Archive for January, 2013

Tweet 2013年2月3日の週報 Sunday English Bulletin 1246E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet コへレトの言葉3章1節―17節 「何事にも時がある」 “There is a Right Time for Everything” 私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 浅野先生というルーテル市ヶ谷教会の牧師さんが今年の年頭のエッセイを「突き刺さる時間」という題で書いているを読みまして、時間というものはなんであるか、考えることがありました。 最初に時間とはどこで生まれたのでしょうと先生は質問しています。私たちは時間に追われて生活をしているのですが、時間とは誰が考え出したのでしようか?勿論私たちの生活は時間を気にして動き回っているのですが、物理学者はそもそも、時間などと言うものは存在しないと言うのです。私は以前に日本人ほど時間を気にする民族はいないと書かれた文章を読んだことがあります。新幹線は朝6時から7時までに毎日5分おきに東京から大阪のに出発します。それも十両編成です。日本の新幹線ほど正確に時間通りに動くものはないと言われています。私は思うのですが、日本人は誰でも家を出る前に時計をはめて、夜、時計を外して床に入るまで、腕時計とにらめっこして生活しているのではないでしょうか? 今日の旧約聖書はコへレトの言葉です。皆さんがもう何回も聞いたことがある言葉はコへレトの言葉3章1章の「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。それは生まれた時、死ぬ時、植える時、また植えたものを抜く時である、コへレトはすべて定められた時があると断言するのです。 しかしコへレトの言う時間は神様の定めた時間であって、私たち一人一人が作り出すものではないのです。私たちの人生はそういう意味で、神様からいただいた、あるいは預かった時と言っても良いでしょう。 私がこの復活ルーテル教会の日語部の礼拝に始めて来たのは1989年の夏の終わりでした。その年の春、ELCAのシカゴ本部よりPacifica Synod とSoutheran California West synod よりMission Director としての招聘を受け、ダラス・テキサスから家族とともにコロナに引っ越ししたのです。その時、娘のKatie は、まだ4歳、息子のAndrew は生まれて3か月目でした。コロナはリバーサイドの隣町ですから、私とNancy にとっては人生の中で一番長い間暮らしているところです。今もう24年この土地に住んで来たわけです。子供たちもここSouthern California が自分たちの故郷なのです。 さて時を遡のぼり、1948年、第二次世界大戦が終わり、日本がまだ戦争の恐ろしさから立ち上がらなければと少しずつ再建の夢を抱き始めた時の様子を思い出してください。この年にアメリカの特に、Protestant の教会の団体が、日本にイエス・キリストによる救いの希望を与えようと、多くの宣教師を送り始めたのです。 その一つの教会の団体はEvangelical Lutheran Church という北欧系のアメリカ人の教会で、特にNorway からの移民たちが多い教会でした。Evangelical Lutheran Church は戦争が終わったが、まだ暗闇の中で何も希望のない日本に伝道調査団を送り込んだのです。その主事にあたったのが、Dr. Olaf Hansen という宣教師で、その人により東京の巣鴨という山手線の近くに、倉のあった大きな家と土地を買い取り、アメリカから宣教師とその家族の住めるアパートを建てたのです。 同じころ、私の両親はお見合いをし、結婚をすることを決めていたのです。又、父も母もすでに洗礼は受けていましたから、結婚式はぜひ教会でしたいと考えていたのです。そんな時、父は先に述べた宣教師のOlaf Hansenさんと川島亀三郎という英語のできたルーテル教会の牧師さんに出会い、ぜひ私たちの教会にいらしてくださいと勧められ、自宅から歩いて3分のところでしたので、これは好都合と、この小石川ルーテル教会の初めの会員になりました。その時それは1950年のイースターの日でした。その年の11月に両親は小石川教会で第1号の結婚式を挙げ、母は、着物と角隠し、短刀を帯に隠してという面白い日本式の結婚式を見に多くのルーテル教会の宣教師達が来られたと聞いています。5年ほど前、トーレンスのFirst Lutheran Church で宣教師として働いていた山本裕先生はその時神学生で小石川教会に来ていましたので、父と母の結婚式に出席していたのです。そう云う訳で、私は赤ちゃんの時から両親に連れられて教会に行き、日曜学校にも教会礼拝にも何の違和感を持たずに出席していました。又、教会での遊び相手も宣教師の子供たちでしたので、そのころからアメリカに行ってみたいと思っていたのです。父は、早稲田大学の土木課を卒業後、人事院に勤めていましたが、役所の仕事が自分の好みではないと早く悟り、大学時代の先輩のお父さんが始めたダイヤモンド経済雑誌社に入社、そこで父は多くの会社史の編集の担当をしたのですが、大学時代、それは戦争の時期で英語を習うことができなかったことをいつも残捻と思い続けていたのです。ですから私がアメリカの高校にExchange student として一年行きたいといった時、是非行きなさいと言ってくれたのです。そして立教大学を卒業する前にアメリカで神学校に行きたいと言った時も母は悲しそうな顔をしていましたが、父は、自分のやりたいことをやるのが一番と賛成してくれたのです。そういうわけで、私は娘にも息子にも、自分のやりたいことをしなさいといつも言っています。 皆さんの中で、岸野先生、また同じことを言っていると思われている方もいるでしょう。しかし、今年、私の34年目になる牧師としての働きは、いつも神様からのここに行きなさい、あそこで伝道をしなさいとのガイドがあったのです。 一番最初の招聘はAssistant Pastor としてPhiladelphiaの歴史の古い教会でした。多くのお年寄りの会員を訪ねることと、Youth Ministry を尋ねることが私の主な仕事でした。 このZion Lutheran Church はほとんどがblue collarの教会でしたが、何もまだよく知らない私の手を取り、足を取り助けてくれたのです。 続いて2回目の招聘は1983年にDallas郊外 のPlano というところで、設立してからまだ間もない、テキサスの中で伸びていた教会の副牧師のポジションでした。この教会で、私の役目は新しく教会を訪ねてきた人たち、又、新しく引っ越ししてきた人たちに教会の案内状を持って訪ねることでした。 又60人のHigh school student のConfirmation の担当をまかされました。Plano でのministry の3年目にTexas 州での伝道主事、Mission Director から新しい教会を始める仕事をする気があるかと聞かれ、しばらく家内と考えた末、これも神様からのCalling 、招聘ではないかとそのチャレンジを受け取りました。6,000件もの新しい住宅が建つという今まで草原であったGrand Prairie というところで毎日毎日door knocking をして少しずつ新しい教会に興味を示した人たちを家に招き、その輪を大きくしていったのです。これは自分でも信じられないことですが、door knocking を初めて4か月目にShopping center の一部を借りて礼拝をする機会を与えられました。それから1年後にOur Redeemer Lutheran Churchが創立されたのです。 私はこの教会を出ようとは考えてもみなかったのでが、1989年の春、Chicago のELCAの国内伝道局より南カリフォルニアでのMission Director としての招聘を受けたのです。その最初のコンタクトはこのLCRの日本語部の伝道を支えていく仕事、また多くの新しい教会を築くMission developer である牧師さんたちの教会設立の仕事のアドバイザーとして働きました。1995年から1998年はInterim minister としてClaremont とWhittier の教会で働き、2010年からLCRの日本語部担当の牧師として今日まで来たわけです。 今、これらすべての伝道の仕事を振り返ってみる時、私は神様の導きの中に生きてきたとの強い確信があります。 しかし、神様とともに生きるとは何時も私たちの人生、仕事が旨くゆく、成功するということではありません。その反対に、失敗したことがたくさんありました。自分が如何に惨めな者であるかを知らされた時も沢山ありました。皆さんもご存知のように、私は自分が惨めな時は無口になり、いつもの活気もなくなります。そのことを気づいていた方もいらっしゃるでしょう。しかし自分では私は本当はみんなの中で、楽しく物事をやりたい、悲しみに沈んでいるいる人と共に泣き、ともに重荷を負いたい。お互いが、お互いの思いを心の底から語り合い、許しあい、受け入れあい、泣きあい、祈りあう、そのような場を、神様から与えられたのです。それは、皆さんにとっても人間として最高の時と場であると信じます。 今日がLCR 日本語部の私にとって 最後の日と考えると寂しい気持ちになりますが、実際には祈りの中で共にいることを覚えてください。そして、もう一つお願いがあります。この教会のリーダーをいつも一人一人の名を指して祈ってください。日本語部でいつも、一生懸命お世話してくださっている、芙美さん、祥子さん、この教会の日本語部のwebの管理をしている愛子さん、礼拝の中で受け付け、司式、お祈りを担当する皆さん、誕生日のケーキを作ってくださる民さん、オルガニストであり聖歌隊のリーダーであるさと子さん、そして、カール先生、又、これからの日本語伝道の主事となる安達牧師を皆さんの祈りに覚えてください、支えてください。牧師は信徒のために祈りますが、同じように牧師も信徒さんからの祈りと励ましが必要です。 明日から私は1週間にわたり、日本に行ってきます。今では電話にも出られなくなり、転んでばかりいる母を訪ねます。意志疎通が難しくなった母にとって息子のゆうちゃんは一年に1回しか私を訪ねてくれないと思っていた時もあったでしょう。ルーテル老人ホームに入ったときはお父さんも一緒にいたのに、今は一人ぼっちで寂しいと思っているかもしれない。もっと親孝行をしたかったと思うのですが、母は何時もイエス様に対して子供のような信仰を持っていました。母がよく私がまだ幼い時に歌ってくれた讃美歌は、「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す。」。さようならを言うのは、もの悲しいことですが、同じイエス様を信じる私たちは信仰によって繋がれています。ただ会員が多くなることが教会の目的ではありませんが、一人でも多くの人が、主イエス・キリストからの恵みの愛を受け、その愛をお互いの生活の中で実行することができるよう祈りに覚えます。 最後にもう一度、コへレトの言葉に戻ります。神は「永遠を思う心を人に与えられる。しかし神の時間は時計では測れません。どの様な人生も神様の時間の中で与えられてきたのです。初めから終わりまでの私たちに託された時間の中で、お互いにお互いの思いを打ち明けることができるように、そしてそこに神様も皆さんと共にいてくださることを覚えてください。 私たちは神様に生かされているのです。イエス様を信じる者は幸いなりとは信仰を持つことです。どうか、この神様の愛が皆さん一人一人のうえにありますよう祈ります。アーメン。 どうか、私のこれから始めるinterim ministry を皆さんの祈りに覚えてください。人知では測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守られるように祈ります。アーメン。 There Is A Time For Everything  「何事にも時がある」 Ecclesiastes 3:1-17 May God the Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace. Amen. Recently, I read the article written by the Rev. Asano, the pastor of the Ichigaya Lutheran Church of the Japan Evangelical Lutheran Church (JELC). He was asking the reader, “What is time”? He is asking, “What is time”? And where does time come from? Who invented the notion of time? I have never thought about this but according to the physicists, there is no such thing as time. It’s the invention of humans by observing the universe. I still don’t understand this, but I do know that our lives are organized by our watches and clocks and these things give us a sense of time, time limits, and the sense of short and long periods of time. I recently read the article that stated that there are no…

Tweet Calendar 2013年2月 2013年2月聖句カレンダー 聖句Calendarを参考に毎日少しでも良いですから 聖書をよみましょう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1245号 (日本語) 2013年1月27日の週報 週報通算!1245E号(英語) Sunday English Bulletin 1245E> Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet コリントの使徒への第一の手紙2章1-11節 「あなたに与えられたギフト(賜物)」 “Spiritual Gift Given to You” 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 皆さんの中で英語のCharisma 、あるいはCharismaticという言葉を聞いたことがあるという人がいらっしゃると思います。それは日本語に訳すと「その人に特殊な人格」あるいは「その人の持っている人を引き付ける力」ということです。Charisma はまた英語ではGift とも訳することもできます。 若くして大統領になった、John F. Kennedy はその人柄、そして彼の演説に人を引き付ける力があったとも言われていました。私たちも過去20年の間に大統領となった Ronald Reagan, またBill Clinton も人を引き付ける力があったのを知っています。 テレビ、映画の中でも人を引き付けるようなギフトを持った俳優さんもいます。私たちの教会の仲間の中でもお花、料理、お茶、俳句、お習字などの先生もいます。これらのギフトの持ち主は、その才能を私たちの造り主である神様からいただいていると言っても過言ではないでしょう。 今日の使徒書、コリントの信徒への手紙の12章に、私たちクリスチャンの持つギフトについて書かれています。それは優れた知恵を持っている者、信仰を持っている者、癒すことのできる者、奇跡を行うことのできる能力のある者、預言を語ることができる者、そして、異言を話すことができる者と多くの賜物を持っている人たちがいるのです。又このほかにも経営,運営する能力のある人たち、財産を多く困っている人たちに分かち合えることのできる人たちもいるのです。又私たちにとってこれはよくわからないものですが、異言を語ることができるというギフトを持つ者もいるのです。 この他にも、教えること、困っている人を助ける才能を持っている人もいるのです。これらの賜物はすべて神様から私たちに与えられているのです。私たちの持つ才能、知識、他人を助けることのできる思いもすべて、私たちは神様からいただいているのです。私たち一人一人が持っているギフトを私たちクリスチャンはこれを神様、イエス様から、これはあなただからこそできる才能、その才能をギフトとしてお互いの生活の中で、分かち合いなさいと教えられているのです。 ところで皆さんの家族、友達の中で、私はCharismatic Church に行ってますという人もいると思います。このCharismatic Church は今世界中に広まっているクリスチャンの心に神様を感じた時には震える、踊りだす、異言を語る人たちの多い教会です。 私たちの教会の礼拝の内容に親しんでいる私たちの教会の礼拝中に異言を語られる人が一人でもいたら「私は居心地がよくない」と言われるかもしれませんが、キリスト教の歴史の中で異言を語る才能のある人たちの集まった教会はいつもあったと言われています。 ところで、皆さんは自分の持つSpiritual Giftは何であるか知ってますか? それは私たち一人一人違うのですが、そのギフトを持っていない人は一人もいません。誰がどんなギフトを持っているのかは、友達とか、家族の人から言われて、「ああ、そうなのか、そう云われれば、私はいつも私たちの信仰の友を毎日祈りにおぼえて、感謝していますという、素晴らしいイエス様の弟子たちも、私たちの中に何人もいるはずです。 しかし私には何もそのようなギフトがないという方もいられるとおもいます。その人達は自分のギフトが何であるかなど考えてみたこともなかったからです。 私は33年にわたる牧師の仕事の中で、訪問をすることが自分のSpiritual Giftであるとわきまえています。それは病院、老人ホーム、テキサスにいた時は,監獄にも定期的に教会員に、この人を訪ねてくださいという機会を与えられました。 日本語礼拝の中に小さな子がいないので、Chirldren sermon の機会があまりなかったのは寂しかったのですが、私にとって、一番神様の愛を素直に心に感じていた3,4歳の子供たちが聖餐式にお父さん、お母さんと共にイエス様の体であるパンと、血であるグレープジュースをいただけるように聖餐式を全ての人にオープンしたことは大きな喜びでした。 子供はConfirmation の教育を受けたのちの13歳ほどで初めてCommunion を受けることができるという習慣を、イエス様のギフトである聖餐に、だれでも、そこでイエス様と出会うのですよと子供と両親は一緒にイエス様を聖餐という形で受けてくださいという形に変えたのです。 今でもこれは昨日のようの覚えています。お父さんとお母さんに連れられてきた3歳の女の子と5歳の男の子が、聖餐を受けに前に出てきました。両手をこのように掲げ、イエス様の体であるパンをいただき、また小さなカップに注がれたグレープジュースをぐっと飲んで、今度はお父さんとお母さんに、「イエス様のパンとジュースたべちゃった」と。 私は思わず、涙が出てくるのを感じました。15歳になってからやっと聖餐式にあずかれるのではなく、神様はもっと進んでご自身を幼子までに現すのです。 イエス様はイエス様のほうから私たちの方にご自身の愛を示してくださったのです。そしてイエス様の愛は私たちを永遠に神様の子供として注がれるのです。それが、人生の最高のギフトなのです。アーメン。 1 Corinthians 12:3-11 “Spiritual Gifts Given To You”Pastor Yutaka Kishino May God the Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace. Amen. Have you ever heard the word “Charisma?” or “Charismatic”? In the United States many great presidents were told they had wonderful “Charisma” or in plain English it means a “Gift”. I remember President Kennedy had a youthful charisma and many people were attracted to this young politician when he ran for the office of President. In recent history President Reagan and President Clinton had what is called a communication charisma. I also believe TV personalities such as Barbara Walters, Walter Cronkite, and Oprah Winfrey display a great deal of charisma and the Gift of communication and sincerity. The words “Charisma” and “Charismatic” are often attached to the TV personalities, but everyone here has the gift of charisma and communication that has been given to you by God. Most people can say that “I have the gift of cooking”, or “painting” or “flower arrangement”. Musical talent gifts are also found among many of the people in this congregation. The word “charisma” really means gift as I mentioned already. And today’s second lesson from the Bible, first Corinthians chapter 12 mentions many other kinds of gifts. They are…

Tweet 主の洗礼日    ルカによる福音書3章15-17、21-22節 「洗礼を受けるとはどういう事ですか?」 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方の上にありますように。アーメン。 これは今から25年ほど前、テキサス州のGrand Prairie という所で新しいルーテル教会の伝道牧師として働いていた時、毎週 色々な宗派の牧師さんたちとBible study をしていた時の話です。そこに集まった牧師さんは、バプテスト、メソジスト、エピスコパル、カトリック、そして、聖霊派の牧師さんたちでした。 その日のトピックスは洗礼についてで、お互いの教会がどのように洗礼式をあげるかが話されました。最初にバプテストの牧師さんは、カトリック、ルーテル、聖公会、メソジスト教会でどうして子供が洗礼を受けることができるのかと質問したのです。彼の理解では洗礼を受けるのは物事をわきまえることのできる15歳以上でなければいけないというのです。洗礼は自分の意志で受けることを決めるのであって、赤ちゃん、小さい子供はそれができないから、teenagerになるまで洗礼を受けさせてはいけないというのです。又聖霊派の牧師さんもそれに合わせ、赤ちゃんはまだ神様のことがわからないので、洗礼は聖書を読めるようになるまで待たなければならないと言いはじめたのです。 皆さんの中にもBaptist 教会、或いは聖霊派、Holiness church で洗礼を受けた人があると思います。自分で神様のことがわからないのは赤ちゃんだけですか?赤ちゃんだってお父さん、お母さんの愛を感じているはずです。神様の愛はどの様なものであるか、はっきり私たちがわからなくても、神様、イエス様に愛されている、また、お母さん、お父さんに愛されているという思いは小さい時から感じていたはずです。洗礼式の主人公は神様であるイエス様です。私たちは幼子も含め神様の子供であるがゆえに洗礼式によりそれを確かめるのです。 ところで、皆さんがどの様に洗礼を受けられたか憶えていますか?私は生まれて3か月後の4月12日に小児洗礼を受けました。勿論そのことは何も覚えていませんが、旧約聖書の「コへレト言葉」と言うところに「あなたの造り主を覚えよ。年が寄って、私には何の楽しみがないと、言うようにならない前に」と語っています。 人を創造された方に出会わない限り、人に生きる意味も目的も、全く理解ができないのです。洗礼を受け、私は神様の子供である確信ができるものは幸福です。又神様が、私たちの信仰の父であることを認める時、私たちの短い人生も神様によって生かされている、それは私たちの信仰の仲間と共に、私たちの送る人生に大きな喜びが生まれてくるのです。 さて私は洗礼は神様のギフトであるということができますが、洗礼を受けたことがないとは神様の恵みにあずかれないという意味ではありません。この世に生まれてきた全ての私たちは、神様に愛されるために生まれてきたのです。神様に愛されるとは神様の子供となることです。神様の子供である私たちが人生の中で実行しなければならないことはお互いを愛することです。お互いを大切にすることです。 さて皆さんの中「たまりの」という双子の姉妹が歌った「君は愛されるために生まれた」という歌をおぼえている方がいると思います。皆さんから「岸野先生又歌いだすのですか」と言われてしまうかもしれませんが、そのとおりです。しかし今回は皆さんとアカペラで歌ってみたいのです。歌の歌詞は週報の中に織り込んであります。 君は愛されるために生まれた。君の生涯は愛で満ちている。 君は愛されるために生まれた。君の生涯は愛に満ちている。 永遠の神の愛、我らの出会いの中で実を結ぶ。 君の存在が私には、どれほど大きな喜びでしょう。 君は愛されるために生まれた。今もその愛、受けている。 新約聖書の使徒書の多くを書いた聖パウロは私たちは罪の奴隷で足枷をはめられているものですが、洗礼により私たちの罪が取り除かれたと教えています。又洗礼により私たちは神様の子供となるのです子供のいないカップルが4歳になる女の子を養子として受け入れました。この子の母親はこの父親がいったい誰だかわかりません。其れにもう一人の娘を抱えて精一杯の生活です。4歳の娘は誰からも愛された記憶がありませんでしたが、養子として受け入れてくれたお父さんとお母さんは最善を尽くしてこの子を自分たちの娘として育てたのです。同じように、どんな状況の中に生まれた私たちも洗礼により神様の大切な子供となったのです。この洗礼により、神様の息子、娘となるのです。 ルーテル教会を起こしたMartin Luther は私たちが悲しみに駆られる時、心が重い時、「私はイエス様に愛されている、洗礼を受けている息子、娘と呼ばれる者であると自分に言い聞かせなさい」と教えたと聞いています。 同じイエス様とイエス様の聖霊が私たちの生涯を愛で満ちているものと見守ってくださっているのです。 アーメン。 The Baptism of Our Lord” Communion Sunday January 13th 2013 Luke 3:15-17, 21-22 Tell me what does it mean to be baptized?” May God the Father and the Lord Jesus Christ give you Grace and Peace. Amen. At the local ecumenical pastor’s meeting they were talking what it means to be baptized and how to baptize people. A Methodist pastor and a Baptist pastor got into some heated discussion. The Methodist pastor asked if a parson was baptized in the pool, how deep the person should go down to the water. “Up to his chin?” The Baptist pastor said, “No!” The Methodist pastor then asked if one was considered baptized if immersed up to his nose. Again the Baptist pastor’s answer was “NO!” “Well, if you immerse him up to his eye brows, do you consider him baptized?” asked the Methodist pastor once again. For that Baptist pastor said, “You don’t seem to understand. He must be immersed completely in water until his head is covered.” The Methodist pastor replied, “That’s what I’ve been trying to tell you all along. It’s only a little water on the top of the head that counts.” Jesus did not tell us how much water to use or how it must be applied. If you did not know, the hundreds of pastors has been writing dissertations on how to baptize…

Tweet 週報通算#1244号(日本語)   2013年1月20日の週報 週報通算#1244E号(英語) Sunday English Bulletin 1244E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet イザヤ書60章:1-6節 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方にあるように。  アーメン 私たちの中で、この季節は夜が長くて昼が短いと、少しもの悲しいと思う方がいるはずです。では、皆さんにバローというアラスカの一番北端にある町に行ったと想像してください。この町はアメリカの最北端にある町で、人口は4257人、そのほとんどが、エスキモーです。一年の平均温度はー19度C, 平均風速は34kmです。 ところで、このバローで最後に太陽が見えるのは11月の18日で、次に太陽が見えるのは1月の24日です。その間65日は暗闇の世界です。ですから毎年最初に太陽が顔を出す日は町の全ての人が、ご来光を見るために集まり、盛大なパーティが行われるのです。 私は今日の福音書の記事はまさに預言者イザヤが、アラスカのバローの人たちに話しているような気がするのです。もう一度イザヤ書の60章1節から2節を読んで見ましょう。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光はのぼり、主の栄光はあなたの上に輝く」。 しかし、神様の語られた光と闇は私たちの日常の生活の中で経験するようなものではなく、荒れ模様の暗闇の空から輝く刀が暗黒の世界を切り倒してしまうような光です。 今日は顕現節の初めの日曜日です。皆さんは顕現節という言葉を毎年聞いているのですが、それはどういう意味か御存じでしょうか? 顕現とは何かが本体を表すという意味です。ですから、アラスカのバローで暗黒の日々が65日続いた後に太陽がそこで待っていた人たちに出てくるその姿です。 今日から二か月に渡り、私たちは、この顕現節に、神様が、私たちに救い主としてのイエス様として現れたことを知るのです。 皆さんがご存知のように、この世界はいまだ多くの暗い力に囲まれています。アメリカと同盟している国から送られた兵隊たちがもう10年近くアフガニスタン、パキスタン、イラク、の国々で平和維持を保つよう警備にあたっているのですが、いまだそこに住む住民にとって権力争いが続いているのが実情です。そこに住む多くの人たちは戦いのない時を願っているのです。私たちはシリヤの国での内戦ですでに6万人もの犠牲者が出たことも知っています。サリンのような毒ガスを持っている軍隊が、それを使ったら、それこそヒットラーのユダヤ人殺害と同じようなことになってしまいます。 また最近悲しい事件がコネチカット州のNewtown という町で2週間ほど前に起ったのを皆さん覚えているはずです。一人の青年が、ピストル、機関銃を持ってSandy Hook Elementary School に入って来て20人の生徒と6人の先生を射殺したのです。なぜ無邪気な子供たち、またその子供たちをかばうように、自分の命を落とした先生たち。 神様は、この世界を創造された時、何故このような暗い出来事で人の命を取るようなことを、あなたのイメージで作られた私たちの内に悪魔のような思いを持つことができるような人を作られたのでしょうか?まさに暗闇は私たちを悪魔の味方にするかのように様子を見ているのですか?しかし、私たちはあなたに出会い、あなたの愛をいただきました。其れこそあなたの愛は私たちにとって、冬の寒い中で与えられた暖かい神様のギフトです。イエス様が私たちの心に住むことによって私たちは、神様の御心、それはお互いを大切にしようとの思いが育つのです。 私たち、イエス様に従うものにとって、どんなにこの世の中で、暗いことが起ころうと、私たちはイエス様の光と愛は私たちを照らし、その光は消えることがないということです。 さて今日の説教の最後に、もう一度、バロー、アラスカの人たちのところに帰ってみましょう。そこに今、太陽の光は見出せませんが、5月の10日には地球は反対に傾き、その時から、8月の2日まで太陽が24時間輝くようになるのです。同じことは、私たちの心の奥深くにある魂についても同じく言うことができるのです。イエス様の恵みと 憐れみを私たちの心に持つことができる私たちは、私たち自身が神様の光を放つことができるようになるのです。どんなに暗い思いに駆られる時、あなたに対してのイエス様の光は消えることがないことを覚えていてください。 もう一度イザヤ書聞いてください。60節、1節と2節を聞いてください。 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は登り、主の栄光はあなたの上に輝く」。アーメン。 Day of Epiphany (From Darkness to Light) May God the Father and the Lord Jesus Christi give you grace and peace. Amen. Many people complain about how dark it is this time of the year. But imagine living in the little town called Barrow, Alaska. It is located on the farthest northern tip of the state of Alaska, above the Arctic Circle. If you think it’s dark in the morning this time of the year, you have not seen anything. In Barrow Alaska, Sun sets in the afternoon on November 18th, and it doesn’t rise again until January 24th. Can you imagine the total darkness for 65 days? But the sun does rise for a moment on January 24th, the whole town comes out to celebrate, because finally, there is light again. It seems that the prophet Isaiah was speaking to the people of Barrow, Alaska, when he writes in verse one of our Old Testament lesson for this morning; “Arise, shine, for your light has come!” What God’s word talks about there is a different kind of light, and a different kind of darkness. And when this special light that God speak about begins to shine though that ugly darkness, the results are much more spectacular and joyful than anything you could experience in northern Alaska. Today is the first day of the official beginning of the Epiphany season of the…

Tweet 週報通算#1243号(日本語) 2013年1月13日の週報 週報通算#1243E号(英語) Sunday English Bulletin 1243E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年1月6日の週報 Sunday English Bulletin 1242E