Archive for February, 2013

Tweet 通算#1249号(日本語) 2013年3月3日の週報 通算#1249E号(英語) Sunday English Bulletin 1249E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet Japanese Ministry Pamphlet2013 LCR日本語部のパンフレットを掲載いたします。 若し、ご入用の方がいらっしやいましたら、印刷して差し上げて下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet  詩編を読もう:弱ってしまった時に (詩編 63: 1-9)  安達均牧師 どうしようもなく弱ってしまったと感じる時があっただろうか? 洗礼を受けて、最初は良かったけど、どうも色々な事がありすぎて、疲れ気味とか。。  こんなたとえ話をしてくれた方がいた:「洗礼を受けてすぐの頃は、きれいな森の静かな湖でボートに乗っているような気持ちで信仰生活を送りはじめた。 ところが、とんでもない干ばつ。。。湖の水はほとんど無くなってしまった。」  さて、今週与えられた詩編を繰り返し読んでみよう。  詩編63編から:  1:【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】 2:神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを  待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。 3:今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み/あなたの力と栄えを見ています。 4:あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。 5:命のある限り、あなたをたたえ/手を高く上げ、御名によって祈ります。 6:わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わた  しの口は賛美の声をあげます。 7:床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。 8:あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。 9:わたしの魂はあなたに付き従い/あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。 2節の状況をよく確かめた後、それから、3節から6節を繰り返し読もう。 さらに7節から9節も繰り返し読むことをお勧めしたい。  2節に書かれている内容は、多くのキリスト教信者が経験されることのように思う。 信仰共同体に歓迎されて、洗礼を受けたものの、近頃はどうも。 自分なりに神を呼びもとめても、神の存在を感じられず、教会を休みがち。。。 という方の心境。 3節以降は、そのような者に、新たな希望が与えられる内容。  詩編63編は、3000年前ダビデの経験したことだが、現代の私たちにしてみれば、3-6節は、礼拝に出ている時に、聖なる存在、神の栄光に気づかされ、賛美の歌を捧げるようになる状況が記されている。 また7節から9節は、日ごろの生活の中で、神へ祈り、神がずっといっしょにいて、守ってくださっている確信を取り戻す状況。 ある意味、健全な信仰生活を送る「コツ」のようなことが、詩編63編には書かれている。 「礼拝に休まず出る。」 神が招いてくださっている礼拝であり、牧師の話だけではなく、礼拝の流れの中に、多くの神の配慮がある。  「日ごろ定期的に神に祈る。」 祈ることは、最高の神とのコミュニケーションであり、身近におられる神の確かな存在を確信できる。  冒頭に書いたたとえ話には続きがある: 「すると、嵐がやってきて、大雨。 湖の水かさはどんどん増え、恐ろしくなった。しかし突然、嵐は止み、もとの静かな湖に戻り、ずっとボートの中にいる自分がいた。」  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 「祈り:最高の神とのコミュニケーション」 ルカ13:31-35  神学校の学びがは始まって3年生になれるかどうか、大切な面接試験を控えている前日のことだった。 一年先輩の神学生と話していた。 親身になって、色々な話をしたあと、「じゃ、とにかく祈るから。」と言われ、その日は別れた。 面接試験は無事に終わり、とて上手くいった。 その後、たまたま、その先輩と食堂で一緒になった。 私が、祈ってくれてありがとうと言い、面接試験がうまくいったことを話はじめたときだった。 彼の顔がどんどん、血の気が引いていき、そして、彼が、「I am very sorry」と言い出した。 「祈ると云っていたのに、祈らなかった。」と正直に私に話して、本当にすまないと言い出した。  結果はとてもよかったのだから、そんなに謝らなくてもと思ったが、私は、そのとき、彼から、とても重要なことを学んだような気がしている。 「祈る」ということの大切さ、実に高価なことを学ばせてもらったと思っている。  わたしたちは、祈るという言葉はよく使うがその大切さをあまり認識していないように思う。「祈ることしかできない。」と言ったりする。 「このつたない祈り」だとか、「小さき祈りを捧げます。」なんていったりする。 たしかに、祈るしかないということはあるし、謙遜の意味をこめて、そのような言葉を言ったりすることもあることはわかる。 しかし、祈るということを、卑下するというか、謙遜すべきことなのだろうか。 実は、祈ることはとても素晴らしいこと。 イエス様も本当に祈ることを大切にされていた。  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書のなかでは、祈るという言葉が68回でてきていた。 祈っているのはだれかを調べると、その内38回は主語はイエス。また、残りの30 回の内、21 回は弟子たちが主語、というか、イエスが弟子たちに祈ることを勧めている。この数からわかるように、イエスは祈っておられるし、弟子たちにも繰り返し、祈ることを推奨している。 また、祈るという言葉は使われていないところでも、例えば、ヨハネ福音書の本文のなかでは、「祈」という言葉は、2回しかでてこない。 それは、パンとさかなに感謝して、祈るときだけ。 しかし、祈るという言葉は使われていなくても、明らかに17章に書かれていることは、イエスが神に祈っている。  また、今日の福音書箇所にしたって、イエスを十字架に追いやってしまう罪深い人々が、将来、「主の御名によって来られる方、主イエスに祝福があるように」と祈ることをイエスは願っておられる。 主イエス、神なるイエスという方は、人間の身になってご自分でも神に、一生懸命祈られたし、また、イエスを十字架の死に追いやってしまうすべての人間を赦し、赦される人々全体がイエスの名によって神に祈るようになることを、切望しておられる。 祈るということは、神との最高でかつ、唯一のコミュニケーション手段。  イエスは、教会は祈りの家といわれる。 そう、この礼拝堂は、祈りの場。この礼拝堂に入って、祈るということはすばらしいこと。 わたしたちの現実、とくに、神社や仏教に親しみがある日本人は、とても、その感覚がわかっている方々が多い。 ただし、祈るということは、教会の礼拝堂の中だけでしかできないということではない。聖書を読むことは、いまでは聖書が家にあれば家でもできる。 祈りも、家にいても祈ることができる。 それは神さまが、私たちの間にいてくださり、さらに私たちの中にもいてくださるから。 パウロによれば、私たちの体が、神殿でもある。  さらに、祈るということは、聖書がなくったって、また、電話やコンピュータがなくたって、なにかほかのことをしながらでも、「神さま、ありがとうございます。」「神様、お願いします。」「だれだれさんがすごく困ってますが、神さまの思い通りになりますように。」「神様、ごめんなさい。」などなどという祈りは、どこにいても、なにかをしながらでもできる。 たとえば車を運転しながらでもできる。 しかし、車を運転しながら祈る場合は、目をつぶらないでください。  メッセージの最初に、私のために祈るのを忘れてしまい、ものすごく謝ってくれた先輩がいた。しかし、私はたとえ、彼が祈らなくても、主イエスキリストが私のために祈ってくれたと信じる。かといって、私たちは、「あなたのために祈りますよ。」といってすぐに忘れてよいということではない。 しかし、たとえ、私たちが祈ることを忘れてしまう時があったとしても、イエスが本当に頻繁に祈ってくださっている。  今日の私の祈りは、私たちが、さらに、祈るという生活習慣をつけ、神とのコミュニケーションをとれるように。 イエスさまご自身も、頻繁に祈ってくださっているから。 Prayer: The Best Way to Communicate with God Luke 13: 31-35 Grace and Peace to you in the Name of the Father, the Son, and the Holy Spirit. Amen. When I was in the second year of my seminary education, there was one of the three important interviews to proceed with the steps to become an ordained pastor. This interview was especially important because unless a seminarian passes this interview, he or she is not given an internship opportunity. A senior seminarian and I were sitting together on the day before the interview. He gave me good suggestions to prepare for the interview and just before we departed, he said to me, “I will pray for you that all goes well for your interview tomorrow.” The next day, the interview went really well. Right after the interview, I happened to meet with the senior student. I said to him, “Thank you very much for your prayers.” Right after I thanked him, I noticed that his face changed completely…the color of his face became quite pale, and he started apologizing, saying “I am very sorry. Although I said I would pray, I forgot to pray.” Since the outcome of the interview was good, I thought that he did not have to apologize at all. Even though I thought there was no need to apologize to me, I think I learned a very important thing…

Tweet Calendar2013年3月 2013年3月聖句カレンダ- Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

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Tweet Sunday English Bulletin 1248E 2013年2月24日の週報 週報通算#1248号(日本語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 悲しい事件が起こった。 というより、私の町でも、やはり起こったか。。。 というか、あきらめと不安がこみ上げてくるような感覚も否めない。  一昨日の事件当日の朝、5時半に起きて聖書を読み始めた。すると15分位たって、近くの消防署から救急車や消防車が出動する音が聞こえてきた。 しばらくするとヘリコプターの音も上空で聞こえ始めた。 テレビのニュースをつけたのは6時過ぎ。Tustinからの生中継をやっている。 見慣れた光景が写っている。 話をよく聞くと、すくなくとも4箇所で発砲事件。 すくなくとも二人は死亡と言っている。 そして、その4箇所のうち2箇所は、私の家から教会に行くまでに通るところ。。。  今週、詩編27編が与えられていることに感謝している。以下、読んでみよう。  1:【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。 2:さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。 3:彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。 4:ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。 5:災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ 6:群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。 7:主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。 8:心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 9:御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。 10:父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。 11:主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。 12:貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。 13:わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 14:主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。 上記の詩編を、二回、三回と読み返して欲しい。 できれば声を出して。  「主は私の羊飼い。。。。 たとえ死の谷を行くときも、私は災いを恐れない。」という詩編23編を連想させる。 みなさんは、どんな心境になられるだろうか?  キリスト教信仰は、危険な目にあわない、とか、凶悪犯罪に遭遇しないという教えとは断定できない。  普段からの行いが良いとか悪いとかには関係なく、どうしようもない苦境や苦難に遭遇することがある。  そもそも、主イエス・キリストという方、ご自分には罪が全くないのに、十字架に架かられ墓にまで葬られる。しかし復活される。  その活きておられる主イエスキリスト、神と聖霊とともに、この世に臨在しておられる、三位一体の神が、どんな苦境や苦難の時にも、近くに居てくださり新しい道が備えられるという信仰を覚える。 本当に亡くなった方々のことを思うと、やりきれない気持ちにもなる。 どのような信仰をお持ちの方々か存じ上げないが、しかし、復活を信じる者として、主の慰めと励ましを祈る。 タスティンやその近辺で起こった、無差別殺人。 犠牲者となった方々のご家族、また近隣のコミュニティ、不安が押し寄せてくるのもわかる。 しかし、詩編27編に詠われているような祈りを、なんども唱えたい。 そしてコミュニティにおられる一人一人が、この詩編を詠んでいただければと願う。 なんで恐れようか? 不安をおぼえつづけることはない。 主に祈る時、その場に主の働きが存在していることの確信があり、そこに慰めがある。  次の道が与えられるまで、待つということが必要な時もある。 待つなかにも不安は覆いつくされ、安心がある。 安心だけではなく、心は強められる。 何れは、新たなステップを歩んでいく勇気が与えられていく。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ご存知の方もいらっしゃると思いますが、昨年の6月この教会から5人の参加者がバルデイ山に登りました。私達は、6ヶ月前からそれに備えて月一回の訓練もを重ねました。当日はハイキング用の特別な靴を履き、充分な水と体力を保つためのスナックも備えました。     5人の中で私が1番のろまでした。私は高山病の恐れがあるので、1万フィートの高さは大きな障害になるだろうと解っていました。また私は肺の状態も少し問題があるので呼吸困難を招く心配もあり、このハイキングは私にとって大変な努力を課するチャンレンジでした。 山道は狭くて急な上り坂があり、またある所では40マイルの突風が吹いていたりしました。私の歩きはのろく、遅れがちでしたが仲間は励まし続けてくれました。私に向かって「あせらずに、必要ならばいつでも休むように」、又「大丈夫、ガンバレ、やれば出来る!」と励まし続けてくれました。山の頂上直前の最後の1/4 マイルは特に急坂で、私の肺も両足も疲労困憊状態で、正直言ってもう諦めたいと思いましたがどうにか頂上まで登り着きました。その時「ね、信じて頑張ればちゃんと達することができるじゃない」と友人が言いました。 その言葉こそ多くの私たちは人生を通して言い聞かせられる言葉です。もし私達が自分を信じているなら、自信をもって何事でも達成することが出来ます。 テニス選手のヴィーナス ウィリアムスは「勝利を獲得したいなら、自分を信じていなくては勝てない」ノーマン ヴィンセント パールは「自分に自信をもっていないなら絶対成功できないし、幸福にはなれない」と言っています。 私たちは皆「自信」を持って生きて行かなくてはいけません。でもそれだけで充分なのでしょうか?自分の意思と決心と勇気と忍耐だけで人生が決まるのでしょうか。そうだと言う人は大勢います。私はそうは思いません。なぜなら聖書の66の本の中で神様は私達に神を信じるようにと招いているからです。 私は以前からヨシュアの話が好きです。モーゼはエジプトから民を解放して40年間砂漠を彷徨いました。そしてようやく約束の地に達する目前にモーセは亡くなり、リーダーの役はヨシュアへとバトンタッチされました。彼は長年モーゼの助け人として仕えましたから、彼が謙虚で忠実な人物である事は立証済みですが、彼自身はヘブライ人を導けるかどうか、自信がありませんでした。しかし、何度も勇気を持って強く在れ、と自分に言い聞かせたに違いないと私は思います。彼は自分を信じるように、自信を持つようにと言われたのですが、一番大切な事は、神を信じるように、と言われた事なのです。そして神様は彼にこう言いました:「どこへ行こうとも、どのような問題に直面しようと、どんな困難な状況に出会おうとも、私はあなたと共にいる」。 ヨシュアは神様が常に側にいて下さる約束にどれ程励まされたことでしょうか。 話はもとに戻して、バルデイ山の頂上を目前に私はもう体力を使い果たしていました。山頂到着を達成したい思いは変わりませんでしたが、体力の方が維持できず、達成不可能だと思ったのです。 グループの中には最近高校を卒業してスポーツの奨学金でオレゴンの大学に入った女性がいました。ですから、勿論体力は充分に訓練されている事は予想できるでしょう。私が苦しんでいる場所に彼女は逆戻りして降りてきました。そして、私と一緒に頂上まで登るつもりだと言いました。何度私が休んでも、どんなに時間がかかっても、私と同時に頂上に達するのだと言いました。彼女は意を決して私の達成を見届けようとしたのです。 「神を信じる」と言うことはこれに似ているのではないかと私は思います?どんな厳しい道でも、楽しい時も辛い時も、神が常に一緒に歩いてくださると信じること。信仰とは神が「勇気を持って強くありなさい」と語りかける言葉を信じること。信仰とは私たちに最善を望まれる神の手に未完全な自分を委ねること。 果たしてヨシュアが自分はヘブライ人を約束の地に導いていく忍耐力と勇気があると信じたかどうか私は解りませんが、彼が実行できたのは、神の約束が有ったからこそできたのです。私達も同じだと思います。 私たち一人一人それぞれに登らなくてはならない山があり、道は細く、坂は急で、時にはもう諦めたくなるでしょう。自分には出来ないと思う事もあるでしょう。あまりに辛くて、諦めたほうがましだと思うでしょう。もしそう思う時があったらヘレン スタイナー ライスの言葉を思い出してはどうでしょうか:「どれほど山道は険しくても、神は一緒に登ってくださいます」。 神様の差し出す手を取り、一歩ずつ前に進みましょう。天の国を見あげ、必ず神様が頂上まで導いてくれる事を信じて行きましょう。 * ヴィーナス ウィリアムス:テニス プレイヤー * ノーマン ヴィンセント パール: 牧師、作家 * ヘレン スタイナー ライス:有名な宗教的詩人    民 Day 訳 “The Walk of Faith” Sermon for Feb. 17, 2013 Some of you know that last June five of us from church climbed Mt. Baldy. We had trained for that adventure for over six months by taking monthly hikes with each one a bit more challenging than the last. On the day of the climb we wore good hiking boots, carried plenty of water and snacks to keep us energized.Of the five I was the slow poke of the bunch. I suffer from altitude sickness and I knew that Mt. Baldy’s altitude of 10,000 feet would affect me. I also have a slight lung condition that makes breathing a bit more difficult when I exert myself. So, this hike was going to be strenuous and challenging. Some of the paths up the mountain were very narrow and steep and in certain sections the wind was blowing over 40 miles an hour. Even though I was walking very slowly and fell behind the others, my climbing companions kept encouraging me. They told me to take my time and to rest as often as I needed. Over and over they said: “You can do it…You can make it.” The final quarter mile to Mt. Baldy’s summit is especially challenging. It’s very steep and my both my legs and lungs were very tired and I must confess that there were times when I just wanted…

Tweet 2013年2月17日の週報 Sunday English Bulletin 1247E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]