Tweet 今年の5月29日は「主の昇天日」に当たる。主の復活日4月20日を第一日目とし、7週間後、50日目の日曜、6月8日には、聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝う。その10日前、つまり復活日から数えて40日目、今年は5月29日になるが、主の昇天日とされる。復活のイエスが天に昇られた日とされている。 その時の様子は使徒言行録の1章1節から11節に記述されている。 毎年、主の昇天日に与えられる詩編は47編で、旧約時代に詠われ始めた詩編なのに、主の昇天があたかも預言されたような描写もある。 興味ある方は、詩編47編も読まれるのも良い。また47編については、昨年の主の昇天日であった5月9日に読み、記述してあるので、「詩編を読もう」を毎週集めてくださっている方は、去年の5月9日に遡って読んでいただくのも良いと思う。(ウェブサイトでも、過去の「詩編を読もう」を読むことができる。) さて、今週は、聖書日課では主の昇天日の翌日と翌々日に与えられている詩編箇所93編を読む。 いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編93編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編93編 1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。 3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。 5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は1節に描写された「世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。」 詩編作者の立場を思って詩編93編のことを考え、解説も加えたいみたい。 詩編93編は、全部で150編ある詩編の中で、7編存在する(47 編、93編、95編から99編) 「即位の詩編」と呼ばれる。 即位の詩編とは、詩編が作られた時代のユダヤ教国家は君主制。代々君主が即位し、宗教的にも政治的にも国家を統治しようとした。 しかし、実際問題は、さまざまな問題に遭遇する。 そのような、荒波の中でも、新たに王が即位し、その戴冠式のような事が行なわれる時に、即位の詩編が詠われる必要があったのかと想像する。戴冠式に合わせて詩編作者も93編を作詞したのかと思う。 93編に詠われている内容は、国王の座に着くものが、主なる神を顕す存在。1節では、人間的な要素ではなく、絶対的な主なる神の力、威厳を持つ者と詠う。また統治される世界も固く据えられ、揺らがない。2節には、主なる神が時を越えて昔から存在していたのだと。3節―4節では様々な荒波も起こるが、それらの荒波よりさらに強く、また高い主の存在。5節では主なる神が定め、即位する王が、確かな存在であり、日の続く限り(王が生きている限りという意味かと思う)この神殿にふさわしく即位が続く。 21世紀に生きる私たちに、絶対的な創造主である方は、聖書に記述された詩編93編を通して何を語ろうとされているのだろうか? 日本やアメリカに生活している市民にとって、共和制(人民が統治上の最高権威を持つ政治体制)であるため、君主制のことはあまりピンとこないかもしれない。しかし、この21世紀にあっても、先進国、発展途上国を問わず、多くの君主制をとっている国が存在することを忘れるべきではないと思う。思いつく国をいくつか挙げるとすれば、スウェーデン、ノルウェー、タイ、モロッコ。。。。 そして、この93編をよく読むとき、君主制とか共和制とかの政治体制を超えた、絶対的な創造の神の力強さを私は感じる。 「世界は固く据えられ、揺らぐことがない。」と詠われた言葉には、「えっと」少々疑問を持つ方も多いかもしれない。日本は憲法改正の問題、アメリカは先週また起きた射殺事件、などぐらぐら揺れている。地球という単位で、気候は不安定であり、しょっちゅう地震は起こる。宇宙から見れば、地球はものすごいスピードで太陽の周りを回っているし、太陽系自体も動いており、宇宙自体は膨張しているらしい。 しかし、世界は固く据えられ、揺らぐことがない、という言葉には、説得力を感じる。 昇天されたイエス、主なる神は、私たちの考えたり見たりすることができる次元を超えた、揺らぐことのない確固たる愛を基盤にされていることが、詩編93編の言葉と、イエスの生涯から伝わってくる。 アーメン 安達均 後述:上記に触れた、先週土曜の夜、サンタバーバラ大学での連続射殺事件の犠牲者たち、家族、友人等を思い、創造主なる神の癒しと慰めを祈る。 銃規制の話題もまた再燃するかと思うが、その本質的な問題は、今の日本国憲法改正問題とも共通した要素があるように感じる。 主なる神、イエスも、私たちの間に立って、これらの問題に遭遇されていることを覚え、主の導きを祈る。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ14:15-21 安達均 主なる神が、ここに集まった一人一人の上に豊かな恵みを注ぎ、心に平安を与えてくださるように。アーメン 信仰とは、個人の問題であり、自分が中心で、神はその対象なのでしょうか? 信仰心とは、自分で抱くかどうかの問題であり、自分で無宗教と決めて、それで、神との関係も教会との関係も、もう無くなったといえるのでしょうか? 先週、友人に招かれその友人宅の集会に行った。ある方と初めて会い、私はいっさい自分が牧師であるという話はせずに、いろいろな世間話をしていた。その方はリタイヤした方でハワイに4週間奥様と滞在されていたとのことで悠々自適という感じがした。ハワイの話が出たので、私も4月最後から5月のはじめまで4日間だけ滞在したという話をした。 そして、ハワイには、昔ながら地元の宗教があり、それはすべてを創造された神がおられ、ユダヤ教やキリスト教とも十分通じているような信仰だという話をした。そして、あるキリスト教会グループは、自分たちが、自然を破壊してきてしまった問題のいったんを担っており、また地元の宗教をも否定してきたような事を認め、悔い改めているという話をした。 すると、その方は私は小さい時に洗礼は受けたが、もう宗教的では無くなった。さらに現在の教会を非難されるような事を述べて、水を飲みたいからといって、私から離れて行ってしまった。私は、信仰の話をしたことがよくなかったと少し悔いた。 さて、今日の聖書箇所は、先週に引き続き、イエスキリストが十字架刑に架かる前日のイエスの講和の中の言葉。 イエスは、最後の晩餐後は、弟子の一人から裏切られ、ユダヤ教の指導者、ローマの権力者たちにより、翌日には十字架刑に処せられることはわかっていた。 また、十字架刑に処せられるにあたって、他の弟子たちからも見放されてしまうこともわかっていた。弟子たちは、十字架刑にかかる自分を防ぐ行動に出ないこともよくわかっておられた。 しかし、自分が死んだあと、弟子たちがどんなに心細くなってしまうか、また、悔いる気持ちになるかもよくわかっていた。 弟子たちは、10代後半から20代だったのではないかと思うが、それでも、孤児のような気持ちになってしまうことも、イエスは察知していたのだろう。 そのような状況に置かれる弟子たちに対し、イエスは語る。 父にお願いして、弁護者を使わす。 その方が真理の霊である。 つまり聖霊が送られると。 そして、イエスは、「私はあなた方を孤児にはしておかない。」と語る。 それは、聖霊が送られることによって、孤児のような状況にはしておかない約束だった。 次にイエスは、「これからは世はイエスを見ることができないが、信じる者たちはイエスを見ることができる。」と語る。これはイエスの存在を私たちはいつも信仰の目を通して確信することができるという意味。 そしてその根拠となるような言葉が次に語られる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」この言葉が興味深いのは、「わたしが生きている」つまり、現在形で表記され、その上で「あなたがたも生きることになる」と未来形で表記される。私たちの生の根拠はイエスが生きておられるという事実の上にある。 私たちは信仰・教会生活で大きな勘違いをすることがある。信仰生活において主人公が私であり、その対象が神であると考えてしまうことがある。 私たちの心が変化して、信仰が無くなってしまったとか、宗教心がなくなったとか、あるいは、キリストの体である教会とは、もう自分は縁が無いかのように感じると、私とはもう関係が無いとまで思ってしまうことすらある。 しかし、事実はそうではない。 信仰・教会生活の主人公は主なる神、イエスだ。そして、神が中心で、その対象が私たちだ。 主なるイエスは私たちをみなしごにはしておられない。 神の方から信仰・イエスの体である教会を与えてくださるからこそ、私たちは神を信ずることができる。 つまり、イエスが生きておられるからこそ、私たちは信仰者として生きることができる。 言うなれば、ハワイの地元の伝統的な宗教、それでもそこにすべてを作られた創造神を信じる信仰がユダヤ教やキリスト教とも近い面がある話をしたが、そのような宗教を信じている方々もいる。 また、友人宅の集まりで会ったような、もう宗教心は無いという方もいたりする。ちなみに、その方とは、どういう風の吹き回しか、会の後半で、また話すことになった。 いっさい宗教の話をすることなく、また自分が牧師であることも語らないまま、その方が話したい話に相槌をうち、近くに居た。 どのような信仰者、あるいは信仰をも持たないという方をも含めて、神の愛は無条件に注がれており、主イエスはそのような方々の近くで、聖霊として生きておられる。 主イエスの十字架刑を一切防げない、あるいはイエスを知らないと言ってしまう者へも、あなた方を私は孤児にはしないと約束されていた主イエスがいる。今もその約束を守り続けてくださっていることに感謝し、そのような主イエスが中心に生きておられること覚えたい。そして、私たちは、そのイエスキリストの体のいったんを担って生きていることを覚え、新しい1週間を歩みだそう。 アーメン 安達均 “He Will Not Leave You Orphaned” John 14:15-21 May the Lord pour his abundant grace and the Holy Spirit into the hearts of the people in every corner of this sanctuary! Amen. Is faith only a personal matter? Is the person (of faith) the subject and God the object? Is faith really a personal choice? If you say you are not religious, do you have absolutely no relationship with God and the Church? Last week, there was a gathering at my friend’s house and about 20 people got together. I met a person whom I have never talked to before. I introduced myself only by name and did not mention that I was a pastor. He enjoyed talking and we chatted for quite a while. He told me that he vacationed in Hawaii for about 4 weeks. He mentioned he is retired and was living comfortably, free from worldly cares. Since he spoke of Hawaii, I also mentioned that I was in Honolulu regrettably only for four days though. Then, I mentioned that there is a traditional Hawaiian religion that believes there is a creator god who made everything. In a sense, that belief is somewhat similar to Judaism and Christianity. A Christian group in Hawaii has been expressing their confessions and apologies since historically America was an active part of the overthrow of the legitimate Hawaiian monarchy and the disruption of Hawaiian culture…
Tweet 6月の27日と28日の両日は日本語部の修養会がPacifica Synod のオフィスで行われます。是非ご参加下さい。詳細は教会オフィス:714.964.1912までお気軽にお電話ください。 2014年6月カレンダー・聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2014年5月25日LCR日本語部週報通算第1308号 2014年5月25日の週報 May 25, 2014 LCR Japanese Bulletin: Sixth Sunday of Easter Sunday English Bulletin 1308E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は66編の8-20節を読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編66編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編66編 8: 諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。 9:神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。 10:神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。 11:あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ 12:人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。 13:わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。 14:わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように 15:肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。〔セラ 16:神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。 17:神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。 18:わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。 19:しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。 20:神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、16 節の言葉が一番気になっている。特に詩編作者が「わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」と詠っていること。 詩編作者の立場を思って詩編66編の8節よりよく読んでいきたい。 「賛美の歌を響かせよ」と書いてあるところから、この詩編は、神を讃える賛美の歌。それは自分だけが賛美するのではなく、諸国の民に、神を賛美するように、呼びかける賛美歌。 9節では、詩編によく出てきているが、神を讃える理由を詠う。その理由とは、「神は私たちに魂を得させ、またよろめかないようにしてくださっている。」 10節から12節のはじめは、厳しいことが詠われている。詩編作者自身もそして人類全体でみても、銀を火でねるようなすさまじい体験や、がんじがらめにされてしまうような、あるいはある国の人々が、私たちを完全に弾圧してしまうような経験もした。しかし、神が私たちを豊かな所に置いてくださっている。 13節から15節は、その神の恵みの豊かさに応じて、最高の捧げ者を神殿に奉ずる。それは困難の中にあった時に、肥えた動物や雄山羊や雄羊を捧げますから助けてくださいと神に約束したこともあったのだろう。その約束通りに、捧げますと詠う。16節は、さまざまな困難な体験をする中で、神を畏れるものは、神が私にしてくださって来たことが何だったのかをよく聴くようにと詠う。17-18節は、私は真剣に神に向かって、私の口と舌を使って、神を賛美します。心が別のところにあって真剣さに欠ける賛美では、神は聞いてくださらないだろうから。 19-20節は、神は私の祈る声に耳を傾け聴いてくださった。 だから神を賛美しよう。神は私たちの祈りをけっして退けることなく、徹底的に神の愛を与え続けてくださっていると詠ってこの詩編は終わる。 この詩編を通して、主なる神は、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 詩編66編8節から20節は、来る日曜日の福音書個所、ヨハネ14章15節から21節とともに与えられている詩編箇所。 ヨハネ福音書で、明日イエスは十字架に架けられてしまうという状況の中で、「わたしは、あなたがたを見放さない。」と、また、「あなたがたが私のうちにおり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と語っておられた。 詩編66編の10節から11節に表現されていたような、ひどい体験、困難、苦しみをあじわってしまうような人生があろうが、決して私たちを見放さない主なる神、主イエスキリストがおられるということを、ぜひ覚えておきたい。 困難や苦しみのなかにあっても、実は、その真っ只中に、聖霊なる主が存在してくださっている。 話はちょっと飛躍するが、昨晩は、女性宇宙飛行士である山崎直子さんのご主人、山崎大地さんに会って話をする機会に恵まれた。いろいろな話をされていたが、「ここだって宇宙なんですよ。」という言葉を改めて聴いた。(改めてというのは、私の長男も数年前は宇宙工学を専攻し、同じことを話していた。) この言葉、今、いろいろなごたごたが起こってしまうこの地球上はすばらしい宇宙空間の一部であり、この詩編66編で詠われているような、さまざまな困難の中でも神がわたしたちを豊かな慈しみの中に置いてくださるという事と同じ事に思えてくる。 さまざまな問題を抱える人類だが、徹底的にその人類を愛してくださっている神の中に置かれている。この事を人々に物語ろう。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ 14:1-14 永遠の命の道である主イエスが、この礼拝において、この上のない恵みと平安を与えてくださるように! カリフォルニアに住んでいると、車での移動が不可欠。今日の礼拝に車に乗る事無しにに来られた方はいるだろうか? また近年は車を運転してあちこち移動する者にとってナビゲーションシステム(ナビ)は不可欠になりつつあるように感じている。 ナビとは、目的地の名前かアドレスさえ正しく入力すれば、目的地までの道案内をしてくれるとても便利な代物だ。こんな技術が開発されるとは、若いころは全然思っていなかったが、今はいろいろな教会に行くことが多いという仕事をしていて、ナビなしには、仕事ができないと感じている。 人生でわたしたちは、さまざまな道を歩むが、人生の終着地点は永遠の命をいただいて天国で過ごしたいと願うのが世の常ではないだろうか。しかし、ナビに天国と入力するとどうなるのだろうか?ちなみに、ナビに天国とかHeaven入れてみたが、クマモト県にある、「天国」という名前の郷土料理屋だったり、ローランドハイツにあるQueen of Heavenというお墓が出てきたりした。それは私の期待していた目的地ではもちろんない。 ナビで目的地を入れてもだめな場合はアドレスを入れるが、私たちは、天国のアドレスを知らない。ナビに頼って天国に行けるわけでもない。では、どのような道を通って、永遠の命を得て、天国に行くことができるのだろうか? 今日与えられている福音書、とても有名なところ。とくに最初の6節は、お葬式の時などにも本当によく読まれる。お葬式以外でも、普段から何度読んでもよい箇所だと思う。 少々13章の終わりの状況を説明した方が良いと思う。 13章36節には、「わたしの行くところにあなたは今ついて来ることはできない」というイエスの言葉があり、それを聞き動揺してしまった弟子たちに対して、「心を騒がせるな。」といって語りだしているのが、今日の聖書箇所のはじまり。 イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。。。。」と語り、「わたしがどこに行くのか、あなたがたはその道を知っている。」と続いて話す。しかし、弟子の一人のトマスは、「イエスが何というところに行くのか、アドレスも知りませんから、どうやってその道を知るのか」と反論する。 するとイエスは、「私は道である。」と語る。 それは、トマスがどうやって、イエスの行く所への道を知ることができるかと質問したことに対して、勘違いに気付くように言われているように思う。 イエスは、どこどこに道があるから、その道を通っていけば、私の行くところつまり天国に行けるという話ではない。むしろ、イエス自身が、私たちの歩む道だと話してくださっている。 いろいろな宗教の立場のことを思って、互いに尊敬しあうがため、天国におられる神のところに、どんな宗教を信じていても、だいじょうぶ、天国の神に会える。と話されることがある。 つまり、神にいたる道はいろいろあっても、行く先は同じであると。 本当にそうなのだろうか? そこに真理はあるのだろうか? イエスは、私は道でありと言ったあとは、イエスは私は真理であるとも言われる。道であり真理であるイエスは、さらに、「命である。」というイエスの言葉がつながっている。それは永遠の命である。 この聖書箇所は私たちに何を語りかけているのだろうか?イエスキリストが教えてくださっていることは、父なる神が天国にずっといて、待っていてくださるようね受身の神だということではない。 先週は羊飼いが羊になった話しをしたが、むしろ、主なる神ご自身がイエスという人となって、私たちの中に降りてくださって居る。ヨハネ福音書の中で13章から17章は、イエスが十字架に架かる前日にイエスが遺言のような長い説教をしたことが書かれている。 その要点は、イエスがもう見える形ではなくなってしまうが、それでも、何かが代々にわたって残る約束をされたといえる。 その約束は、遠い将来に起こる約束というより、その時すでに実現している約束。そして、21世紀に生きている私たちにも、その約束が実現している。つまり、イエスのことを私たちは人間の姿としてみていなくても、道であり、真理であり、命であるイエスが、確かに私たちの間で生きていてくださっている。 イエスと一体なる父なる神は、今日も聖霊をこの世に送ってくださっている。その三位一体の神、イエス、聖霊を信じて生きていく人生自体が、それはイエスの道、真理、そして永遠の命である。 イエスを信じて生きる信仰の歩みは、過去にどの道を歩もうかと迷ったかもしれないが、すでに天国に直結した歩みとなっている。ナビやGPSを使わなくても、すでにイエスの命を与って生きている。 イエスを信じて先週も礼拝に出ていたが、過ぎた1週間に何か予期せぬことがあり、迷いが生じて、生きたここちもしなかったような経験もあったしれないが、また礼拝によりあらたに永遠の命を確信することができる。なぜなら、毎週礼拝を守るキリスト教会自体が主イエスキリストの体、主イエス自身であり、道であり、真理であり、永遠の命であるから。 今日から始まった一週間を、私たちはすでに永遠の命の中におかれていることを確信して、喜びつつ、この新たな一週間を歩んで参りたい。 アーメン 安達 均 “GPS and Jesus” John 14:1-14 Pr. Hitoshi Adachi May the Lord, the way to eternal life, give us grace and peace during this worship service! Living in California, owning a car is a necessity. Most people attending this morning’s worship service drove or were driven in a car. Like cars, GPS devices are also becoming a necessity. GPS helps you arrive at a location you’ve never visited before; it is much more convenient than map books. GPS is a wonderful tool that helps reach a destination by inputting its name or its address. Quite honestly, I do not think I could do my current job without a GPS device. We travel along various roads while living in this world, but after the end of our earthly life, I believe it is a common hope that we’ll reach heaven and enjoy eternal life. However, we cannot know the way to heaven by simply inputting “heaven” into a GPS device. Actually if I input “Tengoku(天国)” [while in Japan] into my GPS, it shows directions to Japanese restaurant called “Tengoku” in Kumamoto prefecture. Also, if I input “heaven” [in the US] it shows directions to a cemetery called “Queen of Heaven” in Roland Heights. When we cannot find directions by inputting the place name, what do we do? Do we turn off our GPS? We usually input the address and try again. Heaven is different…
Tweet 2014年5月18日LCR日本語部週報通算第1307号 2014年5月18日の週報 May 18, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin Sunday English Bulletin 1307E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は102編の18節までを読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編102編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編102編 1:【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】 2:主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。 3:苦難がわたしを襲う日に/御顔を隠すことなく、御耳を向け/あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。 4:わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。 5:打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。 6:わたしは呻き/骨は肉にすがりつき 7:荒れ野のみみずく/廃虚のふくろうのようになった。 8:屋根の上にひとりいる鳥のように/わたしは目覚めている。 9:敵は絶えることなくわたしを辱め/嘲る者はわたしによって誓う。 10:わたしはパンに代えて灰を食べ/飲み物には涙を混ぜた。 11:あなたは怒り、憤り/わたしを持ち上げて投げ出された。 12:わたしの生涯は移ろう影/草のように枯れて行く。 13:主よ/あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。 14:どうか、立ち上がって/シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。 15:あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み/塵をすら、どれほど慕うことでしょう。 16:国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。 17:主はまことにシオンを再建し/栄光のうちに顕現されます。 18: 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。 気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、あまりにも詩的というか(詩編なので当たり前なのかもしれないが)、趣のある表現が多いと感じ、挙げかねている。しかし、ひとつ挙げるとすると、18節の、「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。」を挙げたい。結局、あまり趣のある表現ではないが、とても元気づけられる。 詩編作者の立場を思って詩編102編を読む時、まず1節にあるように、詩編作者自身が心くじけてしまった経験を持つ中で(あるいはそのような人の立場を思いつつ)、この詩を書いたように思う。 2-3節では、主なる神に、私の祈りが聞かれるようにと訴え、すぐに答えてくださいと叫んでいるような強い語気で詩編ははじまる。4-12節では、心くじけた者のどうしようもない状態をぐちをならべるような感覚で詠っている。しかし、それらのぐちが、上記にも書いたが、とても詩的で趣がある。「生涯は煙となって消え去る。」「骨は炉のように溶ける。」(4節)、「心は、草のように乾く。」(5節)、「骨は肉にすがりつき」(6節)、「廃墟のふくろう」(7節)、「屋根の上にいる鳥」(8節)、「パンに代えて灰を食べ、飲み物に涙を混ぜた。」(10節)、「生涯はうつろう影、草のように枯れて行く。」とづらづらと続く。 13 節以降は様相は一変し、主を賛美する言葉に変わっていく。これらの言葉は紀元前6世紀にエルサレムが破壊されてしまった後の時代に書かれたと思われるが、主なるあなたが、永遠に王座についており、代々にわたって、主の御名が唱えられる。(13節) とはじまり、破壊されてしまったシオン(エルサレム)を憐れんで、新たな恵みの時を宣言する。 主に従う民が、廃墟になったシオンでも、どれほどにシオンの石を、いや塵ですら慕っていることか。(15 節) 国々も王たちも、主の栄光をどれだけ畏れるか。(16節) 主がシオンを再建し、栄光の中で顕われる。(17節) そして、主はすべてを喪失した者の祈りを顧みて、決してその祈りを侮るようなことはない。(18節) この詩編を通して、主なる神は、私たちに何を語りかけておられるのだろうか? 私の場合は、先週末に天に召された兄弟のこと、未亡人となられた姉妹。また昨年召された方とその未亡人。逆に昨年召された姉妹と寡夫(ヤモメ)となられた兄弟等のことを思っている。また数々の離婚された方々のこともいっしょに覚えている。この詩編では、住んでいた都が陥落してしまったときの人々と主なる神の関係を詠っていたのかと思うが、夫婦として築いてきた都というか二人の城、結婚関係は、たとえ離婚しなかった夫婦でもいつかはどちらかが天に召され、その都がばらばらと崩れていくような、そして、心くじける時がくるのが避けられない。 しかし、そこで、主に素直に語りかけて祈るとき、その祈りを決して侮ることなく、必ず顧みてくださる方がおられる。早くも4週間が過ぎようとしている復活節にあって、十字架の死によって死をも滅ぼされる主イエスに、祈ることの大切さ、そして祈りが強さに変わっていくことを確信する。アーメン 安達 均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ10:1-10 主イエスキリストの恵みと平安が、主イエスの子供たちである会衆の上に豊かに注がれますように。 私たちの住む世の中には、毎週、主イエスの真の御声を聞かずに、他の何かに没頭してしまう対象がいろいろある。仕事だったり、お金だったり、車だったり、宝石だったり、あるいは異性のだれかだったり、人によっては同性のだれか。あるいは様々な宗教だったり。その対象は、本当に自分自身とどう関係しているのだろう。何かに没頭しながらも、毎週日曜は神の御言葉を聴くことはできるのではないだろうか? 今日の聖書箇所では、羊と羊飼いの関係をイエスは話している。羊は弱く、一匹だけで生きていくことはできない。自分の羊飼いの声を聞き分け、夜は囲いのあるようなところで過ごすが、明るくなると、やはり羊飼いの声に従って、群れを成し、そして牧草地にも行き、栄養を得られる。 しかし、羊というとその目的は羊毛だったり、羊肉として食べられてしまうわけだが、イエスのたとえでは、羊飼いが羊たちの羊毛を売ってしまったり、羊たちを食用に売ってしまうような羊飼いとはちょっと違う。 さきほど拝読した聖書箇所の次の節にはイエスは「私は良い羊飼である。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを表現しているが、いったいどういう羊飼いなのだろうか? 聖書に描かれた壮大なストーリの中からわかることは、この良い羊飼いとは、羊飼いのままいるのではなく、徹底的に自分の羊たちを愛し救うために、羊飼い自らが羊にまでなってしまい他の羊たちの命の救いのため屠られてしまう。しかし、その良い羊飼いは屠られ死にて葬られても、永遠に生きており、羊たちとともに永遠に生きる。 今日はこどもの祝福式かつ、また母の日でもある。 母の日にちなんで、立教大学のチャプレンの方が紹介していた昔話を紹介したい。 ある所に、母親と一緒に暮らす若者がいた。彼は大変親孝行者だった。村人は皆、彼を誉めながら、彼のお母さんをうらやましがっていた。ある日、彼は隣村に買い物に行った。そこで、彼は思いがけず、大変美しい女性と出会い、すぐに彼女のことが好きになってしまった。 しばらくして、彼はその女性に、愛の告白をし、結婚を申し入れる。彼女はそれを受け入れた。その青年を大変気に入って、毎日のように仲良く付き合うようになった。さて、結婚直前に、彼女は突然、結婚のための一つの条件を持ち出した。ところが、その条件というのは、とても信じられないものだった。それは、「愛する人よ、私と結婚するためには、あなたのお母さんの心臓を、私のところに持ってきなさい。そうでなければ結婚はできません。」ということだった。 若者は耳を疑い、考え込んでしまった。「そんなはずはない。」ところが、彼女は、その条件を若者に要求しつづけた。若者は思い悩んだが、その美しい女性とどうしても結婚したいという気持ちを、抑えることができなかった。そして、ある日、涙を流しながら、寝ている母親の心臓を切り取って、自分の手に持ち、その娘のところに走って行った。 急いで向かう途中、小さな石につまづいて転んでしまった。もちろん、手に持っていた母親の心臓も落としてしまった。落ちた心臓を拾うとした時、地面に落ちた母親の心臓から、心配そうな母親の声が聞こえてきた。「我が子よ、大丈夫か、けがはしなかったか、気をつけておゆき。」その時、若者はようやく正気に返った。親孝行者と言われていた自分が、女性の美しさに目が眩んで、大切な親を手にかけてしまったことに気がついたのだ。 この昔話、息子と彼女は、私たち人間つまりイエスの言われる羊たち、そして母親はすべての人間を創造された神である主イエス、つまり羊たちのために命を捨てる良い羊飼いであることおわかりいただけただろうか? ここまで私たちを愛してくださる主なるイエスに気付き、毎週、その主イエスの御声を聞き、良い羊飼いに養われる羊たちの群れが成長していくようにと祈る。アーメン 安達均 The Good Shepherd is a Parent and his Sheep are His Children John 10:1-10 May Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into your and your children’s hearts in this sanctuary! Amen. In today’s world, we get distracted by so many different things that we forget to listen to God’s voice every Sunday. These distractions include, but are not limited to, work, cars, or jewelry. Your relationships (whether they’re heterosexual or same-sex) can also be a source of distraction. Of course religion could be a distraction as well, if we don’t focus on listening to God’s voice. If you have distractions, in your life, are you obsessed with them or can you still focus on what’s important? In today’s Gospel, Jesus is talking about the relationship between a shepherd and sheep. Sheep are weak and they cannot live without guidance and protection. Sheep listen to their shepherd and instinctively know his voice. During the daytime they go out together, follow their shepherd’s voice, find pasture, and become nourished. At night, they enter into a sheepfold and are thankful for the shepherd’s protection. However, Jesus does not talk about the shepherd who sells sheep’s wool or meat. Right after today’s text, Jesus says, “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep.” What does it mean? How does this good shepherd relate to his sheep? What does he do for them? According to the…
Tweet 2014年5月11日LCR日本語部週報通算第1306号 2014年5月11日の週報 May 11, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin Forth Sunday of Easter, Special Service “Blessing of the Children” Sunday English Bulletin 1306E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace