているだけではなく、世の弱者や貧困の中にある者を立ち上がらせてくださり(7節)、束縛された民を自由な民に戻してくださり(8節)、子の生まれない人に、子供を持つ親の喜びを与えてくださるような方だから。 この詩編113編の後半に、過越しの祭り(エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放されたという事実を覚え続けるお祭り)で歌われる要素が含まれている。 かと思うと、この113編はクリスマスにも実は関係が深いと思う。たまたま、15日に行なった信徒会で、クリスマスに日本語部では何を歌うかが話し合われ、讃美歌21の178、「あがめます主を」というマリアの賛歌が候補に挙がっていた。その歌詞1節と2節を以下に記すので、詩編113編の内容と重なってくる部分があるのをおわかりいただけるかと思う。 1. あがめます主を、わが魂。 たたえます主を、わが心は。 名も知れぬ娘を 主はあえて選び、み子の母として 用いられた。 2. 求めます主は、弱い友を。 訪ねます主は、貧しい人を。 つきぬ愛そそぎ 痛みをとりさり、低きを高める ちからの主は。 今、日本語部の中には、多くの方々が病の中にある。またクリスマスまでの間に洗礼を受けようとされている方々もおられる。 ひとりひとりに主の愛が豊かに訪れ続けるように祈り、またクリスマスを迎える準備が、たとえどのような体調であったとしても、わくわくする喜びを覚えながら、少しづつ準備が進みますように。 主を崇め、賛美しつつ。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet “百人に一人か100%か?” ルカ 15: 1-10 主イエス・キリストの恵みと平安が皆様方に豊かにあるように! 「罪人」という言葉を聴いた時、この言葉をどのように捉えているだろうか? キリスト教ではよく使われる言葉だが、その意味は、よく理解されておらず、日常の会話であまり使われる言葉でもない。 キリスト教で使われている「罪人」という言葉の背景をよく理解していない方々と話した時に、「犯罪人」の意味で理解されていることがある。 したがって、「私は罪人ではありません。」と言われたりする方々に出会う。そのような時、「犯罪者ではないことはわかりますが、何か知らないうちにある方のことを傷つけた経験はないだろうか?」あるいは「何か自分がしていることは神を喜ばすものではないと思われたことはないだろうか?」と質問する。するとたいてい「罪人」という言葉の意味についての会話は先に進まない。 本日の福音書は「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえ話。イエスは神を羊飼いにたとえてよく話されたし、また、旧約聖書にも神を羊飼いにたとえている箇所は出てくる。 したがって、そのたとえはわかるが、それにしても、この世で百匹の羊を持っている人が、一匹いなくなったところで、その一匹を必死になって探して、見つかったら友人や近所の人々に言いふらして大喜びするだろうか? 二番目のたとえ話では、イエスは、神をコインを必死になって探している女性にたとえているが、それにしても、たとえば1000ドル持っていた人が、100ドル札を無くして、その100ドル札が見つかった時、近所の人々や友人たちに話すほどに喜ぶだろうか? 今日の福音書箇所ではないが、イエスはこれらのたとえ話の後、有名な放蕩息子のたとえ話をしている。イエスは神を、二人の息子のうち一人が放蕩の限りを尽くしてしまう父親にたとえている。それにしても、放蕩息子が帰って来たからといって、息子のために最高の羊を屠って、近所の人々や友人たちを呼んで大パーティをするだろうか? むしろ、現代の父親であれば、放蕩の限りを尽くした息子が帰ったとしても、静かに自分の家だけで喜ぶか、あるいは場合によっては、喜ぶどころか、その逆の場合もあるのではないかと思う。 つまり、これらの三つの話が、この世の話だとすれば、羊飼いも、銀貨を探す女も、放蕩息子の父親も、異なる反応を示すのでないだろうか。 この三つのたとえ話、99人は特に悔い改める必要が無いとイエスは話したが、次の無くした銀貨のたとえでは、残りの9人について悔い改め云々の話はしていない。 そして、放蕩息子の話では、父の喜びのパーティに賛成できなかった兄をたしなめており、兄の方だって、悔い改めるべきことがある。 さてこのような話の中に、あなた自身が登場するとすると、だれに当たるだろうか。 すくなくとも今日教会にこられている方々は、迷った羊でも、無くなった銀貨でも、放蕩息子ではなく、正しい方々のように思う。 しかし、本当にそうだろうか? たとえ、正しいとされる方々でも、実は、人生で大きな迷いに遭遇することもあるのだ思う。 ここで、イエスはこれらのたとえ話をいったいだれに話しているか、振り返ってみたい。 ファリサイ人や律法学者たちの会食に招かれたイエスは、罪人とされる徴税人などと食事を共にしはじめ、宗教指導者たちは、怒りをあらわにして、イエスに文句を言い始める。つまり、イエスの意見とは異なるファリサイ派や律法学者たちは、なぜイエスは罪人と食事をするのか困惑した。 そしてイエスは、自分たちは罪人ではないと思っているファリサイ人や律法学者たちに向かって話し始めている。 こられの三つのたとえ話では、迷う人の確率は、最初は1%だか、二つめの話では、10%、そして放蕩息子の話では、弟も兄も悔い改めが必要だったわけで、迷い子は、100パーセントともいえる。 だから、イエスは、あたかも正しいと思っていたファリサイ人や律法学者たちも、迷子になっている事に気がつくように導いておられるように思う。 さて、もう一度、皆さん今日の福音書の中で、いったいだれに相当するか考えて欲しい。 いつも教会に来ていて、信仰深く、義しい人であっても、同時に日ごろの生活を振り返ると迷いの中にあるということが多々あるのだと思う。 たとえば、お子さんのためにできる限りの教育を受けさせたが、親が期待していた状況とはまったく異なる状態にあるお子さんをお持ちの方々もいるだろう。 あるいは、ご自身が何らかの社会組織でキャリアを積まれたが、自分の目指していた事とはまったく違う仕事をしているという方もいると思う。 あるいは、とても熱心なクリスチャンだが、自分の友人や家族に信仰について分かち合っても、自分がクリスチャンになってもらいたいと思っている方は一向にクリスチャンになる気配が無いという方々もいると思う。教会は、自分の行動や話した事が、いったい神を喜ばせるものだったかどうかわからず、迷いの中にある方々でいっぱいなのが現実だと思う。 そのような私たちの中で、神は一生懸命、私たちを探している。今日の福音書は、私たちは罪人かそうでないかという事がポイントではない。実は私たち全員が何かと迷ってしまう。私たち全員が罪人だ。その私たちを、神は捜し求めてくださっている。 人類全員の捜索をいったいだれができるだろうか。人間にはだれもできないが、神はそれをなさる。神の慈しみと恵みと愛を持って、発見するまで探し続けてくださっている。 礼拝のはじめに、この礼拝堂で、罪の告白をした皆様方のことを、神はたいへんな喜び、恵みを持って赦してくださり、自分で気がつく気がつかないにかかわらず、私たちを新しく創り変えてくださっている。 そして神の祝福が新たに与えられたことを覚え、新しい一週間を送られますように。 アーメン “One Out of One Hundred or 100%?” Luke 15: 1-10 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! What perceptions do you have when you hear the word “sinner?” The word, “sinner,” often used in Christianity, is not well understood and not really used in everyday conversation. Especially, when I talk with Japanese people who do not have any Christian background, the word “sinner” is often understood as “a criminal.” Therefore, I often hear from them “I am not a sinner.” Then I answer to him or her, “OK, I understand that you are not a criminal, but have you ever done or said something that hurt someone, even without knowing at the time that your actions hurt them?” Or “Have you ever thought that what you were thinking or doing does not please God?” Then, the conversation about sinners usually does not go any further. The Gospel scripture today are the parables of the “Lost Sheep” and “Lost Coin.” Jesus uses the shepherd representing God in the first parable. The image of the shepherd is often used in the Old Testament as well as in the New Testament. However, in this world, if you find one lost sheep out of the hundred you have, do you really share this news with your friends and neighbors? In the second parable, Jesus uses the woman who looks for the lost…
Tweet 週報通算#1273号 (日本語) 2013年9月15日の週報 週報通算#1273E号 (英語) Sunday English Bulletin 1273E 来週は召天者記念礼拝です。 是非ご出席下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 詩編を読もう:的外れなこと (詩編51:1-12) 今週読む詩編は51編の1-12節。1節と2節にこの詩編の背景が書かれている。ダビデとバト・シェバのことはサムエル記下11章に記録されていて、また預言者ナタンがダビデのものに来たときの事はサムエル記下12章に記録されているので、時間の許す方は、それらを読んで、詩編51編を読まれると良い。 しかし、その背景がわからなくても、この詩編51編 読むことは、とても意味があるので、いずれにしろ3節から12節までを、何回か読むことはお勧めしたい。 詩編 / 51編 1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。 2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】 3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。 9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。 12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 ダビデとバト・シェバの話は興味深い話だが、ダビデは王であり、またその行為は王という権力があるから実行できたことであり、この詩編51編を読むことは、「自分はダビデのような罪を犯せる立場にもないわけで、自分にとって関係の無い話」として読んでしまうかもしれない。しかし、私はこの詩編は「他山の石」、つまり、自分の反省や修養に役立つ面は多いにあると思う。 与えられている詩編箇所は、過ちを犯し、自分の罪をみとめ、自分のやましさや恥ずかしさに悩む時、神に罪の赦しを請い、新たな希望が与えられることを願って読む箇所として、すばらしい箇所だと思う。と言っても、罪という言葉、あるいは「罪人(つみびと)」という言葉が日本語でイメージした時、とかく、「犯罪」とか「犯罪人」というようなイメージで解釈されてしまい、自分は警察に捕まったことはなく、「自分は罪人ではない」として、詩編の51編も、そのほか聖書でいろいろなところで語られる「罪人」の話も自分には関係が無いと思われてしまうかもしれない。 そこで、聖書に書かれている「罪」という言葉について、詩編51編の3節と4節に書かれた言葉を掘り下げて、考えてみたい。 日本語では、「背きの罪」「咎」そして単に「罪」という三種類の言葉が使われているが、それぞれの原語の意味を以下に書く。 最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現る言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。 これらの言葉から「罪」あるいは「罪人」について考えると、刑法に違反したかしないか、あるいは警察に捕まるか捕まらないか等には関係無く、私たち人間を創造された神の思いとは違った行為や、神の目から見て的外れなことをしてしまい、身を屈めてうなだれているような状態を思い浮かべる。 聖書で語られている罪は、実はこの世に生まれたすべての人間に当てはまっているのだと思う。12節の言葉にあるように、神が私たちに清い心を創造してくださるように祈りつつ。 アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace