Archive for October, 2013

Tweet 先週は詩編84編1-8節を読んだ。今週はその続きで84編の9節から13節を読もう。たった5節なので、3回は読んでみよう。 また、先週の84編1-8節も再度読むのも良いと思う。そして先週と同じように、この詩編を窓のように読む場合と鏡のように読む場合で、それぞれ光景を思い浮かべてみよう。  詩編 / 84編 9:万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ 10:神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。 11:あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 12:主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません。 13:万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。 さて、皆さんは、この詩編を「窓」として読んだ時、どんな光景を思い浮かべられただろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 今週も先週に引き続いて私が思いを巡らせたことを書き留めたい。 「窓」として読んだ時? 「エルサレムに上る決意」 先週の8節までを読んだ限りでは、詩編作者自身は、まだ神殿のあるエルサレムに上って行く決断をしていなかったように思う。しかし、この詩編の後半では、詩編作者自身も、その仲間たちとともにエルサレムに上って行く決意をしているように見える。 それは9節、10節の祈りの言葉からわかる。 9節では主なる神への呼びかけが詠われており、10節には、エルサレムへの旅の途中で遭遇すると思われる困難や危険に対しても、私たちを守ってくださる方、つまり救い主(ヘブライ語で「油注がれた人」とはメサイア、救い主を指す。ここで詠われたメサイアについてこの記事の最後に記したい。)がいっしょについているので、その方を神がしっかりと、ご自身が油注いだ救い主として認めて、私たちが旅の途中に守られるようにと祈っているように思える。11節では神殿の庭で過ごす一日は、神殿から離れたところでいただける恵みに比べて千倍の恵みにも相当する。 それは、当時、エルサレムから遠く離れて詩編作者が生活していた土地では、神を崇拝しない人々との暮らしであり、耐え難い暮らしだったのだろう。そして12節では主なる神を賛美し、そして神殿のあるエルサレムへ向かうことが正しい道を歩くことであり、その道を歩く人々に豊かな恵みを与えてくださると詠う。そして13節で、主に信頼して生きることこそ、幸せなことと詠って、この詩編は終わる。 「鏡」として読む時?「教会を離れた方々が教会に戻る決意」 先週は、復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加していたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えると書いた。今週は、もっと広い意味で、復活ルーテル教会に限らず、なんらかのキリスト教会との接点があったのに、真のキリストの教えから遠ざかってしまっている方々のことを覚えている。 それは、幼稚園でも小学校時代でも、なんらかのキリスト教会の催しに来た時でも、礼拝堂に入って天井との空間に驚いたり、オルガンの響きや聖歌隊の讃美歌を聴いた時でも、なんらかの神との接点が起こった時のことを憶えている方。そのような方々が、また教会に戻って来ようという決意をしていることを覚える。 ただ、一人では戻ることは難しく、家族や友人たちと、もし、そのような身近な方がいない場合でも、最も強力な友である、イエスキリストというお方、聖霊、と共に礼拝堂に戻って来ることができる。 そして毎週、礼拝に集う生活がどんなにか素晴らしく幸せであるかと気がつき、讃美歌を日々歌う生活をするようになる。  上記、「窓」として読むときの内容で、メサイアのことを書いた。詩編作者が生きていた時代は、イエス降誕以前なので、メサイアは世の中に登場していない。またイエスをメサイアとするのはキリスト教であり、現代のユダヤ教では、今でもメサイアは登場していない。それでも、詩編作者が、「あなたが油注がれた人を顧てください」と詠っているのは興味深い。ダビデの子孫のだれかを指して詠っているのか、あるいは、メサイアの登場を預言して詠っているのかとも思う。詩編作者がこの詩を詠った当時の明確なことはわからない。比較的短い詩編84編を二週間に渡って読んだ結果、21世紀の今という時代にあって、2000年前にキリストが到来したのは歴史的事実でも、それを認めずにキリストから目を背けて暮らしている方々に、大きな変化の時期が訪れていると考えさせられた詩編だった。本日10月31日はハローウィンかつ宗教化改革記念日である。この時期にふさわしい詩編だと思う。この詩編を本日読むように導かれたことに感謝し、礼拝に来ようとしている方々がいることを確信し、その道が守られるように祈る。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ 8: 31-36 イエス・キリストの恵み、福音が集まりました会衆の上に豊かに沁みわたりますように! この世の中、「私の生活、こんな予定ではなかった。」と思われている方、たくさんいる。 そのような方々がぜひ、ルーテル教会に来られたら良いなと思う。しかし、「私は、ルーテル教会に何年も通って来たが、今の生活、こんなになる予定ではなかった。」と思われているかもしれない。もし、そんな方がいたら、本日の礼拝で、真のキリストの福音を再発見され、人生が新しくされるように願い祈る。  人生を道路に走っている車に譬えたい。この世の人生の終着点まで、どんな違反もおかさず、道にも迷うことなく運転できる方はいるだろうか?  ほとんどの人は、車をこすったり、なんからの交通違反を犯し、道にも迷いここに来るはずではなかったという場所に来てしまう経験をする。だれ一人として完璧なドライバーではありえない。  マルチン・ルターは、そのような話を16世紀だったので、自動車ではなく、人生を馬車に譬えて話をした。 ルターの論点は、だれひとりとして、馬車を完璧に操ることはできず、失敗なり人生の過ちを犯すということ。 言葉をかえれば、人生で罪を犯さないものはいないということをはっきり述べた。イエス・キリストが今日の福音書で「罪の奴隷」という言葉をつかっているが、すべての人間が罪の奴隷のような存在であるとした。    そして、マルチンルターはキリストの信仰においては、人間が馬車を操っている譬えそのものが違っているとする。馬車を操っているのは、人間ではなく、他の方が操ってくださっていて、操っていると思っている人間は、実は馬車そのものだと指摘した。  現代風に言うなら、私たちの人生において、私たち自身が自動車を運転しているのではなく、人間は自動車そのものなのだと指摘した。  それでは、いったい誰が、自動車を運転しているのだろうか? それは、イエス・キリスト、神の子が運転してくださっている。イエス・キリストが運転しているということに気がつくとき、人生が大きく転換をする。私たちは、恐れをいだかなくなる。 たとえ、私たちが意図していたところに来ていなかったとしても、信仰において信頼のおけるイエスという神のみ子、救い主が運転してくださっているという確信の上にたち、悩んだり、困ったりすることから解放される。こんな人生になってどうしようと悩み、出口の無い人生を歩んでいるような束縛感からの解放がおこる。 人生において、とかく私たちは自動車を正しく運転して目的地に行けると思いがちだ。あるいは、信仰生活をしているといっても、私たちがこれこれこういう正しい行いをしたから、救われると考えがちだ。  しかし、運転者はイエスキリストだ。また正しい行いをするといっても、罪の奴隷である人間なのである。 しかし、イエスが運転してくださっているという信仰によって、自動車は正しい道を進む。  たとえ、私たちが、行き止まりの道に来てしまったと思っても、神なる救い主イエスが、私たちの束縛されている状況から解放し、イエスの信仰によって、人生をまったく新たに創造してくださる。  たとえ、私たちが、不幸せな状況や、とてつもなくストレスが溜まるような生活を営んでいたとしても、神は、キリストの十字架の死と復活の信仰を通して、新しいエネルギーを与えて救い出してくださる。 信仰によって、救われる話は、聖書にちりばめられており、さきほど聞いた本日の第二日課もその話だった。 現代においても、イエスの信仰を通して、聖霊が私たちを罪の奴隷から解放してくださっている。 信仰の歩みをはじめたところ、これまでの多くの不満や悩みから、いっきに解放が訪れたという経験をされた方々もおられると思う。 それは、イエスが使徒たちに教えたこと。そして、とくに、パウロによって新訳聖書の使徒書に書かれた。また、初代教父たちによっても、さまざまな書に綴られた。とくに、4-5 世紀の神学者、アウグスティヌスによっても書かれていた。  しかし、カトリック教会の歴史の中で、15世紀ごろまでの間に、ついつい、真の信仰はどこかに置き去りになりがちで、自分たちの行い、つまり自分たちが正しい運転をして救われるという面が出てきてしまっていた。実はマルチン・ルターもカトリック教会の司祭になったとき、最初は、自分の修行によって救われると考えた。16世紀初頭、マルチン・ルターは、聖書を読む中で福音を再発見した。  本日の宗教改革記念の礼拝において、聖書の教えを通し、今日洗礼を受けられた陽子さんをはじめ、ここにお集まりのすべての方々で、宗教改革であきらかになった真の信仰を再確認しよう。私たちは、人生の運転手ではなく、真に運転してくださっているのは主イエス・キリストであり、その方に従う信仰のみによって、私たちは正しい道、義なる人生へと導びかれる。アーメン  Rediscovery of the Gospel 2013 10 27 John 8: 31-36 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be richly poured into this sanctuary! There are many people in this world who think that “My life should not be like this.” I hope and pray that they come to a Lutheran Church and feel reenergized about life. Or some of you might believe, “I have been attending a Lutheran Church for many years, I, too, feel like my life is not where it should be.” If you feel that way, I pray and believe that today, during this worship service, you’ll rediscover the true faith of Christ and you may be changed by the Grace of our Lord. Let us metaphorically compare our lives to driving automobiles on roads. At the end of our earthly lives, could we honestly say that we never received a ticket or never became lost while driving somewhere? Everyone makes mistakes and loses one’s way (at some point) and has ended up somewhere they did not intend to be…no one is a perfect driver. A similar analogy was made by the Reformer Martin Luther in early 16th century although he used the example of a carriage horse since there were no cars at that time. The point is that no one may perfectly drive or control either a car or a carriage horse. In other…

Tweet Calendar 11、2013&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet LCR日本語部週報通算#1280号(日本語) 2013年11月3日の週報 LCR日本語部週報#1280E号(英語) Sunday English Bulletin 1280E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 10月24日 詩編を読もう:復活ルーテルへの道 (詩編84) 牧師:安達均 今週読む詩編は84編1-8節。とても短い。2回でも3回でも読んでみよう。ただ、今週は少々思い巡らす質問を変えてみたい。 説教では時々話しているが、聖書は「窓」にもたとえられるし、「鏡」にもたとえられる。というのは、聖書に書かれている内容は、まるで「窓」を通して外を見るように、歴史的に数千年前に起こった事を「聖書という窓」を通して数千年前の様子を伺うように読むことができる。しかし、その「窓」が「鏡」のように変わることもある。つまりその聖書に書かれている内容が「鏡」のように、私たちが現在体験していることを、「聖書という鏡」が映し出しているようにも読める。 そこで、今週の詩編を「窓」として読むとき、どのような光景が浮かんでくるか? さらに「鏡」として読むとき、現代の私たちをどのように映し出しているように読めるか? そのような二つの質問に思いを巡らせてみよう。  詩編 / 84編 1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】 2:万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。 3:主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。 4:あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 5:いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ 6:いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。 7:嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。 8:彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。 「窓」として読んだ時の光景? 「エルサレムを離れて」 1節に「ギディト」とあるがこれはおそらく琴のような楽器の名称と思われる。「コラ」というのは、合唱隊を務めた人々。 この詩編の作者は、かつて、エルサレムに生活していたが、今はどこか遠く離れた場所に生活しているのだと思う。しかし、エルサレムに住み、神殿の中に入った時のことが忘れられず恋しくて、このような詩を主に向かって詠っている。 神殿では、聖壇の上の方に当たる部分ではすずめやつばめが巣をつくって雛がかえるような光景も見受けられたのだろう。そして、またいつか神殿に入り、神に向かって賛美することができるなら、どれほど幸いなことかと詩編作者は詠う。(以上2-5節)  さらに詩編作者が生活している土地から、エルサレムに旅をする人々のことを詠っている。この詩編作者が居る場所を特定することはできないが、その場所からエルサレムに向かうことは、かなりの危険を伴う旅だったのかと思われる。 しかし、勇気を出して、心を開いて神を信頼して、エルサレムに向かうならば、たとえ険しい谷があろうが、また雨に打たれようが、谷間は美しい泉と変わり、また雨も励ましの祝福と思えるようになり、エルサレムに到着することができる。そして、また神殿に入って、主に会うことができる人々はどんなにか幸せだろうかと詠っている。(以上6-8節)   「鏡」として読む時の光景? 「復活ルーテル教会を離れた方々の思い」 復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加しておられたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えている。 復活ルーテル教会のどこかですずめや鳥が巣を作っている光景を見た覚えは無いが、中庭はきれいで、あちこちに鳥がとまれるような木はある。また礼拝堂は美しく、入った時に豊かな霊に満たされた経験をお持ちの方々は多いと思う。そして、また毎週の礼拝に出ることができたらどんなに良いかと思われている方々がおられる。そのような方々の中で、病が治癒するなり、あるいは礼拝出席を妨げていた何らかの理由から解放され、勇気を出し、心を新たにされて、再び、復活ルーテル教会の礼拝に参加できるようになる方々もおられる。 そのような方々に、豊かな神の祝福がある。  亡くなった方々も引っ越された方々も、あるいは、なんらかの事情から復活ルーテルに来られない方々も含めて、どこに居るにしても、主の祝福があることを祈る。 また、復活ルーテル教会の礼拝に戻って来られることが可能な方々には、物理的にも心理的にも、ぜひ復活ルーテルへの復活の道が与えられるように祈る。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1279号(日本語)2013年10月27日の週報 週報通算#1279E号(英語) Sunday English Bulletin 1279E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 特伝チラシ11-102013 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 気を落とさずに祈り続ける ルカ 18: 1-8 主イエスキリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。! 牧師になるための教育の一環で、チャプレンとして病院勤務をしていた。 癌病棟に配属され、病室を回っていた。ある病室に入ろうとしたとき、患者の家族に入って行くのを阻止された。 患者の娘さんだとわかったが、彼女いわく、縁起が悪いので入ってこないで欲しいとのこと。 つまり、私の存在は、亡くなってから葬儀をしたりするための人間であり、まだ来て欲しくないとのことだった。 キリスト教では、この世の命が肉体的には終わろうが、永遠の命が与えられており、希望がある。永遠に神とともに生きることができる。 だから、私のチャプレンとしての存在は、臨終後のためだけにあるのではなく、永遠の命への希望を持っていただくためにあることを語りたかった。 しかし、病院は公共の場であり、さまざまな宗教の方がおられ、宗教者の役割や、死後のことについて様々な考え方があり、それぞれ尊重する必要があった。 そして、私は彼女の考え方を聞き、がっかりしたものの、「わかりました。もしお母さんが私に入って来て欲しくないということなら、私は病室には入りません。ただあなたのお母様のことを祈りに覚えます。」と言い、その場は引き下がり、次の病室へと向かった。 今日の聖書の話、かなりユニークな譬え話だと思う。イエスは弟子たちに、気を落とさずに祈ることの大切さを教えるために、本当に突拍子もない譬え話をしている。夫を亡くした女性と不当な裁判官が出てくる。裁判官は人を人ともおもわず、また神をも畏れない人間だった。 そのような人が担当の裁判官になってしまった未亡人。しかし、彼女はしつこく、裁判官を訪問し、裁いてもらうようにお願いする。結果、裁判官は彼女の言うなりになってしまう。 ここで、不当な裁判官とやもめの関係が、主なる神と弟子たちの関係にあたる。 イエスは本当に大切さを教えるために、それは突拍子もない譬え話をすることがある。今日の譬え話は一つの例にすぎない。 不正をするマネージャーが神からほめられるという譬え話もあったりする。 そのような譬え話に、しばしば、私たちは混乱してしまうもとである。しかし、そのような話は記憶に残る。弟子たちに本当に祈りの大切さを覚えてもらうために、イエスは主なる神の考えとしては、ちょっと常識で考えにくい話をしたように思う。 譬えに出てきている不当な裁判官に出会ったら、普通だったらあきらめてしまいそうないやな裁判官だ。にもかかわらず、つまり裁判官にとりあってもらえそうにんないのに、未亡人はあきらめずに、裁判官に裁いてもらうように何度もしつこく迫る。この譬え話では、いってみれば、やもめが弟子たちであり、不当な裁判官が、私たちの主、神、を顕しており、何度も言うようだが、ほんとうに突拍子もない話。ここでイエスが教えたいことのポイントは、祈りが聞いてもらえそうにないように感じてしまう、どうしようもないと思えるような場合でも、あきらめずに祈ること。  9.11の当日、がれきの山の下敷きになってしまった二人の警察官がいた。 みなさんの中にWorld Trade Centerという映画を見た方もいるかもしれないが、それは実話に基づいている話。 瓦礫の下敷きになっている中で、身動きはとれず、真っ暗で、どうにもならない状況に置かれる。 しかし、二人は会話することができた。そして、主の祈りを唱える。結果、二人は見つけ出され助け出される。どうにもならない状況は、身動きがとれなくなった時だけではなく、人生のいろいろな場面で訪れることがある。 しかし、希望を持って祈る、どんな状況にあろうが、失望せずに祈り、神との関係を継続することが大切。 冒頭に話した、病院での出来事、私はその患者さんの部屋から引き下がった。 しかし、その患者の娘さんには、「お母さんのことを祈る。」ということを告げた。 実は、その翌日、その病室の前を通りかかったとき、ドアが開いていて、娘さんが出てきて話しかけてきた。「母があなたに会いたがっているので、入っていっしょに祈ってください。」 その前日、彼女たちのことを祈ることによって、聖霊が働き、母と娘に心境の変化を及ぼしてくださったと思い感謝した。 がっかりしたようなことがあっても、本日のたとえ話のしつこい未亡人ように、気を落とさずに、祈ろう。 祈りは、どこにいても、なにかをやりながらも、逆に何もできない身動きがとれないときも祈ることはでき、神と対話する最高の手段。祈りによる神との関係を保つ生活をしよう。アーメン Don’t Be Discouraged; Continue Praying Luke 18: 1-8 May the Grace and Peace of Jesus Christ be richly poured into this sanctuary! While I was in training for clinical pastoral care at a hospital, I was visiting patient’s rooms one by one where most of them were cancer patients. As I was entering a patient’s room, saying I am a chaplain, that patient’s daughter stopped me and brought me outside of the room. According to her, my presence was ill-omened for her mother. In other words, her family thought that religious people’s primary function is to prepare for funerals and officiate burial services after patients died. Therefore, she did not want me to come into the room. My belief in Jesus Christ is that no matter how patients died physically, God gives people eternal life with Christ in heaven and because of this there is hope. Therefore, I wanted to explain that my presence is for the hope of one’s eternal life, living with God, and is not only for dealing with issues after physical death. However, the hospital is a public place and chaplains serve not only Christians but people of other faiths as well. People have different perspectives on religion and chaplains must be mindful of that fact. Therefore, I did not defend myself to her and I just said, “I understand, if she does not want me to come in, that is fine….

Tweet 週報通算#1278号(日本語)2013年10月20日の週報 週報通算#1278E号(英語) Sunday English Bulletin 1278E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は121編。 とても短い詩編なので、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみよう。  詩編 / 121編 1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。 気になる言葉は何だったか? 「目をあげて」 「目をあげて」というこの言葉、ピンと来たことは、10月10日に礼拝で二曲目に歌った讃美歌21の156番。 普通の讃美歌だと301番で「やまべに向かいてわれ目をあぐ」という歌詞ではじまる讃美歌。 いずれの歌詞もほとんど詩編121編の内容がずばり歌われている。 この詩編、一番最初に「都に上る歌」と書かれていて、それは、旅に出かける時の詩なのかと思う。 そして、旅に出かける前に、これから歩いていく方向には山があり、その山々を見上げて、少々不安を感じながらも旅の安全を確信するような詩だと感じる。ところが、10月10日の福音書は、復活ルーテル教会ではルカ10章にある、「良きサマリア人」のたとえ話で、旅人が山賊に襲われてしまい、持ち物を盗まれ、半殺しになってしまう話。この詩編を歌っておきながら、旅人が襲われてしまう話が取り上げられていたのは、滑稽に思える。イエス様がなんとなく微笑んでおられるようだ。   自分に何を語りかけられたか? 「人生の旅路に」121編を繰り返し読むとき、何日もかかって旅をする様子が浮かんでくる。詩編が書かれたのは紀元前であり、車も電車も飛行機も、もちろんなかった時代。 現代であれば車で朝に出発すれば夕方には到着できるような距離でも、当時は何日もかかって旅をするという、人生の一大事だったのかと思う。 しかし、この詩編に詠われているのは、本当に物理的な、どこかからどこかへ旅をするという具体的な旅を詩にしているのだろうか? 詩編作者と話をできるわけではないので、なにも確実なことはいえないが、どうも詩編作者は、物理的な旅を詠っているのではなく、人生の旅路を詠っているように思える。少なくとも、私には、旅は比喩であり、人生の旅路を詠っている詩に思えてくる。  コミュニティに何を語りかけているか?  「神との関係」 米国経済は、ここ数週間、米国債務問題で揺れていた。米国の債務は17兆ドルになっているが、法律があり米国の債務には上限が決められている。議会がなかなかその上限を引き上げる法案作成、可決をできなかったために、一部政府機関が閉ざされてしまう事態に陥っていた。日々の経済活動のなかで短期的には債務上限の引き上げをしない限り、米国債務不履行に陥ってしまうため、世界経済にも不安を与えていた。しかし、幸い議会では期限だった本日の早朝に法案を可決し、最悪の事態は回避され感謝したい。しかし、今回の回避はあくまで一時的なもので、1月には、また似たような事態に陥る可能性があるとされる。そして1月に議会がなんらかの法案を通したとしても、またすぐに問題が浮上してくるのではないだろうか。ある意味、アメリカ国民も、また米国経済が世界経済に大きな影響を及ぼしている現状からして、全世界の市民も、世界中で袋小路というか、行き止まりの旅路を歩んでいるような気もしている。しかし、この詩編121編に詠われていたことを、今一度、よくかみしめたい。 すべてを造られた主のもとから助けが来る。 全世界の市民が、すべてを造られた主、唯一の神、との関係をしっかり保つこと、主が与えてくださっている信仰に生きることで、袋小路が袋小路ではなくなる、行き止まりの旅路が、解放への旅路に転換する。   「神との関係をしっかり保つこと、主が与えてくださっている信仰に生きること。」と書いたが、これらがどういうことなのか、さらに聖書日課にある聖書箇所を読みつつ、10月20日の日曜の礼拝で与えられる御言葉を待ちたい。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace