Archive for March, 2011

Tweet 新年の集まり 1月2日が2011年の初めての集まり、教会の中は病気の芙美さんは欠席,日本訪問の安達さと子さん、その他来てない方もありましたが私にとってはとても心温かくすごした日でした。 早めに着きましたが、大きな助けの芙美さんが欠けているために、キッチンと日本語部の物置を数回行き来して物を運ぶ事で大切な時間が去って行き少し心が騒ぎだした時に全く神の助けのように安松さんがOCTA〈オレンジ郡交通局〉で来られました。健康の様子がわからないから躊躇しましたが,安松さんの熱に負けて手伝って頂く事を受け入れました。3年前始めての新年天ぷらをやった時にも安松さんと私との2人でやりました。数日前に買い物をしながらも安松さんのことを考えていたのです。さすがは横浜のお魚屋さんのお嬢さん、シャキシャキと動く人です。 安松さんは私が持って来た2つの前掛けの一つを着けて「どれ?これ?」とテキパキとやりだして25皿のサラダの準備、25杯の天汁の準備ができました。その後は私が野菜やエビの準備をしている間にホットポットを準備しテーブルを準備してもらいました。「神は戸がしまると窓を開けられる」とはこの事だなあと思いました。 礼拝が終わりキッチンにいる私に数人の方が「何をしましょうか」と助けの手を出されました。ナンシーには緑茶をお願いして、岸野先生にはリードをお願いして,尚美さんには全体の監督とウェイトレスをお願いして皆それぞれ良く役を果たしていただきました。トムさんもウェイターをお願いしてありましたが佳代子さんがウェイトレスに自主応募されたのでトムさんには座っていただきました。 レンジの前にいる私にはテーブルの様子はわからないのですが尚美さん、佳代子さんの報告を信用して上手く行って居るらしいことを喜んで皆さんがおなかいっぱいになるまで天ぷらを揚げ続けて、そのあと私の食べ物を持って席に着きました。(知ってのように私は天ぷらもご飯もデザートも食べられません。エビと野菜をソテーして頂きました)作ったものを食べないシェフは信用できない料理師と言われるのですがどうでしたでしょうね。 皆さんが食べ終って口が自由になったところで「今年のレゾリューション〈決心〉は皆さんなんですか」との岸野先生の質問でそれぞれが話しました。勿論アメリカのレゾリューションは悪い癖を「やめる事」を決心し、日本人は今年は「これをやろう」と決心する事で、反対と言えば反対ですが、目的は同じでしょう。 片付けに入ると皆様全員が協力されて、皿、ごみの始末、残り物の始末、使わなかった皿や箸、炊飯器、ホットポットなどを日本語部に持ち帰るなど、お頼みすることなく果すことができたようです。さすが20人近い人数への油物のなべなど洗い物は随分ありましたが尚美さん、佳代子さん、その他の方々の働きで終りました。汚れた布巾は深見さんが自宅で洗濯するとの事、一番最後のごみを上原さんが持ち出されて、戸締りを岸野先生に託して雨の中に車に入ると天ぷらの成功と皆様の手助けを神に感謝した後、帰途につきました。 では又来年楽しくやりましょうね。芙美さんは来年は天ぷらをする2週間前は無菌テントに入れようと思いますがどうでしょうか?                2011年1月3日    民 山本 Day 「1月2日は日本語部恒例の天プラ・ランチが民さんのご奉仕で ありました。これはその時のことを 民さんが書いて下さいました。 残念ながら写真を撮れませんでしたが、楽しい雰囲気をご想像下されば 幸いです。」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  2008年5月19日       世界宣教会議に参加して 4月21日に、東京市ヶ谷の福音ルーテル教会本部にて、世界宣教の会議がありました。ドイツから帰国された松本先生、李神学生、そしてロスアンジェルスからは伊藤牧師がそれぞれの体験談を交えての外地での宣教報告をされました。伊藤先生の依頼で、丁度20日の夜日本に着いた私もその会に参加させていただき、大変に良い経験をさせていただきました。 ドイツから帰国された松本牧師は、現在経済低迷の折に、教会経営が困難になって来ている事、そして4つの教会を3人の牧師でどうやっていくか考えている事などを報告の中で話されました。それを聞きながら、私達も今年の1月から伊藤先生がお一人でトーレンスの日本語部とハンティントンビーチの日本語部を兼牧される事になったこともあり、どこも同じような状態なのだろうか、と興味深く報告の内容を聞かせていただきました。同じようにドイツに留学された李明生神学生も、様々な体験談を交えて、ドイツでの宣教報告をされました。最後に伊藤牧師がトーランスとハンティントンビーチでの活動報告をパワーポイントで報告されました。伊藤先生は力強く、「日本から若い牧師を海外に送って、外の風に吹かれる必要がある。日本国内だけの宣教ではこれからの世界には通用しない、もっと外にも目を向けて、世界の宣教の動きを知る必要がある」と、強く発言されました。確かに、これからの外地での伝道は今までのように「日本語を話す」一世を対象に、ただ日本語の説教をすればいいだけではありません。2世や3世はその地で生まれてその地の言葉を不自由無く話し、却って日本語がおぼつかなくなって行くのが現状です。 しかし、そんな状況の中で、日本文化を大切にし、習慣、風習などをそれなりに受け継ぎながら生きている2世3世達に、「日本に触れる事ができる場所」を与えて上げる必要性を切に感じるのです。 私がアメリカに移民して来てから30年以上の月日が流れました。30年前と比べると、嘘のように東洋の文化がこの南カリフォルニアの地で取り入れられています。アジア系のマーケットも沢山あり、レストランも昔は、「アメリカナイズ」された日本食ばかりだったのが、今は「ここは日本か?」と思わせるような居酒屋も増えています。そんな環境の中で生活している私たちですが、やはりどこか根無し草のような気分になる事もあります。私達は日本で生活している日本人ともちょっと違い、アメリカに住んでいても100%アメリカ人ではないわけです。ですから、伊藤先生が発言されたように、この場所に来て、ここで生活してみなければ、この状況はわからないわけです。日本から送られてくる牧師、宣教師の方々が、真剣にそれを理解して下さり、神様から与えられたチャレンジに取り組んで下さる事を私達は祈ります。 市ヶ谷の福音ルーテル教会も、日本国内のさまざまな問題に面していると思いますから、国外に宣教活動の目を向けるのも容易ではないことでしょう。実際,残念な事にブラジル伝道は今年で幕を閉じます。私達も日本語部信徒達の加齢により、礼拝参加者の人数が少なくなったりする傾向を目の前にし、どうなるのかな、と心配する事もしばしありますが、神様の御心ならば、きっと神様は私達と共にいらして、いかなる困難も一緒に乗り越えて下さる事を信じ、信徒達が出来る限りの奉仕をさせていただいています。  神様が私達をこの場に置かれているように、日本から来られる牧師や宣教師の方々も同じように神様が彼らを日本から送り出し、宣教と言う使命とともにこの場に置かれるわけです。それを思うと、何週間か前に伊藤先生による「聖書を読む会」 で学んだ使徒言行録のパウロを思い出します。 何千年という月日が流れても、未だに私達は「寄留の民」なのです。ですからキリストの愛が私達を支え、力づけ、どんな時にも「国籍は天にある」と確信して生きて行きたいものです。                 LCR役員 Liang 芙美 記 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet LCR Peace Journey (平和の旅)  2009年の2月から計画を立て始めたLCR平和の旅が、今年2010年6月に実現した。航空会社から始まって宿泊のホテルは勿論の事、日本での目的を達成する為に時間をかけて細かく計画を立てて行った。日本と連絡を取り合っている時や、様々な問題に直面したときは、このプロジェクトは何時まで続くのだろうかと思ったが、全ての旅行が終了した今、あっと言う間だったと、感慨無量である。  去年の10月までLCR日本語部の牧師を務められた伊藤文雄先生の計らいで、2007年と2008年の2年連続して、日本福音ルーテル教会事務局長の立野泰博牧師に来ていただき、LCR日本語部の特別伝道ゲストスピーカーをお願いした。当時立野牧師は広島ルーテル教会で牧会をされていた。2度目の訪米の際、LCR(復活ルーテル教会)と広島ルーテル教会が今後姉妹教会として交流を始めてはどうかと提案させていただいた所、立野先生は快く受け入れて下さった。LCR主任牧師Zimmermann先生、そして伊藤牧師も喜んで同意して下さり、後にLCR役員会でも正式に承認された。その事が引き金となり、LCRユースグループのコニーに「若者を日本に連れて行かないか?」と話してみた。ユース(青年部)とファミリーのディレクターを務めるコニーは、「今年はもう無理だけれど、来年に向けての計画ならば実現できるかも知れない」とゴーサインを出してくれた。立野牧師は既に市ヶ谷の日本福音ルーテル教会事務局長の職務に就かれていたので、直ぐにJELCに連絡をとり、総会議長の渡邊先生、シカゴELCA本部 Global Mission担当の石田先生及び私達教区の教区長Bishop Finckにも正式に計画表を送った。また、10月に日本に帰国された伊藤牧師とも連絡をとりながら、着々と計画を進めて行った。4月にはLCR教会員に呼びかけ、参加者の募集を始めた。6月には22名の応募者があった。毎年8月に行われるVBS(Vacation Bible Study 夏期聖書学校)では毎年子供達が募金を集める。今年は来年度の広島平和旅行を目指し、佐々木貞子さんの千羽鶴の話を紹介し、子供達ができる平和運動への募金を呼びかけた。そして広島教会がモスクワのナタリア医師と共に、ロシア・チェルノブイリで被爆した子供達の治療の為に設置した団体「Heart of Child」に募金をする事に決定した。総額$1,600が集まった。子供達には、日本語部の皆さんが作った千羽鶴と共に、この募金を広島に届ける事を約束した。  何回もミーティングをし、準備に準備を重ね、いよいよ出発の日が来た。20名全員LAXに11時15分に集合し、シンガポール航空のカウンターでクループチェックインを済ませた後、いよいよ出発である。機上ではそれぞれに11時間を過ごし、無事成田国際空港に到着。税関を出て外にでると、懐かしい伊藤先生と立野先生が出迎えて下さった。その場で両替を済ませた。JRパスは成田で交換する予定が、飛行機の到着が遅れた為に窓口が閉まってしまい、明日に廻す事にする。シャトルバスでホテルヒルトンに到着、チェックインを済ませ、おやすみなさい、とそれぞれに部屋に分かれて行った。明日の朝は10時にロビー集合だ。  第一日目:10時にロビーに集合。既に立野先生と伊藤先生がロビーで待っていて下さった。全員LCRのTシャツを来てこれから東京ルーテル教会へと向かう。シャトルバスが行ってしまったので、歩いて新宿JR駅へと向かう。そこから新大久保の東京ルーテル教会は総武線に乗って直ぐである。教会の前に大学生のように見える関口牧師が立って皆さんを出迎えていた。この日は丁度、崩壊した元東京教会に取り付けられていたステンドグラスを再び新しくなったこの教会に戻す記念展でもあった。東京ルーテル教会にとって歴史的なこの喜びを私達が共に分かち合えたのは幸いであった。礼拝の後、私達が皆さんに紹介され、コニーの挨拶に続いてLCRのTシャツを関口牧師に進呈し、皆さんには遥々アメリカから担いで来たキャンディーの袋詰めをプレゼントした。解散前に全員で写真を撮った。前任の伊藤先生、今回お世話して下さっているJELC事務局長の立野先生、そして2006年までLCR日本語部にいらした田中牧師ご夫妻も一緒に合同写真に参加していただいた。良い記念である。礼拝の後、青年部のボランティアによって2−3組に分かれた私達は、それぞれに東京の町へと観光に繰り出した。私は伊藤、立野、両牧師と一緒に新宿のみどりの窓口へと急ぎ、そこで20人分のJRパスを2時間かけて交換の手続きをし、22日からの京都、広島行きの新幹線の予約を全て滞りなく終わらせた。狭いみどりの窓口Officeで待たされながら、20人全員が並んだらどれほど大変だっただろうと想像し、冷や汗が出た。夜は全員が市ヶ谷センターに集合した。そこで立野先生や伊藤先生が東京教区長の大柴先生のご協力も得て準備して下さった御弁当、飲み物、果物、そして伊藤靖子牧師婦人のお手製ケーキをおいしくいただいた。解散前にコニーがその日のDevotionを行った。皆第一目の日本を満喫したようすでホテルへ帰った。 明日の朝は8時15分ロビー集合だ。  二日目:この日は午前中に東京観光が入っている。8時15分に全員が集合し、胸にスティッカーを貼る。Tokyo Morning Tourと印刷されたスティッカーを全員が貼ってバスに乗る。あいにくの小雨だったが、東京タワー、明治神宮、御所、銀座と回り、銀座で解散する。伊藤先生が出迎えて下さり、そこから本郷の学生センターへと向かう。すでに12時を回っていたので、通りがかりの「木村屋本店」によってパンを買い、暫し「腹の足し」にした。本郷教会では、学生センターの安井先生が何人かの方と出迎えて下さった。東京大学の真向かいにあるこの教会には、毎週50名の学生が集まるそうだ。机の上に沢山並べられた素晴しい折り紙の傑作は私達の為に準備して下さった。安井牧師のお話しの後、遅いお昼を東京大学の学食で済ませ、そこからホテルに戻る組と、浅草に行く組に分かれた。浅草組は伊藤先生が案内して下さった。浅草で買い物を楽しんだ後、疲れてホテルに直行するつもりだったのだが、そのまま新宿のデパ地下に行く。そこで簡単な夕食を買ってホテルに戻ると、丁度「これから町に繰り出す組」に出会う。「Have a good time!」と手を振って、私は部屋に入って足を椅子に投げ出した。明日はいよいよ京都だ。  三日目:11時33分の新幹線で京都に向かう。先ず10時にロビーで集合した私達は、ホテルのシャトルバスにスーツケース共々乗り込む。他のホテル客に申し訳ないとは思ったが、この際仕方がない、20人同時に乗り込ませてもらった。新宿駅の中をガラガラとスーツケースを引いた20名が一列になって改札を通る有様は何とも絵になる。問題なくJRパスを見せて改札を通り抜け、中央線に乗って東京駅に無事到着。なんと早く着いてしまったので、皆スーツケースをホームに置いて、ランチを探しに行く。新幹線の中でランチを済ませ、京都到着。 駅前からタクシーに乗る。3—4人一組でタクシーに乗り込み、京都烏丸ホテルに向かう。20名を誘導するのも容易ではない、何しろ私だけが日本語を話すわけだから、各タクシーの運転手に説明し、お願いし、私は最後のタクシーに乗り込んだ。大変な騒ぎだ。よかったことに、この烏丸ホテルは四条にあり、自分達で歩き回っても決して迷う事はない。チェックイン後、5時にロビーに集まり、京都のスペシャルナイトに参加するグループを祇園まで送って行く。タクシーで行く人達の為にタクシーの手配をし、あとは全員が歩いて祇園へ。鴨川を越えると古い京都がそのまま目の前に現れる。歌舞伎座も町並みも風情があって良い。スペシャルナイト組を送り届け、残りの「ぶらつき組」は祇園をぶらつきホテルに戻る途中のおそばやで夕食を済ませる。近くのお店でアイスクリームを楽しみ、ホテルに戻ったら丁度スペシャルナイト組が帰って来た所だった。それぞれに京都の第一日を楽しんだ。明朝8時10分ロビー集合。  四日目:京都一日観光の日だ。昨日のスペシャルナイトを担当した同じガイドさんが今日も私達の担当だ。生まれた時から京都にいる彼女の巧みなガイドで一日名所を回る。金閣寺から始まって最後は清水寺で終わったが、8時半から6時まで、びっしりの京都観光を満喫してホテルに戻った。コニーが若者達を連れて夕食に繰り出してくれた。私はもうその気力も無い。青年達が食べ放題のしゃぶしゃぶを喜んで終わりを知らずに食べたと次の朝報告があった。  五日目:京都から広島に向かう。新幹線は新神戸で乗り換えるが、プラットフォームを換えなくて良いと解り一安心。この日の朝早く朝市で買ったあれやこれやを袋に積め新幹線に乗りこむ。皆さんだんだん慣れて来たようで、座る場所もすぐに見つけて、スーツケースも若者達が上に上げてくれる。この旅行の始めに、若者達と年配者達が混合しているこのグループは、結構難しいかも知れないと思っていた私は、目の前で若者達が年配のメンバーを喜んで助けている姿をみて、神様の素敵な計らいに心から感謝。広島に到着すると、駅に立野先生の長女、華美さんと広島ルーテル教会のメンバーで保育園にも勤めている陽子さんが迎えに来てくれていた。市電よりもバスでアステールプラザに行くほうが良いという事。二班に分けなくてはならないかと思ったが、広島駅始発のバスだったので、20名とそのスーツケース、そして華美さんと陽子さんもどうにか乗り込む。他の乗客にじろじろ見られてもしかたない。運転手さんが気をきかせて真ん中のドアを開けて降ろしてくれた。何時ものように、バスの前ドアから一人一人スーツケースを引きずって下りていたら何時までかかることやら。そして無事アステールプラザ到着。フロントのお二人は何度もメールでやり取りをしていたので、初対面とは思えないのが嬉しかった。それぞれの部屋にチェックインしてから、5時に7階の研修室で広島ルーテル教会の鷲見牧師と役員の何人かと対面する事になっていた。西田さんの通訳で鷲見先生並び役員のかたが自己紹介をされた。私達も自己紹介をし、その後コニーが今日のDevotionを始めた。広島教会の皆さんもそれに参加し、平和への思いをそれぞれが語った。私達は、広島教会の皆さんの証しに感動した。佐々木さんは、両親が亡くなった後、仏教だったので毎月お坊さんを雇って供養をしていたが、自分に何かあった時、誰も優しくしてくれなかったが、友達が教会に連れて行ってくれた時、そこの牧師がとても親身になってくれた。それがクリスチャンになる始まりだったと証をされた。そして原爆の被害者かどうか、その事を語りたがらないので、亡くなった後に解る事が多いことなど、私達にはとても想像がつかない貴重なお話を伺った。皆さんのお話を伺った後、感想としてクリスが話した事も印象的だった:「アメリカでクリスチャンであることは、親の代からとか、自然にそうなっている事がほとんどだから、取り立てて考えた事もないが、今皆さんの話をきくと、日本ではクリスチャンになることは“GIFT”であり、自分たちのような “GIVEN”とは違う新鮮さがある。」と彼は語った。夜は東京から着いたばかりの立野先生と合流し、居酒屋へ行く。立野先生は広島で12年間牧会をされていた間、いろいろな交わりがあったのだろう、とにかく顔が広い。居酒屋でおいしい第一夜の食事を済ませ、ホテルへ帰る。夜から雨となった。  六日目:朝9時に研修室に集合し、Devotionの時が持たれた。立野先生から今日のツアー内容が書かれた資料を昨日いただいた私は、今朝早くそれに目を通しながら、既に涙が出て仕方が無かった。始めのページに赤インクで書かれている言葉に先ず目が止まった:ゆるすこと あいすること そして希望を! と書いてある。立野先生が12年間広島に過ごし、見えて来た彼の「ヒロシマ」、そして真の平和を伝えたいと願う強い思いがこの30ページに書かれてある一言一言から感じられた。9時のDevotionの前にコニーに今日のスケジュールを説明しながら、立野先生のガイドブックを既に読んで感極まった事を打ち明けた。彼女は即、「今朝のDevotionはそれにしよう。」と決め、立野先生にもお話をしていただく事になった。 20名全員が真剣に聞いた。これから平和資料館、平和公園、佐々木貞子さんの像、本川小学校、原爆ドーム、原爆が実際に落ちた場所である島外科、相生橋、原爆供養塔、朝鮮人供養塔と回って行く前に、先生はご自分の信念である「被害のみを語ることでは平和はつくり出せない」事を力説された。アステールプラザを出発する時にぱらついていた雨が、平和資料館に着く頃にはかなりの雨になっていた。1時間半資料館を見学し、それぞれがいろいろな感想を抱いたまま雨の中を平和公園の中を歩いた。平和資料館から直線でドームが見える慰霊牌の前で止まる。ここにある石の棺には、原爆被害者で名前の解っている方の名簿が入っているという。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と碑に彫ってあった。佐々木貞子の像まで来た。アメリカから各自袋に入れて持って来た千羽鶴の房を取り出す。一房50の鶴が繋げられているから、20人で千羽になる。去年の8月に子供達とした約束を今ようやく果たせる。VBSの子供達集めた募金と、日本語部の有志が作成し、平和祈祷礼拝の際教会に飾った千羽鶴を私達20名が広島の地に持って来たのである。雨が降り続ける中、佐々木貞子の像の前で皆が鶴を手に取って記念撮影をした時は、LCR全員の平和の祈りをこの地に運んで来る事ができた幸いを神様に深く感謝した。千羽鶴の献納を終え、LCRの名前を記入し、メッセージの箇所には、コロサイの信徒への手紙3章15節から:「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」と書いた。この聖句は、始めに平和旅行を企画した時、コニーが聖書を開いたとたんに飛び込んで来た聖句であり、今回のテーマ聖句である。私達が毎日持ち歩いているDevotionの表紙にも、Peace Journey to Japan 2010と書いてある下に、“Let the Peace of Christ rule in your hearts, since as members of one body you were called to Peace.”と書かれている。このあと私達は本川小学校へと歩いた。この小学校の校庭で多くの死体を燃やした為に、いまでも掘れば骨が出て来るという。この学校の地下は当時捕虜収容所であり、7名のアメリカ兵と2名のドイツ神父がいたそうだ。原爆投下後、2名のアメリカ兵が生き延びたが地下牢から出て来たとき、それを見つけた日本人達が相生橋の欄干にくくりつけて殴り殺されたという。その話を聞いた後、一人のLCR参加者で大学生のZがこう言った。「もし自分がその時の日本人だったら、原爆を落としたのがアメリカ人だからアメリカ人をみたら憎くて同じ事をしたと思う。」と感想を述べた。確かに戦争を知らない私達には解らないことが沢山ある。戦争で死んだ人達は普通に生活をしている市民だった。広島でその朝「行って来まーす。」と出て行った学生達だったのだ。そして殺された捕虜のアメリカ人が原爆を投下したのではないし、彼らも戦争の被害者だということに違いはない。皆戦争はいけない、非道だということは頭でよく理解できている、しかし、本当に私達は何を解っているのだろうか?解っていたら戦争の無い平和な世の中になっているはずだとおもうのだが。そこから私達は原爆投下の真下にある島外科を通り、原爆投下地点であった相生橋のT字の箇所を通り、本来はこの場に落ちるはずだったが風があった為に投下地点が少しずれたことなどの説明を聞きながら、原爆供養塔へと歩き続けた。雨は酷くなるばかりだった。 お椀を伏せたような小さな丘が原爆供養塔だった。ここには何万という名前の解らない遺骨が納められている。多くの強制労働を強いられていた朝鮮人や中国人、モンゴル人、そして捕虜のアメリカ人ドイツ人も皆差別無くここに眠っている。そしてその側には、やっと平和公園内に移された韓国・朝鮮人慰霊牌がある。韓国の方に顔を向けている亀の像が背負っているその牌には、韓国の人々の平和への願が刻まれている。全ての怨みと憎しみを忘れて安らかに眠って下さい、このような悲劇の種を蒔く者も受ける者もないように、皆が助け合い親しく仲良く暮らすことができるように見守って下さい、と記されている。まさに相手を赦す事によって始めて得られる平和をそこに見ることが出来たと思った。そこから私達は雨の中を歩いて広島ルーテル保育園へと向かった。立野先生が「歩いて10分ですよ」と言われたので安心して歩き始めた私達だがいつまでたっても「あと10分です」で、本当に到着した時には雨の中を30分以上も歩いた為に、全員びしょぬれだった。でも、私達を待っていてくれた4歳児と5歳児の子供達の笑顔に迎えられ、びしょぬれな事等すぐに忘れてしまった。なんとも可愛い子供達がお歌を披露してくれ、手作りの折り鶴を一人一人にプレゼントしてくれた。その後剣玉の披露もあり、私達に教えてくれたりして、和やかに楽しいひと時を送った。雨はひどくなる一方なので、タクシーでアステールプラザまで帰った。この夜は立野先生がお好み焼きをごちそうして下さる事になっていた。 おいしいお好み焼きに皆さん感激したのは勿論の事、その場に同席された橋本さんは、毎朝4時に起きて、原爆供養塔の回りを清掃されている事を聞き、感動した。そこに彼の両親が眠っていると信じて、毎朝通ってそこを守っているそうだ。ここにも平和への強い願が感じられる。私達は、橋本さんが書かれた水彩画の絵葉書を記念にいただいた。大切にしたい。その夜は疲れて直ぐに眠りについた。明日は宮島観光だ。天気が良いといいのだが.....  七日目:大雨。宮島観光は大雨に関係なく続行した。広島駅までバスで、そこからJRで宮島のフェリーがある駅まで、そしてフェリーで宮島へ。宮島に着いても大雨。皆傘をさして歩くので何も見えない。残念。この日は立野先生の他、華美ちゃん、陽子ちゃん、そして華美ちゃんの双子のお友達春菜ちゃんと若菜ちゃんもガイドで来てくれた。厳島神社の後、それぞれのグループが別々に行動する事になったのだが、なんとも雨が降っているのでどうにもならず、結局メインは「牡蠣」料理で、その後はお土産屋をみて3時にはフェリー場に集合となった。この夜は立野先生の知り合いで「豆匠」という有名な豆腐料理に行った。雨なのだが、お庭がとても奇麗で、日本の首相が良くここに来られたという理由が理解できる。皆さん多分一生二度と見る事はないだろう豆腐料理が次から次に出て来るのを心行くまで楽しみ、お座敷での記念撮影もしっかりと終えた。楽しい雨の一日だった。  八日目:荷造りを終え、チェックインを済ませ、帰り支度をして広島ルーテル教会の主日礼拝に出席した。佐々木さんを始め、立野牧師婦人や広島ルーテル教会の有志の方が車でスーツケースを教会まで運び、私達の移動もして下さった。お陰で全員歩く事無く広島教会に到着。偶然にもシカゴのGlobal Mission担当の石田先生もシカゴに帰る前にこの教会に来られたので共に礼拝に出席する事ができた。礼拝の後、婦人部の心温まるお昼をいただいた。おいしいカレーをお腹いっぱいいただいた後。広島ルーテル教会メンバーでもある茶道の先生が、生徒さん達と一緒にお手前をご披露して下さった。そして私達も一人一人茶道の体験をさせていただいた。何よりもの土産話である。広島ルーテル教会の皆様と、楽しく交流できたことは本当にありがたかった。前任牧師の立野先生が市ヶ谷センターに事務局長として行かれた後、鷲見牧師が牧会をされている。立野先生とちがって、個人的に馴染みの無いLCRの私達を快く迎い入れて下さったことに心からお礼を述べた。そして私達は新幹線で東京に帰るべく、広島駅へと急いだ。何度も広島に行った事がある私に取っても、今回の広島は一生忘れる事がないだろう。  九日目:朝6時にロビー集合。皆さん昨晩は遅くホテルヒルトンに到着したにもかかわらず、しっかり6時に集まってくれた。歩いて大江戸線に乗り築地市場へ。改札で私の従姉妹と待ち合わせをしていた。彼女が築地市場内に案内してくれるコネをつけてくれたのだ。築地市場内でマグロの解体や、珍しい魚を沢山見学したあと、寿司三昧でおいしいお寿司を食べ、買い物をしてからホテルに戻る。この後はそれぞれ自由行動。秋葉原へ行くひと達もいれば、デパートをぶらつくひと達もいる。皆さんそれぞれに「勝手知ったる新宿」とまでは行かなくても、自分でホテルヒルトンまではどうにか帰れるようになっている。この日は最後の日なので、最後のDevotionを6時にロビーに集合してする事になった。立野先生も広島からすでに東京に戻って来ていて、6時に伊藤先生と共にホテルヒルトンのロビーに来ていた。明日アメリカに帰る組が14名、日本に残る組が5名、サイパンに朝一番で発つ人が1名、日本滞在最後の集合だ。全員異口同音に伊藤、立野両牧師に心からお礼の言葉を述べた。そしてこの旅行で得た掛け替えのない体験をお互いに分かち合った。 夕食は地下街で簡単に済ませるという事で、近くに有名な丸亀製麺があるという事を聞いていたので、それを立野先生に話すと早速場所を調べてくれた。「歩いてすぐですよ」と言われ、それを信じた私達は、再び永遠に歩き、やっとたどり着いた時にはもう皆おなかがペコペコ、ところがそこは既に長い列ができていて、皆ただ黙々と列に並んで順番を待った。さすがにおいしかった。  最終日: 14名が2時5分のシャトルで成田に向かう。コニー達は友人が迎えに来て11時半にホテルを出る。皆さんチェックアウトは12時なので、11時半頃からロビーに集まっている。先ずはコニー家族が手を振って別れを告げホテルを出た。私は14名がバスに乗るのを見届ける為に午後まで残ってから弟の家に行く予定になっていた。2時5分のバスに乗る前、一人一人とハグをし、挨拶を交わしながらこの十日間の平和旅行が、これで終わる事無いようにと願った。今から私達20名の使命が始まる。今回の忘れられない体験と、キリストにあって得られる真の平和を忘れずに、「ゆるすこと あいすこと、そして希望を!」の信念を、私達が世界中にまき散らさなければ、と心から祈った私である。  戦争は世界各地でまだ行われている。毎日の生活の中にも、人を赦せない事が多々起こる。そんな時に、私達はキリストに戻り、キリストの助けによって人を赦す心を得る事ができる。全能の神様、私達が家族を、友人を、他人を、他国の人を、神様が生命を与えた全ての人々を大切にできるように、どうぞ神様私達の心に、あなただけが与えられる平和をもたらして下さい。アーメン。 2010年7月8日       芙美Liang 記録 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet LCR日本語部宣教開始22周年記念礼拝 立野泰博牧師を迎えて 私達日本語部にとって、11月に迎える宣教記念礼拝にどなたをゲストスピーカーにお呼びするか、それが毎年の大きな課題である。今年は再びJELC(日本福音ルーテル教会)事務局長の立野泰博牧師をお迎えすることができた。立野牧師は私達の宣教20周年の時にも御祝いのメッセージをして下さり、私達にとっては親しみ深い先生である。特に今年の夏にLCRから20名の英語部教会員が日本を訪問した。その際、立野先生に大変お世話になった英語部のメンバーたちも、今年は私達日本語部のメンバーと一緒に立野先生のLCR訪問を心待ちにしていた。 立野先生が今回LCRに来られたのは、JELCからの公式訪問であった。前回は日本語部の礼拝だけ出席されたが、今回は公式訪問ということで、11月21日の8時半と10時15分の英語部の主日礼拝にも出席された。8時半の礼拝では、LCRの英語部と日本語部の聖歌隊が合同で「慈しみ深き」を日本語で合唱した。また、LCR主任牧師のZimmermann先生から、立野先生の紹介があり、立野先生からLCRとZimmermann先生に特別なギフトが送られた。広島の地に原爆の後再び芽を出し、成長した竹で作ったパン・フルートと、パレスチナで倒されたオリーブの木で作られた十字架である。どちらも「平和」を願って作られた物であり、立野牧師が平和ミッションの為に広島の地だけでなく、パレスチナの地にも何度も訪問し、福音の伝道を続けている事は、これらのギフトから無言のうちに語られて来た。 11時半からの日本語礼拝では、「主の年輪は語る」というテーマでメッセージを下さった。先生はパレスチナの人達が、倒されたオリーブの木を大切に家の外に置いているのを見て、どうしてか質問したそうだ。「これは私達の生まれ育ったこの地の歴史を語っている木だから、大切なのです。」という答えに心を打たれた先生は、そのオリーブの木をどうにか出来ない物かと考えた。そして倒されたオリーブの木からフルートを作り、そのフルートでコンサートをし、CDも制作し、集まったお金でパレスチナの子供達にピアノを寄付した。パレスチナの子供たちの心に、平和をもたらす音楽教育の為である。オリーブの木に刻まれた歴史の年輪のように、私達日本語部が迎えた22周年も年輪である、と先生は語られた。LCRに日本語部が創立されてから、3人の牧師がJELCから派遣された。前任牧師であった伊藤文雄先生は、立野先生の神学校時代の恩師でもあり、立野先生が前回LCRに訪問されたとき、伊藤牧師が先頭に立って日本語部を引っ張っている様子が印象的だったが、今回は、アメリカの神学校を経て牧会をされてきた岸野牧師が日本語を「ほんわか」ムードで包んでいるように感じる、と立野先生は話された。私達の日本語部は、22年の間に様々な牧師を迎え、様々な出来事があった。辛い事もあったし、楽しい事もあった。毎日毎日の積み重ねが今に至っているのである。22周の年輪一つ一つが大切な輪であり、その輪を終わらせてはならない。今22周目の輪に存在している私達一人一人が、神様に用いられて次の輪に繋げて行く大切な仕事をしているのだ。それぞれの生活の場は違い、毎日起こる出来事は違っていても、そこに関わって下さる神様と私達の関係によって、私達は繋がっている。そして神様によって繋がっていることによって、それぞれの場に置かれている私達が、それぞれの年輪を築きながら、神様の世界を広げて行く事ができるのである。 立野先生は、この日の週報にある「今日の福音」にこう書かれている: 神様から平等に与えられているものがあります。命と時間です。同じように与えられている時間も、質には違いがあります。同じ時間を過ごしても、ある人は苦しみの中で、ある人は喜びの中で過ごします。しかし、どちらにも神様が関わっておられ、その人にしかない年輪が出来上がっていきます。アメリカと日本は場所が違うけれど、神様から与えられた同じ時間の中で、主の来臨を待ち望んでいます。この別々の場所で生かされた年輪が共に歩む時、神様の世界は広がっていくのです。主の年輪はどこをみても神様がそこにおられることの証です。 立野先生の楽しくも力強いメッセージを今回も聞く事ができたことは私達日本語部が新たな年輪を重ねるこの時に、最もふさわしい神様からの贈り物であった。礼拝の後は、久しぶりに日本語部の礼拝に出席された方々も交えて、楽しい愛餐のひと時となった。短い自己紹介の中で、立野先生の説教を聞きながら、自分がこの教会に導かれた時はどんな時だったか、様々な思い出が胸にわき起こって来たと、感想を述べられた方もあり、私達がそれぞれに、立野先生のメッセージを通して語られた「主の年輪」をしっかりと聞く事ができた事が確信できた。 温かい食事の交わりの中で、これからもこのハンティントンビーチの地に置かれた私達の小さな群れが、ますます神様に用いられ、喜ばれる群れとして年輪を重ねて行こうという願いと祈りがこみ上げて来た。来年の11月はどのような宣教記念礼拝になるだろう? どのような将来が待ち受けていようと、毎日毎日を神様と共に歩み、確かな年輪を重ねて行ける私達でありたい。芙美Liang 記録 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

March 30th, 2011

2011年4月3日週報

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Tweet 週報通算#1159 をご覧下さい。2011 4 3W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

March 30th, 2011

2011年3月27日週報#1158

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Tweet 2011年3月27日 週報#1158 2011 3 27W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 過ぎ越しの食事へのご招待へのご案内は下記の リンクを押してご覧下さい。 過ぎ越し礼拝2011 4 21 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2011年4月のカレンダーをご覧下さい。 Calendar 2011 4C Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2011年4月の予定     4/6                       Soup Supper 日本語部担当      6:00PM     LCR 4/7,14,28    聖書を読む会            10:30AM       Joyce’s Lbrary 4/10      主日礼拝及びメモリアルサービス(静子G.さん) 4/3,10,17    キリスト教入門講座           10:00AM        Bercaw Hall 4/4,11     英会話教室            12:30PM    Joyce’s Lbrary 4/11        ラインダンス           1:45PM    Bercaw Hall 4/12,26     アーバイン家庭集会      10:30AM     愛子G.宅  4/15                       コロナ家庭集会       10:30AM    今井宅 4/16         タスティン家庭集会       1: 30PM     安達牧師宅  4/7,20            事務打ち合わせ                             1:00PM        JM Office 4/21      過ぎ越しの食事           12:00PM      Bercaw Hall  4/23      Egg Hunt                8:30AM         LCR                                              Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet         マタイによる福音書5章13節 「あなたはこの世の塩」”You Are The Salt of The Earth” アメリカで有名な新聞に出るコミックにスヌーピーとう犬の漫画があります。この漫画の中での主人公であるCharlie Brown は或る日、女友達のPeppermint Patty からこう言われました。「私ね昨日クラスの授業中に先生から態度が悪いと言われて、校長先生のところに呼ばれたの。それってあなたの所為よ。」「何で僕の所為なの」とCharlie Brown。「だってCharlie Brown, あなたは、私にいい影響を与えていないからよ。」 さて、それは理屈ぽい言い方かも知れませんが、確かに私たち一人ひとりはこの世の中で他の人によい影響をもたらす者になってゆくことを求められているのです。 今日の福音書はイエス様に従う者はこの世の塩となりなさいと言う忠告です。これは イエス様自身が説教なされた山上の垂訓から出てきた言葉です。イエス様は彼に従ってゆく人たち、イエスさまの弟子といわれる者は、みんなの中でPositiveな影響を他の人々に与える者となりなさいと言うことです。 その福音書の言葉をもう一度聞いてください。「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれ、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」 私たちイエス様に「あなたは此の世で塩となりなさい」と言われる理由はなんででしょうか? 塩が大切なものであることは皆が知っています。塩は色々な使い道がありますが、イエス様の時代に、塩はまず最初にお金の代わりに使われていたことを知ってください。ローマの兵隊たちは給料をある時はコインで、ある時には塩で受け取っていたのです。英語で給料はSalary ですが、その言葉の語源はラテン語のsalarium、つまり塩です。塩がお金の代わりに使われていたのです。いまでこそ塩はどこでも手に入いるし、塩はそん塩と言えば、食卓に置いてある小さなガラスのシェイカーが目に浮かびますが、ごく当たり前の必需品であり私たちはあまり塩のことを毎日考えることはありません。然し私たちの生活は塩なしでは成り立ちません。考えてみてください。日本で終戦直後、食べ物が無くてひもじい思いに駆られたこと覚えている方、この中に何人もいるはずです。 私の父の家族は東京で終戦直前に落とされた焼夷弾で1945年に家が全焼しました。それは父の家だけでなく東京の1/3が焼け野原になってしまったのです。お米なんてそんな贅沢なものは無い。やっとかぼちゃを育てて、その茎まで食べた時代です。何を食べても味が無かった。せめて塩があったらなと思ったと、そんな話しを母から小さい時よく聞きました。 私は塩holicであまり塩分を取りすぎると血圧が上がるよと何時も注意されていますが、子供の時からご飯に醤油をかけて食べるのが大好きです。ところで、最近、Wendy というハンバーガーのお店で、ハンバーガーとフレンチ・フライを食べた時、これまたいつもと変わってすごくおいしかった。その理由はそのお店で使っている塩が海水から作った塩で、これがまた美味しいのです。 塩は食べ物を保存する力を持っていることは皆さんのご存知のとおりです。冷蔵庫の無かった時代には肉や魚に塩を振りかけておくと腐らない、あるいは腐りにくいと言うことです。桃屋の江戸紫、梅干のおにぎり、塩気の多いものですが、思っているだけでよだれが出てきます。 クリスチャンは長い歴史の中でこの世の塩であるといわれます。それは何かと言うと世界の至る処で、イエス様に従うわたしたちはこの世の中でPositiveな影響を与えてきたからです。 その一番とも言われるキリスト教の貢献、contribution は一人ひとりの人間の命の尊重です。孤児院、老人ホーム、病院、赤十字という施設はキリスト教の中から出てきたものが沢山あります。例をあげて言うならば、東京にある聖路加病院は英語で、St. Luke Hospital ですがこれはキリスト教の精神を持って始まった有名な病院です。 同じようにキリスト教は人間教育、人格育成をイエス様の愛に根ざした学校、大学の設立に力を入れたのです。この国で、叉日本でも、長い歴史をもった多くの私立の大学はクリスチャンUniversityが多いのです。Harvard University は Unitarian 教会の中で、Princeton University もPresbiterian 教会によって設立されました。聞きところによるとアメリカの私立の大学の 65%も、その歴史が教会によって始められたといわれています。Los Angeles で有名な USC, (University of Southern California) もメソジスト教会によった始められた大学です。この大学のマスコットはいまこそTrojan (トロイの勇士)ですが、昔はFighting Methodist (戦うメソジストの勇士)だったのです。 日本でもキリスト教の精神に基ずいて始められ大学がProtestant派の教会の中で56校、カトリック派の中で20校あります。其れがどんな大学であるか、例を挙げるなら、同志社大学、明治学院、九州ルーテル学院、ルーテル学院、国際基督教大学、玉川大学、青山学院、聖心女子大学、東京女子大学、津田塾大学、西南学院です。皆さんのほかに知っている日本のキリスト教学校、特に其れが皆様の母校でありましたなら、今教えて下さい。私の両親は私にキリスト教の精神を持った立教大学、そして弟の高志に青山学院に入れたことを神様に感謝したとよく言ってました。 ところでアメリカの教会が一番燃えていた時代はいつだったか知ってますか?それは第二次世界大戦の後1946年から1970年にかけてです。アメリカの中で今ある教会の40%がこの時代に築かれたのです。このLutheran Church of Resurrection も1956年に始まったのです。同じ1946年から1970年にかけて、アメリカの教会は世界中の国々に宣教師を送り出したのです。私の両親もイエス様を救い主として受けルーテル教会のメンバーとなったもこの時です。私の人生の中に神様を愛する牧師先生、宣教師の方々、両親の信仰、それらが此の世の塩となって私を導いてくれたと信じます。 皆さんの中にも皆さんをイエス様への信仰に導いた何かの経験、福音の言葉、あなたを温かく見守ってくれた信仰の友、信仰の先輩がいるはずです。それら全ての人はイエス様の愛の心を持ってあなた達に人を愛する、人に愛される喜びを教えてくださったのです。 イエス様に従う、塩と呼ばれたわたし達は私たちの思い、行い、祈りを持ってまだイエス様の愛を知らない人に、神様の福音を分かち合うことが必要です。 私たちはイエス様から戴いた恵みによって生かされている喜びを、まだイエス様を知らない人たちに言葉で語ることだけでなく、私たちの生活の態度の中で現して行くのです。 最後に皆さんの中で聴いたことがある、Mahatma Ganhdhi 、50年も前のインドの首相が行った言葉を紹介しましょう。 インドに宣教師として宣教していた人がGanhdhi に聞きました。「キリスト教がインド人になじめない一番の理由はなんでしょうか?」Ganhdhi さんはこう答えました。「その理由はクリスチャンです。私は聖書を素晴らしい人生の教科書、人間の精神を高める神様からの本だと信じますが、その教えを守らないクリスチャンがあまりにも多すぎる。クリスチャンがクリスチャンであることはその人の態度で表される」と答えたそうです。 それに私はアーメンと答えます。クリスチャンだと言いながら、イエス様の精神、イエス様の人を愛する精神が人生の基本になっていなければ、私たちも塩気のなくなった人間になってしまいます。 もうひとこと言います。イエス様は「わたしたちは皆、地の塩となることができる。」あるいは「あなたたちは地の塩であるべきである」と言っているのではありません。イエス様は今ここで「あなたは地の塩である」と宣言されているのです。そのことを心にこめて私たちの毎日の生活が神様の御心にかなうものとなりますように祈ります。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace